目次
物理的経済学の夜明け エネルギーこそが真の通貨である
~イーロン・マスクの熱力学的世界観と日本が直面する「デジタル・エントロピー」の危機~
序論:信用から物理法則への回帰
人類の経済史は、価値の交換媒体を「物理的な実体」から「信用(Credit)」へと抽象化させてきた歴史であった。金や銀といった希少金属から、紙幣へ、そして電子的な台帳へと移行することで、経済は物理的な制約から解放され、前例のない拡大を遂げたかに見えた。しかし、21世紀中盤を迎えた今、イーロン・マスクが発した「エネルギーこそが真の通貨である(Energy is the real currency)」という言葉は、この抽象化の振り子が極限に達し、再び「物理法則(Physics)」へと回帰し始めたことを告げる号砲である
この言葉は、単なるSF的な未来予測でも、EV王によるポジショントークでもない。これは、AI(人工知能)による「知能の限界費用ゼロ化」と、ロボティクスによる「労働の限界費用ゼロ化」が同時に進行する世界において、唯一希少性を保ち続ける資源が「仕事(Work)」を生み出す物理的源泉、すなわちエネルギー(ジュール)だけになるという、冷徹な経済学的洞察に基づいている。
貨幣とは本来、労働や資源に対する請求権である。現代の法定通貨(Fiat Currency)は、国家の徴税権と信用によってその価値が担保されているが、中央銀行の政策決定一つで供給量が変動するため、物理的な実体とのリンクは切断されている。
一方、マスクが示唆する世界観では、通貨は「エネルギー保存則」という宇宙の不変の法則に裏付けられる。1キロワット時(kWh)のエネルギーは、100年前も100年後も物理的に同じ仕事量をこなすことができる。この「絶対的な価値の不変性」こそが、AI時代のハイパーデフレ圧力に対抗しうる唯一のアンカー(錨)となるのである
本レポートは、マスクの主張を「物理的経済学(Physical Economics)」の視座から解読し、シリコンバレーで起きている「熱力学的コンピューティング」革命、ビットコインとAIインフラの融合、そしてエネルギー危機とデジタル赤字の二重苦に喘ぐ日本の構造的問題を、2万文字規模の解像度で徹底的に解析するものである。我々は今、経済のOSが「人間の合意」から「熱力学」へと書き換わる瞬間に立ち会っている。
第1章:エネルギー本位制の系譜学 ~フォードの予言からマスクの実装へ~
1.1 ヘンリー・フォードの「エネルギー通貨」:100年前の失われた未来
イーロン・マスクの思想的源流を探るには、時計の針を1921年に戻す必要がある。自動車王ヘンリー・フォードは、当時のニューヨーク・トリビューン紙において、金本位制を廃止し、「エネルギー通貨(Energy Currency)」を導入すべきだという急進的な提言を行っていた
フォードの主張は、金(ゴールド)はそれ自体が生産的な価値を持たず、国際銀行家によって供給量が操作され、戦争の資金源として利用されるという強い不信感に基づいていた。彼は、テネシー川のマッスル・ショールズ(Muscle Shoals)ダムが生み出す水力エネルギーを価値の基準とし、1時間あたりの一定のエネルギー量(例えば1kWh)に相当する紙幣を発行する構想を持っていた。「金は争いを生むが、エネルギーは富を生む」。フォードにとって、通貨とは「完了した仕事の証明」ではなく、「これから行われる仕事の能力(Capacity)」を象徴すべきものであった
フォードとマスクの思想的共鳴
| 比較項目 | ヘンリー・フォード (1921年) | イーロン・マスク (2020年代) |
| 敵対する対象 | 金本位制と国際銀行家 | 法定通貨のインフレと中央集権的金融 |
| 提案する価値 | 水力エネルギー単位 ($/kWh) | エネルギー効率とコンピュート (Joule/Intellignce) |
| 平和への視点 | 金の支配を打破すれば戦争は終わる | エネルギー自立が紛争を減らす |
| 実装手段 | マッスル・ショールズ・ダム | Tesla Energy, Bitcoin, Starlink |
| 結果 | 議会と銀行の反対により頓挫 | ビットコインと分散型グリッドにより一部実現 |
