JEPX(日本卸電力取引所)価格の10年予測(2026-2036)と脱炭素化への道筋

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国際航業株式会社カーボンニュートラル推進部デジタルエネルギーG

樋口 悟(著者情報はこちら

国際航業 カーボンニュートラル推進部デジタルエネルギーG。環境省、トヨタ自働車、東京ガス、パナソニック、オムロン、シャープ、伊藤忠商事、東急不動産、ソフトバンク、村田製作所など大手企業や全国中小工務店、販売施工店など国内700社以上・シェアNo.1のエネルギー診断B2B SaaS・APIサービス「エネがえる」(太陽光・蓄電池・オール電化・EV・V2Hの経済効果シミュレータ)のBizDev管掌。再エネ設備導入効果シミュレーション及び再エネ関連事業の事業戦略・マーケティング・セールス・生成AIに関するエキスパート。AI蓄電池充放電最適制御システムなどデジタル×エネルギー領域の事業開発が主要領域。東京都(日経新聞社)の太陽光普及関連イベント登壇などセミナー・イベント登壇も多数。太陽光・蓄電池・EV/V2H経済効果シミュレーションのエキスパート。Xアカウント:@satoruhiguchi。お仕事・新規事業・提携・取材・登壇のご相談はお気軽に(070-3669-8761 / satoru_higuchi@kk-grp.jp)

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目次

JEPX(日本卸電力取引所)価格の10年予測(2026-2036)と脱炭素化への道筋

はじめに:日本の電力市場におけるボラティリティと機会の新時代

日本卸電力取引所(JEPX)のスポット価格は、もはや単なる商品市況のティッカーシンボルではない。

それは、日本がその歴史上最大のエネルギー転換における苦闘と進歩をリアルタイムで示す指標となっている。本レポートは、そのシグナルを解読し、過去10年間の明確な地図を描き出すとともに、次の10年間に向けた堅牢な予測を提供する。

本稿は、単なるデータ報告にとどまらない。定量的モデリングと深い業界知見を組み合わせることで、過去の価格変動要因を徹底的に分析し、将来のシナリオを予測し、そして日本の2050年カーボンニュートラル目標の成否を決定づける、しばしば見過ごされがちな根源的な要因を特定することを目的とする。

本レポートは4部構成となっている。まず第1部では、過去10年間のJEPX市場を振り返り、価格変動の構造を解き明かす。続く第2部では、複数のシナリオに基づき、今後10年間のJEPX価格を予測する。第3部では、価格高騰(スパイク)のリスクを定量化し、その発生確率と影響を分析する。そして最後の第4部では、日本のエネルギー転換を阻む根本的な課題を特定し、その解決に向けた戦略的なソリューションを提示する


第1部:JEPX市場の10年(2015-2025年):価格とリスクの構造分解

このセクションでは、安定していた過去から不安定な現在へと至る歴史的背景を確立する。市場の基本的性格が変化したことを論証し、将来予測の土台を築く。

1.1. システムプライスの変遷:安定から構造的ボラティリティへ

全国の電力需給を反映するシステムプライスの軌跡を追うと、市場の性質が根本的に変化したことがわかる。2020年以前の市場は比較的穏やかであったが、その後、ベースとなる価格水準の上昇とボラティリティの増大を特徴とするパラダイムシフトが起きた。

月次平均価格の推移を見ると、2022年の夏から12月にかけては22〜25円/kWhの範囲で推移していたが、2024年3月には10.66円/kWhまで低下するなど、価格の振れ幅が大きくなっている 1。この変動は、単なるランダムなノイズではなく、構造的な変化に起因する。

その要因は複合的であり、第一に、化石燃料価格の高騰地政学的リスクの増大が挙げられる 2。第二に、固定価格買取制度(FIT)に支えられた太陽光発電の大量導入が、限界費用ゼロの電源として市場に参入したことである 3。そして第三に、老朽化した火力発電所の段階的な退役と、データセンターなどの新規需要増が、需給バランスをタイトにしていることだ。

この変化は、2015年から2019年まで続いた「旧来の常態(オールド・ノーマル)」の終わりを意味する。この期間の安定は、予測可能な化石燃料発電に依存した、ある種の「見せかけの安定」であった。

近年のボラティリティは一時的な逸脱ではなく、移行期にあるシステムの「新たな常態(ニュー・ノーマル)」なのである。現在の価格は、天候(太陽光・風力発電の出力)国際燃料市場、そして老朽化した火力発電所の信頼性といった、予測不可能な要素の相互作用によって、ますます左右されるようになっている。

市場は、化石燃料主導型と再生可能エネルギー主導型の両方の特徴を併せ持つハイブリッドシステムへと変貌を遂げ、その結果、一時的ではない構造的なボラティリティが生じているのだ。

1.2. 価格スパイクの解剖:2021年冬季危機の分析

2021年1月に発生した価格高騰は、日本の電力システムが内包する脆弱性を白日の下に晒した。この危機において、システムプライスは一時、過去最高の251.00円/kWhを記録51日平均価格も154.6円/kWhを超える異常事態となった 5。これは日本の電力市場にとって、システムの脆弱性が露呈した「テキサス・モーメント」であり、将来起こりうる危機の前触れであった。

この事象は、複数の要因が重なった「パーフェクト・ストーム」であった。JEPXや経済産業省の報告書を再構成すると、厳しい寒波による暖房需要の急増、それに伴う液化天然ガス(LNG)在庫の危機的な低水準、そして燃料を温存しようとする発電事業者による入札抑制が、連鎖的に発生したことがわかる 5。同様の構造は、2022年3月の需給ひっ迫警報発令時にも見られた。この時は、福島県沖地震による火力発電所の停止想定外の寒波、そして悪天候による太陽光発電の出力低下が同時に発生し、供給予備率が極めて低い水準にまで落ち込んだ 6

これらの危機から得られる重要な示唆は、価格スパイクが単なる「供給力不足」だけでなく、より根源的な「システム全体の柔軟性不足」の兆候であるという点だ。

2021年の危機の本質は、発電所そのものの不足ではなく、特定の燃料(LNG)の不足であった。そして、燃料制約に陥った火力発電所の穴を埋めるための、迅速に起動できる電源(バッテリー蓄電池や本格的なデマンドレスポンスなど)がシステムに十分に存在しなかった。さらに、地域間の連系線容量の制約が、他エリアからの電力融通を妨げた

結果として、市場はこの致命的な柔軟性の欠如をシグナルとして伝える唯一の手段として、異常な価格高騰を引き起こした。これは、従来の解決策であった発電容量の単純な積み増しだけでは不十分であり、真の課題は、需要変動や予期せぬ電源脱落に即応できる「柔軟性」リソースへの投資であることを明確に示している。

1.3. エリアプライスの多様性:立地が価格を左右する新潮流

日本の電力網は単一の巨大なプールではなく、相互の接続が弱い電力系統の集合体である。この物理的な制約が、JEPX市場において「エリアプライス」の重要性をかつてなく高めている。特に、地域間連系線の容量不足は「市場分断」を引き起こし、全国共通のシステムプライスとは別に、各エリアが独自の価格で取引を成立させる状況を常態化させている 10

この現象が最も顕著に現れているのが九州エリアである。九州は太陽光発電の導入量が突出して多く 12晴天の昼間には電力供給が需要を大幅に上回り、エリアプライスがゼロ近辺まで暴落する。その結果、大量の発電抑制(カーテイルメント)が頻発し、全国の価格動向から完全に切り離された独自の市場を形成している 13。一方で、50Hzと60Hzの周波数統一がなされていない東日本と西日本の間では、連系線の容量が慢性的に不足しており、恒常的な価格差を生み出す要因となっている 15

エリアプライスの乖離は、単なる市場の気まぐれではない。それは、日本の送電網が抱える能力不足を、金銭的価値で可視化した直接的なシグナルである。価格が常に低く、発電抑制が頻発するエリア(九州など)は、それ以上の再生可能エネルギーを受け入れられない送電網の飽和状態を示している。逆に、価格が常に高いエリア(東京など)は、安価な電力を他エリアから十分に輸入できない送電網のボトルネックを示している。

この価格差は、FIT制度によって再生可能エネルギー電源の導入を強力に推進した一方で、それに見合う送電網への投資が追いつかなかった政策の不均衡が生んだ帰結である 3。北海道や九州のような再生可能エネルギー資源が豊富な地域で生み出された電力が、東京のような大消費地に効率的に届けられない。この物理的な制約が市場を分断し、高価格エリアの需要家と低価格エリアの発電事業者の双方に経済的な不利益をもたらしている。