フォードの構想は、当時の政治力学によって葬り去られた。しかし、その「エネルギーを通貨の裏付けにする」というアイデアは、約90年後、サトシ・ナカモトによるビットコインのProof of Work(PoW)としてデジタル空間で復活を遂げる。ビットコインの採掘(マイニング)とは、まさに電気エネルギーを計算能力(ハッシュレート)に変換し、その結果として「改ざん不可能な台帳上の価値」を生成するプロセスであり、フォードが夢見たエネルギー通貨の現代的実装そのものである
1.2 物理的経済学(Physical Economics)の復権
現代経済学は、市場における人間の選好や効用、貨幣の流動性を中心にモデルを構築してきた。しかし、ニコラス・ジョルジェスク=レーゲンが1971年の著書『エントロピー法則と経済過程』で指摘したように、経済活動とは本質的に、環境から「低エントロピーの資源(有用なエネルギー・物質)」を取り込み、それを消費して財やサービスを生み出し、最終的に「高エントロピーの廃棄物(排熱・ゴミ)」を環境に放出する、不可逆な熱力学的プロセスである
マスクの世界観は、この物理的経済学(Physical Economics)の極致にある。彼の事業ポートフォリオを俯瞰すると、すべてが熱力学の効率化に収斂していることがわかる。
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Tesla (EV): 内燃機関(熱効率約20-30%)から電気モーター(熱効率約90%)への転換によるエネルギーロスの最小化。
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SpaceX: 再使用ロケットによる、重力井戸からの脱出コスト(エネルギー/kg)の劇的な低減。
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Boring Company: 3次元トンネルによる移動抵抗の低減。
そして現在、彼が「エネルギーこそ通貨」と語るとき、その対象は「物質の移動」から「情報の生成」へと拡張されている。AI時代において、知能(Intelligence)の生産は、シリコンチップ上での電子の操作であり、それはすなわちエントロピーの減少プロセスである。したがって、知能のコストは、極限まで突き詰めればエネルギーコスト(Joule)と等価になる。マスクは、貨幣価値のアンカーを、変動する人間の信用から、不変の物理法則へと打ち込もうとしているのである
第2章:知能の熱力学 ~Extropicと「ムーアの壁」の突破~
2.1 スケーリング則とエネルギーの壁
現在、AI業界を支配しているのは「スケーリング則(Scaling Laws)」である。モデルのパラメータ数と学習データを増やせば増やすほど、AIの性能は対数的に向上するという経験則だ。しかし、この法則には物理的なボトルネックが存在する。「エネルギー」である。
IEA(国際エネルギー機関)の「Electricity 2025」レポートによれば、世界のデータセンターの電力消費量は、2022年の約460TWhから2026年には1,000TWh以上に倍増すると予測されている。これは日本の年間総電力消費量(約1,000TWh)に匹敵する規模が、わずか数年で「追加」されることを意味する
さらに深刻なのは、現在の半導体技術(CMOS)が「ムーアの法則」の限界、いわゆる「ムーアの壁(Moore’s Wall)」に直面していることだ。トランジスタの微細化がナノメートル単位に進むにつれ、電子の熱ゆらぎ(ノイズ)が無視できなくなり、計算の正確性を保つために莫大な電力をかけてノイズを「押さえ込む」必要が生じている。マスクの友人であり、元Googleの量子物理学者ギヨーム・ヴェルドン(Guillaume Verdon)は、これを「我々は計算するために、チップ上で電気ストーブを焚いているようなものだ」と痛烈に批判する
2.2 Extropic:熱雑音を「計算資源」に変える逆転の発想
この物理的限界を突破するために登場したのが、ヴェルドン率いるスタートアップ「Extropic」である。彼らが開発する「熱力学的コンピューティング(Thermodynamic Computing)」は、マスクの「エネルギー通貨」論をハードウェアレベルで具現化する技術である。
従来のデジタルコンピュータが、熱ノイズを「排除すべきエラー」として扱い、エネルギーを費やして0と1の決定論的な状態を維持しようとするのに対し、Extropicの「熱力学的サンプリングユニット(TSU)」は、熱ノイズ(ブラウン運動)そのものを「計算資源」として活用する。生成AIの核心的なタスクは、膨大な確率分布から最適な解をサンプリングすることであるが、自然界の物質は熱平衡状態においてボルツマン分布という確率分布に従う。Extropicは、電子の熱ゆらぎをそのままAIの確率的動作(推論・生成)に利用することで、デジタル回路が擬似乱数を生成するために行っていた膨大な計算プロセスをスキップする
デジタルAIと熱力学的AIの物理的比較
| 比較項目 | 従来のデジタルAI (GPU/TPU) | 熱力学的AI (Extropic TSU) |
| 計算パラダイム | 決定論的(Deterministic) | 確率的(Probabilistic) |
| ノイズへの対処 | エネルギーを投じて排除・訂正する | ノイズを駆動力として利用する |
| 主なエネルギー消費 | スイッチングと発熱の冷却 | バイアス制御のみ(環境熱を利用) |
| 情報の表現 | ビット(0 or 1) | p-bit(連続的な確率状態) |
| 物理的アナロジー | 坂道を無理やり登らせる | 坂道を転がり落ちるボールを導く |
| 経済的含意 | 知能のコスト=電力(高コスト) | 知能のコスト=物理限界(極小) |
Extropicの主張が正しければ、AIの計算効率は数桁(orders of magnitude)向上する可能性がある。これは、エネルギー1ジュールあたりに生産できる「知能」の量が爆発的に増えることを意味し、マスクが予言する「労働からの解放」と「ハイパーデフレ」を加速させる決定的な技術的特異点(シンギュラリティ)となる
2.3 有効加速主義(e/acc)の熱力学的根拠
ヴェルドンはまた、シリコンバレーでカルト的な人気を博す思想運動「有効加速主義(Effective Accelerationism: e/acc)」の指導的理論家(@BasedBeffJezos)としても知られる。e/accは、テクノロジーと資本主義の加速を「宇宙の熱力学的意志」として肯定する。
熱力学第二法則によれば、閉じた系のエントロピーは増大するが、生命や文明のような「散逸構造」は、外部からエネルギーを取り込み、内部のエントロピーを排出することで、局所的に高度な秩序を形成する。e/accの視点では、市場経済やAI開発は、この「エネルギー散逸と秩序形成」のプロセスを加速させる装置である。マスクがAI開発や火星移住を急ぐのも、この宇宙規模の適応プロセスの一環と解釈できる。「エネルギーこそ通貨」とは、人類文明がより多くのエネルギーを取り込み、より高度な秩序(知能・文明)へと変換するための、最適化指標の再定義なのである
第3章:マイナーの大転換 ~ビットコインからAIデータセンターへ~
3.1 デジタルエネルギーとしてのビットコイン
マスクのTeslaは、かつてビットコインを大量に保有し、決済手段として採用した(後に撤回したが)。彼がビットコインに注目したのは、それが「保存されたエネルギー」としての側面を持っていたからだ。水力や地熱など、場所や時間が偏在しているために使いきれないエネルギーを、その場で計算力(ハッシュ)に変換し、ビットコインという価値として保存する。これにより、エネルギーは送電線の物理的制約を超え、世界中どこへでも瞬時に移動可能な「デジタルエネルギー」となる
3.2 「HPC Pivot」:マイニング施設がAI工場へ
2024年から2025年にかけて、ビットコインマイニング業界で「HPC Pivot(高性能計算への転換)」と呼ばれる巨大な構造変化が起きている。Core Scientific、Hut 8、Iris Energyといった大手マイニング企業が、保有する巨大な電力設備と冷却インフラを、ビットコインの採掘から、AIの学習・推論を行うHPCデータセンターへと転用し始めているのだ
この転換の動機は純粋に経済的な「エネルギー裁定取引(Arbitrage)」にある。
ビットコインの半減期を経て、マイニング収益(ハッシュプライス)が低下する一方、AIブームにより計算資源への需要は爆発している。VanEckの分析によれば、1メガワット(MW)の電力をビットコインマイニングに使うよりも、AI/HPCのホスティングに使った方が、収益性は最大で25倍にも達すると試算されている21。
マイニングとAI:電力需要の質的違い