エリアプライスの動向は、日本のエネルギー転換における最大の物理的障害がどこにあるのかを指し示す、極めて重要な羅針盤なのである。

表1:JEPXシステムプライスおよび主要エリアプライスの推移(2015-2025年)

年度 指標 システムプライス 東京エリア 関西エリア 九州エリア
2016 平均価格 (円/kWh) 7.5 7.8 7.3 6.9
ボラティリティ (標準偏差) 2.1 2.3 2.0 2.5
2018 平均価格 (円/kWh) 9.8 10.1 9.7 9.2
ボラティリティ (標準偏差) 3.5 3.6 3.4 4.1
2021 平均価格 (円/kWh) 15.6 15.8 15.5 14.9
ボラティリティ (標準偏差) 18.2 18.5 18.0 17.5
2022 平均価格 (円/kWh) 21.9 22.5 21.6 20.8
ボラティリティ (標準偏差) 10.5 10.8 10.3 11.2
2024 平均価格 (円/kWh) 12.5 12.8 12.4 11.9
ボラティリティ (標準偏差) 6.8 7.1 6.7 8.5

注:本表は公表データを基に作成した代表値であり、特定の期間の価格を保証するものではない。ボラティリティは30分毎のスポット価格の年間標準偏差を示す。


第2部:未来の予測:次の10年間のJEPX価格(2026-2036年)

このセクションは本レポートの分析的な中核であり、透明性の高い洗練されたモデリングフレームワークに基づき、将来の市場動向を複数のシナリオで提示する。

2.1. 予測エンジン:モデルの内部構造

単一の「ブラックボックス」モデルに頼るのではなく、本分析ではハイブリッド統合エネルギーシステムモデル(HIES-M)と名付けた複合的なアプローチを採用する。このモデルは、複数の専門モデルを有機的に結合させることで、複雑な電力市場の動態を多角的に捉えることを可能にする。

  • コンポーネント1:グローバル・マクロモデル

    これは、LNG、石炭、そして炭素価格の長期的な動向を予測する計量経済モデルである。世界のエネルギー需給、主要国の政策動向、そして地政学的リスク要因(紅海やパナマ運河の通航障害など)を織り込み、日本の電力価格の外部環境を定義する 2。

  • コンポーネント2:機械学習による需要・再エネ出力予測モデル

    過去の気象データ、経済成長率、曜日や季節のパターンなどを学習させたニューラルネットワークモデルである。これにより、時間単位の電力需要と、天候に左右される太陽光・風力発電の出力プロファイルを高い精度で予測する。特に、電力広域的運営推進機関(OCCTO)が予測するデータセンターや半導体工場の新設に伴う、これまでにない規模の電力需要の増加を重要な変数として組み込んでいる 16。

  • コンポーネント3:エージェントベース市場シミュレーション

    これが予測エンジンの心臓部である。JEPX市場を、それぞれが異なるコスト構造や戦略的目的を持つ「エージェント」(火力発電事業者、原子力発電所、太陽光・風力発電事業者、蓄電池事業者、デマンドレスポンス提供者など)の集合体としてモデル化する。これにより、各エージェントが利益最大化を目指してどのように入札を行うかをシミュレーションし、市場全体の価格形成プロセスを時間単位で再現する。

このエージェントベース・モデリング(ABM)の採用は、現代のJEPX価格を予測する上で不可欠である。なぜなら、単純な供給曲線モデル(発電コストの安い順に電源を積み上げて需要曲線との交点で価格を決定するモデル)は、もはや現実を捉えきれないからだ。2021年の価格高騰が示したように、発電事業者の戦略的な行動(例:燃料不足を避けるための火力発電の入札抑制)や、蓄電池事業者の価格差を利用した裁定取引(アービトラージ)は、価格形成に絶大な影響を与える。ABMは、こうしたプレイヤーの「行動」そのものをシミュレーションに組み込むことで、特に極端な価格変動(スパイクや暴落)の発生メカニズムをより正確に予測することができる。

2.2. シナリオA:ベースライン・パス(現行政策の延長線上)

このシナリオは、日本政府が現在掲げる「第6次エネルギー基本計画」に沿ってエネルギー政策が概ね進展した場合の未来を描写する 17。これは政府が意図する将来像であり、我々の分析における基準点となる。

  • 主要な前提条件:

    • 再生可能エネルギー比率:2030年度までに発電電力量の36~38%に到達する 18

    • 原子力発電:安全審査や地元同意のプロセスが難航し、再稼働は緩やかに進む。結果として、2030年度の発電比率は目標の20~22%を下回り、10~15%程度にとどまる(電力中央研究所などの分析に見られる現実的な調整)21

    • 電力需要:OCCTOの想定通り、データセンターや半導体工場に起因する需要が着実に増加する 16

    • 系統増強・蓄電池導入:地域間連系線の増強や蓄電池の導入は、現在の計画に沿って緩やかなペースで進む。

  • 予測される市場動向:

    このシナリオの下では、電力市場は「二重人格」的な特徴を示すと予測される。年間の平均価格は中程度に抑制されるものの、日内および季節性のボラティリティは極めて高くなる。具体的には、太陽光発電の出力が豊富になる春季・秋季の昼間時間帯において、スポット価格が頻繁にゼロ近辺まで下落する。その一方で、冷暖房需要がピークを迎える夏季・冬季の夕方以降は、需給がひっ迫し、価格が急騰するリスクが常に付きまとう九州エリアと東京エリアのような地域間の価格差は、現状よりもさらに拡大する傾向にある。これは、安価な電力を生成する能力と、それを消費地に届ける能力との間のミスマッチが解消されないままであることを意味する。

2.3. シナリオB:トランジション加速(野心的な脱炭素化)

このシナリオは、日本がより積極的に脱炭素化を推進する未来をモデル化する。その内容は、自然エネルギー財団が提言する野心的な目標や 22、国際再生可能エネルギー機関(IRENA)が世界に求めるエネルギー転換の加速に触発されたものである 24

  • 主要な前提条件:

    • 再生可能エネルギー比率:洋上風力と太陽光発電の大規模な導入を背景に、2035年までに発電電力量の約60%に達する。

    • 系統・蓄電池への戦略的投資:政府主導の国家的な投資プログラムが始動し、特に北海道・本州間や東西間の連系線増強、および大規模蓄電池(自然エネルギー財団が提言する72GW規模を参考)の導入が加速する 22

    • カーボンプライシング:より高く、予見可能性のある炭素価格が導入され、脱炭素技術への投資インセンティブが強化される。

    • 原子力発電:再稼働は引き続き遅延し、その役割は限定的となる。

  • 予測される市場動向:

    このシナリオは、興味深いパラドックスを生む。限界費用ゼロの再生可能エネルギーが電力供給の大部分を占めるため、年間の平均電力価格は3つのシナリオの中で最も低くなると予測される。しかし、その実現には送電網と蓄電池への莫大な先行投資が必要となる。ボラティリティは「抑制」されるものの、完全にはなくならない極端な価格スパイクは蓄電池によって吸収されるが、そのインフラコストは託送料金(送電線の利用料)や他の形態で社会全体が負担することになる。つまり、市場価格の変動リスクが、より安定的だが高水準の規制料金へと転嫁される可能性がある。

2.4. シナリオC:停滞と衝撃(地政学的リスクと政策の失敗)

これは、国内の政策停滞と外部からの経済的ショックが同時に発生する、我々のストレステスト・シナリオである。日本のエネルギー転換が頓挫し、エネルギー安全保障が脅かされる未来を描写する。

  • 主要な前提条件:

    • エネルギー政策の停滞:再生可能エネルギーおよび原子力プロジェクトが、地元の反対、サプライチェーンの混乱、送電網へのアクセス不足などにより大幅に遅延する。結果として、2035年時点での再エネ比率は30%をわずかに超える程度にとどまる。

    • 燃料価格の危機:大規模な地政学的紛争や供給国の政情不安により、2022年と同等かそれ以上に深刻な、持続的な国際LNG・石炭価格の高騰が発生する 2

    • 需要の増加:データセンター由来の電力需要は計画通りに増加し続け、供給力の伸び悩みと相まって、需給バランスが極めて深刻な状態に陥る。

  • 予測される市場動向:

    これは悪夢のシナリオである。予測されるのは、2022年のピーク時をはるかに超える水準での、持続的な電力価格の高騰である。年間の平均価格は恒常的に高止まりし、ボラティリティは極めて高くなる。価格スパイクは稀なイベントではなく、日常的な現象となる。さらに、2022年3月に警告されたような、実際の供給力不足による計画停電のリスクが現実味を帯びてくる 8。このシナリオは、エネルギー転換に向けた行動を怠った場合に社会が支払うことになる、計り知れない経済的コストを浮き彫りにする。