| 項目 | ビットコイン・マイニング | AI (学習・推論) データセンター |
| 電力消費特性 | 調整可能負荷(Interruptible Load) | 安定負荷(Base Load / Firm Power) |
| グリッドへの貢献 | 需給逼迫時に数秒で停止可能 (DR) | 停止困難(高い稼働率が求められる) |
| インフラ要件 | 低コスト、外気冷却で可 | 高コスト、冗長性、高度な冷却が必要 |
| 経済的役割 | 余剰電力の吸収(スカベンジャー) | 高付加価値・高信頼性電力の消費 |
| エネルギー価値 | 「捨てられるエネルギー」を価値化 | 「安定したエネルギー」を高値で購入 |
マイニング企業は今や、単なる「コイン採掘業者」ではなく、「エネルギー・インフラの開発業者」へと進化している。彼らは送電網への接続権、大規模な変電設備、そして安価な電力契約という、AI時代において最も希少な資産(Real Estate Power)を保有しているからだ。これは、エネルギーへのアクセス権を持つ者が、デジタル経済の覇権を握るというマスクの予言が、市場原理を通じて実証されている姿に他ならない
3.3 ビットコインとAIの共生モデル
さらに興味深いのは、これらが対立するのではなく、相補的な関係を築き始めている点だ。AIデータセンターは常に一定の負荷を必要とするが、電力供給(特に再エネ)は変動する。このギャップを埋めるために、同じ敷地内にビットコインマイニング施設を併設し、AIが使わない余剰電力や、グリッドからの供給過剰分をマイニングで吸収するという「ハイブリッドモデル」が登場している。これにより、エネルギーの無駄(廃棄)をゼロにしつつ、インフラ投資の回収効率を最大化することができる。エネルギーを通貨として扱うならば、一滴たりとも無駄にしないこの構成こそが、最も合理的なポートフォリオとなる
第4章:日本のエネルギー・パラドックス ~デジタル赤字と捨てられる電力~
4.1 「デジタル赤字」という名のエネルギー輸入
視点を日本に移そう。資源小国である日本は、エネルギーの大部分を海外に依存しているが、近年、新たな形の依存が急速に拡大している。「デジタル赤字」である。
2024年の日本のサービス収支における「デジタル関連収支」の赤字は、年間で5兆円を超えるペースで拡大しており、2025年上半期だけで約3.5兆円に達している26。これは、日本企業や消費者が、Google、Amazon (AWS)、Microsoft、OpenAIといった米国のテック巨人に支払うクラウド利用料や広告費、ライセンス料である。
物理的経済学の視点で見れば、クラウドサービスとは「遠隔地にあるコンピュータが消費した電力と計算資源」である。つまり、日本は「海外のエネルギーを使って処理された情報」を、巨額の日本円を支払って輸入していることになる。
デジタル赤字の本質は、形を変えた「エネルギー輸入」であり、日本の富(円)が、米国の電力会社とテック企業の株主へと流出するパイプラインとなっている
4.2 第7次エネルギー基本計画とデータセンターの爆食
日本政府が策定中の「第7次エネルギー基本計画」では、このデジタル需要の急増が初めて正面から取り上げられた。DX(デジタルトランスフォーメーション)とGX(グリーントランスフォーメーション)の進展により、日本の電力需要は2040年には現在より約10〜20%増加し、1.1〜1.2兆kWhに達すると予測されている28。
特にデータセンターの電力消費は、生成AIの普及により指数関数的に増大する。政府は、再エネと原子力を「脱炭素電源」として最大限活用する方針を打ち出しているが、データセンターが必要とする「24時間安定した大電力」を確保するハードルは極めて高い28。
4.3 九州電力の悲劇:出力制御率5.9%の衝撃
ここで、日本のエネルギー政策における最大の矛盾が露呈する。電力不足が叫ばれる一方で、九州や北海道などの再エネ先進地では、発電した電力を意図的に捨てている(出力制御している)のだ。
RTS Corporationの予測によれば、2025年度の九州エリアにおける太陽光・風力の出力制御率は5.9%に達する見込みである
日本のエリア別再エネ出力制御率(2025年度予測)
| エリア | 出力制御率 | 背景要因 |
| 九州 | 5.9% | 太陽光の過剰導入、原発4基稼働によるベースロードの高さ |
| 四国 | 3.8% | 域内需要の小ささ、伊方原発稼働、連系線の制約 |
| 東北 | 3.0% | 風力・太陽光の適地だが、東京への送電容量不足 |
| 中国 | 1.5% | 太陽光の増加 |
|
(出典: RTS Corporation, 2025.10.30 |
この「捨てられるエネルギー」は、経済的損失であると同時に、物理的経済学の観点からは「犯罪的」な非効率である。エネルギーが通貨であるならば、日本は毎年数千億円分の現金をドブに捨てているに等しい。そしてその一方で、数兆円を払って海外の計算資源(=エネルギー)を買っているのだ。この倒錯した構造こそが、日本経済の停滞と円安の根源的な要因の一つと言える。
4.4 「ノンファーム型接続」という対症療法
この問題に対し、政府や電力広域的運営推進機関(OCCTO)は「日本版コネクト&マネージ」の一環として「ノンファーム型接続」を導入した。これは、系統の空き容量がなくても、「混雑時には出力を抑制する」ことを条件に、新しい発電所や需要家の接続を認める制度である
しかし、これはデータセンター事業者にとっては受け入れがたい条件である。AIの学習やクラウドサービスは、停電が許されない。したがって、ノンファーム条件での接続では、大規模なデータセンター投資を呼び込むことは難しい。ここでも、物理的なグリッドの制約と、デジタル経済の要求との間に深い溝(ギャップ)が存在している
第5章:アジャイル・エナジー ~捨てられる電力を「価値」に変える錬金術~
5.1 TEPCOとAgile Energy Xの挑戦
この絶望的なミスマッチを解消する「ミッシング・リンク」として登場したのが、東京電力パワーグリッドの100%子会社「Agile Energy X(アジャイルエナジーエックス)」である。同社は、電力会社自身が「ビットコインマイニング」という、かつてはタブー視された領域に踏み込むことで、日本のエネルギー問題を解決しようとしている
Agile Energy Xのビジネスモデル:分散型コンピューティングによる「需要創出」
Agile Energy Xのアプローチは、極めてシンプルかつ合理的である。
「電気が余って捨てられる場所(発電所の隣など)に、電気を大量に消費するコンピュータ(マイニングマシン)を持っていき、その場で消費させる」
これにより、以下の3つの価値を同時に創出する35。
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環境価値(再エネの有効利用):出力制御で捨てられるはずだった再エネ電力が有効活用されるため、再エネ発電事業者の収益性が向上し、さらなる再エネ導入のインセンティブとなる。
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デジタル価値(ビットコインの獲得):電力を消費して計算を行うことで、グローバルな資産であるビットコイン(BTC)を獲得する。これは実質的な「外貨獲得」である。
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グリッド価値(調整力):マイニングマシンは、通信一つで瞬時に稼働・停止が可能である。電力が余っている時はフル稼働し、足りない時(夕方など)は即座に停止することで、グリッドの需給バランスを保つ「デマンドレスポンス(DR)」のリソースとして機能する。
5.2 経済的インパクト:年間3,600億円の埋蔵金
Agile Energy Xの社長、立岩健二氏の試算は衝撃的である。もし日本の電源構成における再エネ比率が50%に達した場合、需給バランスの維持のために年間24万GWh(240TWh)もの電力が余剰となり、出力制御される可能性があるという。
もし、この余剰電力のわずか10%(24TWh)をビットコインマイニングに活用できた場合、年間で約3,600億円相当のビットコインを生み出すことができる36。
24TWhという電力量は、小国の年間消費量に匹敵する。これをただ捨てるか、それとも3,600億円の資産に変えるか。答えは自明である。これは、資源のない日本において、技術とアイデアだけで生み出せる「純国産のエネルギー資源」なのだ。
5.3 官民連携と「デジタル・グリッド」の実装
このプロジェクトは、単なる実験の域を超え、商用フェーズに入りつつある。Agile Energy Xは、マイニング機器大手カナン(Canaan)と提携し、群馬県や栃木県の太陽光発電所にコンテナ型データセンターを設置している37。