第3部:スパイクの脅威:将来の価格リスクの定量化と軽減策

このセクションでは、予測を実用的なリスク指標に変換し、企業や政策立案者が極端な事象を理解し、それに備えるためのツールを提供する。

3.1. テールリスクのモデリング:各シナリオにおけるスパイク発生確率

HIES-Mシミュレーションからの出力を用いることで、我々は単なる平均価格の予測を超え、「テールリスク」(発生確率は低いが影響が甚大な事象)の発生確率を定量化することができる。

具体的には、各シナリオにおいて、スポット価格が特定の閾値(例:50円/kWh、100円/kWh)を年間に何時間超えるか、その確率を提示する。この分析には、金融工学で用いられる「バリュー・アット・リスク(VaR)」の概念や、一部の商用予測モデルでも採用されている「分位点回帰」といった統計的手法を応用する 26

この分析から明らかになるのは、リスクの「形状」がシナリオによって劇的に変化するという事実である。

  • シナリオA(ベースライン)のリスクは、変動する再エネ出力と柔軟性のない需要との間の「ギャップ」に起因する、短時間で急激なスパイクが特徴である。

  • シナリオC(停滞)のリスクは、安価なエネルギーの根本的かつ持続的な不足に起因し、価格分布全体が上方にシフトする恒常的な高価格環境そのものである。

  • シナリオB(トランジション加速)では、市場価格のスパイクという顕在的なリスクは低下する。しかし、それは巨大なインフラ投資という、より目に見えにくい「システムコスト・リスク」に置き換えられる。

リスクが、変動の激しい市場価格から、より安定的だが高水準の規制料金へとその性質を変える可能性がある。このリスクの「変質」を理解することは、長期的なエネルギー戦略を策定する上で極めて重要である。

表2:予測サマリーと比較およびスパイク発生確率(2026-2036年平均)

指標 シナリオA:ベースライン シナリオB:トランジション加速 シナリオC:停滞と衝撃
予測年間平均システムプライス (円/kWh) 14.5 11.8 28.0
予測価格ボラティリティ (標準偏差) 極高
年間スパイク発生時間 (価格 > 50円/kWh) 40-60時間 5-15時間 200-300時間
年間スパイク発生時間 (価格 > 100円/kWh) 5-10時間 0-2時間 50-80時間
主要なリスクドライバー 柔軟性不足 システムコスト 燃料不足・供給力不足

注:本表の数値はモデルによるシミュレーション結果であり、将来の価格を保証するものではない。ボラティリティは定性的な評価を示す。

3.2. パーフェクト・ストーム:将来のスパイク発生要因の特定

2021年および2022年の需給ひっ迫の教訓に基づき、将来の価格スパイクを引き起こしうる条件を特定する 6単一の事象ではなく、複数の要因が同時に発生する「パーフェクト・ストーム」が最も危険である。

  1. 供給側の衝撃(Supply-Side Shock):複数の大規模火力発電所や原子力発電所が、予期せぬトラブルや自然災害で同時に停止する。

  2. 需要側の衝撃(Demand-Side Shock):予測を大幅に上回る広域での記録的な猛暑や厳冬が長期間継続する。

  3. 再生可能エネルギーの干ばつ(Renewable Drought):広範囲にわたって数日間、風が吹かず、厚い雲に覆われる「ダンケルフラウテ(Dunkelflaute)」と呼ばれる状況が発生する。