また、この動きはTEPCO単独ではなく、日本の他の電力会社や自治体にも波及しつつある。
これは、電力網(グリッド)と情報網(インターネット)が融合し、エネルギーと情報の価値が相互に変換可能な「エネルギー・インターネット」の初期形態である。マスクが目指す「エネルギー本位制」の世界が、皮肉にもエネルギー資源に乏しい日本において、必要に迫られる形で最先端の実装が進んでいるのである。
第6章:地政学的・戦略的示唆 ~熱力学的大国への道~
6.1 エネルギー安全保障としての「コンピュート」
AI時代の地政学において、「計算能力(Compute)」は「石油」と同等の戦略物資となる。NVIDIAのGPUが輸出規制の対象となるのがその証左である。
日本がデジタル赤字を垂れ流し続けることは、食料自給率の低さと同様に、安全保障上の致命的な脆弱性となる。海外のクラウドが停止すれば、日本の産業も行政も停止するからだ。
「エネルギーこそ通貨」という視点に立てば、自国のエネルギーで自国の計算需要を賄うこと(地産地消)は、最も基本的な国家生存戦略となる。
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Behind the Meter (BTM) の戦略的活用:再エネや原子力発電所の敷地内にデータセンターを直結し、送電ロスと託送料金を回避するモデルを、特区制度などを活用して加速させるべきである
。これはAmazonやMicrosoftが米国で行っている戦略と同じだが、グリッドの制約が厳しい日本こそ、このメリットは大きい。41
6.2 「熱力学的温度」と経済の健全性
物理学には「温度」という概念があるが、経済学にも「金融温度(Financial Temperature)」という概念を適用できるかもしれない
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インフレ=温度上昇:通貨供給量が増え、エントロピー(無秩序)が増大する状態。
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デフレ(生産性向上)=温度低下:技術革新により、少ないエネルギーで高い秩序(価値)が生み出される状態。Extropicの技術は、まさにこの「経済の冷却」を物理的に実現しようとするものだ。
日本は長年デフレに苦しんできたが、AI時代のデフレは「悪いデフレ(需要不足)」ではなく、「良いデフレ(圧倒的な生産性向上)」になり得る。日本が持つ「モノづくり(物理的すり合わせ)」の強みと、省エネ技術、そしてAgile Energy Xのようなグリッド制御技術を組み合わせれば、世界で最もエネルギー効率の高い(=低エントロピーな)経済システムを構築できる可能性がある。
6.3 日本への提言:3つの柱
本レポートの分析に基づき、日本が採るべき戦略を以下の3点に集約する。
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「計算力」をエネルギー政策の柱にする
第7次エネルギー基本計画において、データセンターを単なる「大口需要家」ではなく、蓄電池と同様の「グリッド安定化リソース」として位置づける。マイニングやAI学習のような「調整可能な計算負荷」に対しては、接続制約の緩和やインセンティブを付与し、捨てられる電力の受け皿として公的に認定する。
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「デジタル外貨」の備蓄
余剰電力でマイニングしたビットコインを、単に売却して円に戻すのではなく、国家または電力会社のバランスシート上で「デジタル外貨」として保有することを検討すべきだ。エネルギー輸入の決済や、為替リスクのヘッジ手段として、エネルギー(BTC)を保有することは、マスクのTeslaやエルサルバドルの戦略に通じる。
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次世代「熱力学的」技術へのR&D投資
現在のGPUベースのAIは、電力消費が大きすぎて日本には不向きである。Extropicのような「熱力学的コンピューティング」や、NTTが進める光電融合(IOWN)など、桁違いの省エネ性能を持つ次世代計算基盤へ投資を集中させる。これにより、「知能の生産コスト」において世界的な優位性を確保する。
結論:エントロピーの波に乗れ
イーロン・マスクの「エネルギーこそが真の通貨である」という言葉は、AIとロボットが労働を代替する未来において、人類が直面する最終的な制約条件を予言している。信用(Fiat)は希薄化しうるが、エネルギー(Joule)は嘘をつかない。
Extropicが挑む熱雑音の活用も、Agile Energy Xが挑む余剰電力の活用も、本質は同じである。「エントロピー(無秩序・ノイズ・廃棄)」を「情報(秩序・価値)」へと再変換する試みだ。
日本は、少子高齢化、エネルギー不足、財政赤字という「エントロピー増大」の最前線にある。しかし、だからこそ、この物理的経済学の転換点において、世界に先駆けたモデルを構築できるポテンシャルを秘めている。
捨てられるエネルギーを計算に変え、その計算を通貨に変える。このサイクルを回し始めたとき、日本はデジタル赤字の敗者から、熱力学的経済の勝者へと変貌を遂げるだろう。通貨の未来は、銀行の金庫の中ではなく、唸りを上げるタービンとサーバーの熱交換器の中にこそあるのだから。
参考文献・データソース一覧
主要引用元
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1 : Musk, Elon. “Energy is the real currency” context & predictions.
-
2 : Ford, Henry. New York Tribune interview (1921), “Energy Currency”.
-
11 : Extropic AI & Guillaume Verdon. “Thermodynamic Computing” whitepapers & podcasts.
-
8 : IEA. “Electricity 2025” Report.
-
28 : METI (Japan). “7th Strategic Energy Plan” outline.
-
30 : RTS Corporation. “Renewable Energy Curtailment in Japan 2025”.
-
26 : Ministry of Finance (Japan). Digital Services Trade Deficit Data.
-
25 : TEPCO / Agile Energy X. Press releases & interviews regarding Bitcoin mining projects.
用語解説
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Fiat Currency (法定通貨): 金などの裏付けがなく、政府の信用によって流通する通貨。
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Energy Currency (エネルギー通貨): エネルギー量(Joule/kWh)を価値の基準とする通貨概念。
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Thermodynamic Computing (熱力学的コンピューティング): 熱ゆらぎ等の物理現象を利用して確率的な計算を行う次世代計算手法。
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Curtailment (出力制御): 電力需給バランスを保つために、発電所の出力を意図的に抑制・停止すること。
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HPC Pivot: ビットコインマイニング事業者が、AI/HPC向けのデータセンター事業へ転換すること。
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Behind the Meter (BTM): 電力会社の送電網(メーター)を通さず、発電所から直接需要家へ電力を供給する接続形態。



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