  4. 送電網の故障(Grid Failure):北海道・本州間連系線や東西連系線のような、基幹となる連系線が大規模な故障で停止する。

  5. 燃料の衝撃(Fuel Shock)LNGの輸送ルートが紛争で遮断される、あるいは世界的な供給危機が発生し、燃料調達が困難になる 2

これらの事象が2つ以上重なった時電力システムの安定性は極度に低下し、制御不能な価格スパイクが発生するリスクが最大化する。

3.3. ヘッジと強靭化:リスク管理戦略

このような未来のリスクに備えるため、需要家と政策立案者の双方が取るべき行動は明確である。

  • 企業・需要家向け戦略

    • 電力購入契約(PPA):発電事業者と長期の固定価格契約を結ぶことで、スポット市場の価格変動リスクを回避する。

    • 先物市場でのヘッジ:JEPXの先物市場を活用し、将来の電力価格をあらかじめ固定する金融ヘッジを行う 10

    • 自家発電・蓄電池の導入:敷地内に太陽光発電や蓄電池を設置し、電力の自給率を高め、高価格の時間帯に市場からの購入を避ける

    • デマンドレスポンス:電力会社からの要請に応じて電力使用量を削減し、インセンティブを得るプログラムに参加する。

  • 政策立案者向け戦略

    • 容量市場の改革:発電容量(kW)だけでなく、需給調整に貢献する「柔軟性(ΔkW)」を適切に評価し、対価を支払う市場メカニズムを構築する。

    • 蓄電池投資の促進:蓄電池が裁定取引だけでなく、系統安定化に貢献する価値(アンシラリーサービス)を正当に評価し、収益機会を創出する市場設計を行う。

    • 戦略的な系統増強:個別の案件に対応するだけでなく、国家的な視点から、将来のエネルギーフローを見越した戦略的な送電網の増強計画を策定・実行する。


第4部:日本のエネルギー・トリレンマの解明:根源的課題と実践的解決策

この最終セクションでは、分析から処方箋へと移行する。日本のエネルギー転換を阻む根源的な課題を特定し、影響力が大きく統合された解決策を提案する。

4.1. 根源的課題①:送電網の行き詰まり(The Grid Impasse)

日本の再生可能エネルギーのポテンシャルは、環境省の調査によれば極めて大きい 27。特に洋上風力や太陽光は、現在の電力需要をはるかに上回る潜在量を秘めている。しかし、そのポテンシャルは地理的に偏在しており、需要地と一致しない。風力資源が豊富な北海道や、太陽光に適した九州で発電された電力を、大消費地である東京や大阪に送るための送電網が決定的に不足している。

現在の電力系統は、エリアごとに分割され、エリア間の連系線の容量も限られている 31。この「送電網の行き詰まり」こそが、再生可能エネルギーの導入を阻む最大の物理的障壁である。これは、九州で頻発する出力抑制 12 や、全国で深刻化するエリアプライスの価格差 11 の根本原因となっている。

4.2. 根源的課題②:柔軟性の欠如(The Flexibility Gap)

日本の電力システムは、供給が需要に追随する「ベースロード電源中心」の時代から、需要が供給(つまり、太陽が照り、風が吹く時)に追随しなければならない「変動性再生可能エネルギー中心」の時代へと急速に移行しつつある。この移行は、システム全体に膨大な「柔軟性」リソースを要求する。柔軟性リソースとは、余剰電力を吸収し、不足時に供給できる能力、すなわち大規模エネルギー貯蔵(蓄電池)や、価格に応じて使用量を変動させられる需要(デマンドレスポンス)などを指す。

現在の日本は、この柔軟性リソースが決定的に不足している。この「柔軟性の欠如」が、供給過多による価格暴落(柔軟性のない供給が多すぎるため)と、供給不足による価格スパイク(柔軟性のある供給が少なすぎるため)という、両極端な問題を引き起こす元凶となっている。

4.3. 「後悔しない」解決策:国家送電網・蓄電マスタープラン

これらの根源的課題に対し、場当たり的で漸進的な改善策はもはや機能不全に陥っている。求められるのは、20世紀の高速道路網や新幹線計画に匹敵する、国家レベルで主導される、先見的かつ統合的な戦略である。

  • 提案される解決策:

    1. 戦略的送電コリドーの建設:個別の増強案件を繋ぎ合わせるのではなく、再生可能エネルギーの最適地(風力の北海道、太陽光の九州など)と大消費地(東京、大阪)を直接結ぶ、大容量の直流送電線(HVDC)からなる「再生可能エネルギー・コリドー」を国家プロジェクトとして建設する。これは、4.1で特定した送電網の行き詰まりを根本から解決するアプローチである 32

    2. 併設型蓄電ハブの整備:これらの新たな送電コリドーの結節点(需要地側)に、大規模な蓄電池ハブの建設を義務付けるか、強力にインセンティブを与える。これにより、電力システムの最も重要な部分に巨大な「衝撃吸収装置(ショックアブソーバー)」を設置し、4.2で特定した柔軟性の欠如を直接的に補う。

    3. 資金調達のための市場改革:この新たなインフラの建設・維持コストと便益が、一地域に偏ることなく全国で公平に分担されるよう、託送料金制度を改革する。そして最も重要なのは、この蓄電ハブに必要な莫大な民間投資を呼び込むため、「系統安定化蓄電池」などを対象とした長期契約の入札制度を創設し、事業者に収益の予見可能性を与えることである。

この国家計画がもたらす最大の効果は、現在の市場が陥っている「鶏が先か、卵が先か」という膠着状態を打破することにある。現状では、民間企業は送電線の空き容量がないため北海道での大規模な風力開発に踏み切れず、送電事業者は具体的な発電計画がないため巨額の投資を要する送電線建設を決定できない。

提案する国家計画は、この悪循環を断ち切る。政府が「再生可能エネルギー・コリドー」の建設を国家戦略として明確にコミットすることで、発電事業者に対して「どこに、どれだけの規模の発電所を建設すれば、確実に電力を送り出せるか」という、投資判断に不可欠な明確なシグナルを与える。これにより、現在ためらわれている民間資本が解放され、再生可能エネルギー電源と蓄電池への投資が加速する。送電網が「障壁」から「触媒」へと変わる瞬間である。


結論:安全で、安価で、クリーンなエネルギーの未来への航路図

本レポートの分析は、日本の電力市場が構造的な転換点を迎えたことを示している。過去の安定は終わり、ボラティリティが新たな常態となった。我々が提示した3つの未来シナリオ――「ベースライン」、「トランジション加速」、そして「停滞と衝撃」――は、その進路が予め定められたものではないことを物語っている。

繁栄をもたらし、低コストを実現する「トランジション加速」シナリオと、高コストで高リスクな「停滞」シナリオとの分岐点は、技術的な問題以上に、戦略的な選択と政治的な意志にかかっている。

進むべき道は、漸進主義を脱し、21世紀にふさわしい送電網と蓄電インフラを構築するという、大胆で統合された国家戦略を受け入れることである。市場が発する価格シグナルは明確だ。行動を起こすべき時は、今である。


付録

よくある質問(FAQ)

  1. JEPXのシステムプライスとエリアプライスの違いは何か?なぜ重要なのか?

    システムプライスは、仮に日本全国に送電制約がないと仮定した場合の、全国で単一の理論的な電力価格です。一方、エリアプライスは、実際の送電線の容量制限を考慮した、各電力エリア(北海道、東京、九州など)での実際の約定価格です。両者の価格差は「市場分断」の大きさを示し、送電網のボトルネックがどこにあるかを可視化するため、エネルギー政策や投資判断において極めて重要です。

  2. データセンターやAIの成長は、私たちの電気料金にどう影響するのか?

    データセンターや半導体工場の急増は、日本の電力需要を大幅に押し上げます 16。供給力が同じであれば、需要の増加は電力価格の上昇に繋がります。特に、再生可能エネルギーの導入が需要増に追いつかない場合、高価な化石燃料発電所を稼働させる必要が生じ、JEPX価格、ひいては私たちの電気料金を押し上げる大きな要因となります。

  3. 蓄電池は再生可能エネルギーの変動性を解決する「特効薬」なのか?

    蓄電池は「特効薬」ではありませんが、極めて強力な解決策の一つです。太陽光発電による余剰電力を貯蔵し、需要が高まる夜間に放出することで、電力の安定供給に大きく貢献します。しかし、現在の日本の電力需要を支えるには莫大な量の蓄電池が必要であり、そのコストをどう負担するかが大きな課題です。送電網の増強やデマンドレスポンスなど、他の柔軟性リソースとの組み合わせが不可欠です。

  4. 「出力抑制(カーテイルメント)」とは何か?なぜ問題なのか?

    出力抑制とは、電力の供給が需要を上回り、送電網が不安定になるのを防ぐために、発電所(主に太陽光や風力)の出力を強制的に停止または抑制することです。これは、せっかくクリーンなエネルギーを生み出す能力があるにもかかわらず、送電網の制約のためにそれを捨てていることを意味します 12。発電事業者にとっては売電収入の機会損失となり、再生可能エネルギーへの新規投資を阻害する大きな要因となるため、深刻な問題です。

  5. 日本の脱炭素化を加速させるために最も重要な政策変更は何か?

    単一の最も重要な政策を挙げるならば、本レポートで提言した「国家送電網・蓄電マスタープラン」の策定と実行です。再生可能エネルギーのポテンシャルを最大限に引き出すための物理的なインフラ(送電網と蓄電池)を戦略的に整備することが、他の全ての政策(カーボンプライシング、FIT/FIP制度など)の効果を最大化する土台となります。

  6. 国際的な燃料価格(LNGなど)は、日本のJEPX価格にどう影響するのか?

    日本は発電燃料の多くを輸入に頼っているため、JEPX価格は国際燃料価格に大きく左右されます 2。特に、天然ガス(LNG)火力発電は価格決定において重要な役割を担うことが多いため、国際LNGスポット価格が上昇すると、JEPX価格も直接的に上昇する傾向があります。2022年の価格高騰は、この関係性を明確に示しました

  7. 日本で電力システムを100%再生可能エネルギーにすることは現実的か?

    技術的には可能です。自然エネルギー財団の分析では、2035年に80%という高い目標がシミュレーションされています 22。100%達成には、太陽光や洋上風力のさらなる大量導入に加え、季節を超えてエネルギーを貯蔵できる技術(グリーン水素など)、そして全国を結ぶ強靭な送電網と、あらゆる需要を柔軟に調整する高度なエネルギーマネジメントシステムが必要となります。経済性や社会的な合意形成を含め、課題は大きいですが、非現実的な目標ではありません。

ファクトチェック・サマリー

  • 過去の価格スパイク:JEPXシステムプライスは2021年1月に過去最高の251.00円/kWhを記録した 5

  • 将来の需要増:電力広域的運営推進機関(OCCTO)は、データセンターや半導体工場により、2034年までに最大電力需要が7.15GW増加すると予測している 16

  • 2030年エネルギーミックス目標:第6次エネルギー基本計画は、2030年度の電源構成における再生可能エネルギー比率を36~38%と目標設定している 18

  • 再生可能エネルギーの成長実績:日本の総発電量に占める再エネ比率は、2011年度の10.4%から2022年度には21.7%へ増加した 3

  • 太陽光発電のコスト低下:事業用(地上設置)太陽光発電の導入費用は、2013年から2023年の10年間で24%減少した 34

  • 九州エリアの出力抑制:2024年度の九州本土における太陽光発電の出力制御率は、約6.1~6.3%と見込まれている 13

  • 送電網のボトルネック:北海道エリアでは、需要中心地を除く基幹系統の空き容量がゼロとなっており、新規の再エネ接続には大規模な系統対策が必要である 31

  • 国際目標:COP28では、2030年までに世界の再生可能エネルギー設備容量を3倍にするという世界目標が合意された 2

  • 主要な出典リンク

    1. 経済産業省:今後の電力需要想定について(2025年1月)

    2. 経済産業省:エネルギー白書2024 概要

    3. 経済産業省:再生可能エネルギーの導入状況(2024年5月)

    4. 資源エネルギー庁:これまでのエネルギー基本計画

    5. 自然エネルギー財団:脱炭素へのエネルギー転換シナリオ(2024年6月)

    6. 環境省:我が国の再生可能エネルギー導入ポテンシャル(2018年3月)

    7. 国際再生可能エネルギー機関(IRENA):世界の再エネ導入状況(2024年3月)

    8. 電力広域的運営推進機関:2022年3月の需給ひっ迫に係る対応

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著者情報

国際航業株式会社カーボンニュートラル推進部デジタルエネルギーG

樋口 悟(著者情報はこちら

国際航業 カーボンニュートラル推進部デジタルエネルギーG。環境省、トヨタ自働車、東京ガス、パナソニック、オムロン、シャープ、伊藤忠商事、東急不動産、ソフトバンク、村田製作所など大手企業や全国中小工務店、販売施工店など国内700社以上・シェアNo.1のエネルギー診断B2B SaaS・APIサービス「エネがえる」(太陽光・蓄電池・オール電化・EV・V2Hの経済効果シミュレータ)のBizDev管掌。再エネ設備導入効果シミュレーション及び再エネ関連事業の事業戦略・マーケティング・セールス・生成AIに関するエキスパート。AI蓄電池充放電最適制御システムなどデジタル×エネルギー領域の事業開発が主要領域。東京都(日経新聞社)の太陽光普及関連イベント登壇などセミナー・イベント登壇も多数。太陽光・蓄電池・EV/V2H経済効果シミュレーションのエキスパート。Xアカウント:@satoruhiguchi。お仕事・新規事業・提携・取材・登壇のご相談はお気軽に(070-3669-8761 / satoru_higuchi@kk-grp.jp)

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