プライバシーテックによる脱炭素・再エネ普及加速のアイデア

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国際航業株式会社カーボンニュートラル推進部デジタルエネルギーG

樋口 悟(著者情報はこちら

国際航業 カーボンニュートラル推進部デジタルエネルギーG。環境省、トヨタ自働車、東京ガス、パナソニック、オムロン、シャープ、伊藤忠商事、東急不動産、ソフトバンク、村田製作所など大手企業や全国中小工務店、販売施工店など国内700社以上・シェアNo.1のエネルギー診断B2B SaaS・APIサービス「エネがえる」(太陽光・蓄電池・オール電化・EV・V2Hの経済効果シミュレータ)のBizDev管掌。再エネ設備導入効果シミュレーション及び再エネ関連事業の事業戦略・マーケティング・セールス・生成AIに関するエキスパート。AI蓄電池充放電最適制御システムなどデジタル×エネルギー領域の事業開発が主要領域。東京都(日経新聞社)の太陽光普及関連イベント登壇などセミナー・イベント登壇も多数。太陽光・蓄電池・EV/V2H経済効果シミュレーションのエキスパート。Xアカウント:@satoruhiguchi。お仕事・新規事業・提携・取材・登壇のご相談はお気軽に(070-3669-8761 / satoru_higuchi@kk-grp.jp)

エネがえるキャラクター
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プライバシーテックによる脱炭素・再エネ普及加速のアイデア

はじめに:データ活用のジレンマと気候変動への挑戦

気候変動への対応として世界中で「脱炭素」(カーボンニュートラル)と再生可能エネルギー(再エネ)の普及が急務となっています。太陽光や風力などクリーンな電力源を最大限に活用し、エネルギー効率を高めるためには、デジタル技術とデータ活用がカギを握ります。実際、英国王立協会の報告によれば、既存のデジタル技術を上手に活用するだけで2030年までに英国の排出量を最大15%削減できる可能性があると試算されています。しかし、そのようなデータ駆動型の脱炭素ソリューションを実現する上で、大きなジレンマが存在します。それは「データを共有・活用したいが、プライバシー(個人や企業の機密情報)も守らねばならない」というジレンマです。

エネルギー分野ではスマートメーターやIoTセンサー、AI解析によって詳細なデータが取得できるようになりました。電力の需給バランス最適化や消費行動の可視化、省エネアドバイスなど、データ活用により生まれる脱炭素効果は計り知れません。一方で、その詳細なデータには個人の生活習慣や企業の秘訣が詰まっており、不適切に扱われればプライバシー侵害につながります。このため、多くの人々や企業はデータ共有に慎重で、結果として気候対策に必要なデータ活用が進まないという障壁が生じています。本記事では、このデータ活用の壁を乗り越えるカギとして注目される「プライバシーテック」(Privacy Tech、プライバシー保護技術)に焦点を当て、世界最高水準の知見をもとに脱炭素と再エネ普及を加速させるアイデアを包括的かつ分かりやすく解説します。

データがもたらす脱炭素効果とプライバシーの壁

まず、なぜデータ活用が脱炭素に重要なのか、その効果を見てみましょう。その上で、どのようなプライバシー上の課題があるのかを整理します。

  • スマートグリッドと需要最適化: スマートグリッド(次世代電力網)は、電力消費データをリアルタイムに収集・分析して需給バランスを調整する仕組みです。例えば、需要ピーク時に一部の電力消費をシフトしたり、蓄電池や電気自動車(EV)から電力を供給したりするデマンドレスポンスは、詳細な消費データがあって初めて可能になります。これにより火力発電の稼働を減らし、再エネを最大限活かせれば、大幅なCO2削減につながります。しかし、家庭のスマートメーターから得られる詳細データ居住者の行動パターンを映し出します。実際、学術研究でもスマートメーターの細かな消費電力プロファイルから家族の在宅状況や生活リズム、使用家電の種類まで推定できることが示されています。こうしたプライバシーへの懸念から、一般消費者の中にはスマートメーターの導入自体に抵抗感を示す人もいます。「電力会社に24時間監視されるのでは?」という不安が拭えないのです。その結果、スマートグリッド技術への信頼が損なわれれば普及が妨げられ、せっかくの持続可能エネルギーへの移行も遅れてしまいかねません。実際、スマートメーターのデータプライバシーに対する世間の不信感は、再エネ技術の採用ペースにも影響を与え得ます。消費者がその技術を信用しなければ、自宅への太陽光パネル導入や電力の見える化サービスへの参加にも二の足を踏むでしょう。

  • サプライチェーンの見える化(Scope3排出量): 企業の温室効果ガス排出を削減するには、自社だけでなくバリューチェーン全体(原材料調達から製品廃棄まで)での排出量算定と削減策が必要です。これがいわゆるスコープ3排出量の開示ですが、現状では多くの企業が詳細データの共有を渋っています。たとえば、ある企業が製品ごとのCO2排出データを取引先と共有すれば、その製造プロセスやサプライヤー情報が逆算され、競合に企業秘密を知られてしまうリスクがあります。実際、ドイツ企業への調査では「データ共有によってイノベーションや競争上の知識が流出することを恐れる」と答えた企業が42%にも上りました。また「誰に自社データを読まれるか分からないこと自体が大きな障壁だ」と感じる経営者も約6割にのぼっています。このようなデータ流出への不安から、サプライチェーン全体で一次データを共有する動きが滞っており、結果的に精緻な排出量の把握や効率化の機会が失われています。例えば輸送部門では、複数社が物流データを共有することでトラックの積載効率を上げて回数を減らす協調が可能です。実際に、P&G社とタッパーウェア社が運送データを共有して配送を統合したところ、輸送コストを17%削減し、年間200トン以上のCO2排出削減に成功したケースがあります。また、オーストラリア・ブリスベン港の研究では、港で荷物を運ぶ物流各社がデータ共有・協調すれば最大40%もの排出削減ポテンシャルがあると試算されています。つまり、データを共有すれば脱炭素の余地は大きいのですが、現状はプライバシーや企業機密を理由にその共有が進まないという板挟みになっているのです。

  • EV・モビリティとインフラ最適化: 脱炭素の切り札の一つが電気自動車(EV)ですが、EV普及には充電インフラの整備と効率的な運用が欠かせません。ここでもデータ活用が威力を発揮します。例えば、充電ステーションの利用データや走行データを集約すれば、どの地域に何台の充電器が必要か、電力需要が低く再エネ比率が高い時間帯に充電するよう誘導するといった最適化が可能です。ある国際的な企業連合の報告書では、データ共有による協調的な充電運用でEV充電に伴う炭素排出を15%削減できた事例が示されています。しかしEVの充電データには個人の移動履歴や居場所、利用パターンが含まれるため、適切な匿名化や目的限定なく集めればプライバシー問題になりかねません。実際、EV充電インフラにも欧州のGDPR(一般データ保護規則)など個人情報保護規制が適用され、データ管理者は利用者の同意や暗号化など厳格な対策を求められています。利用者としても、自分の車の動きが追跡されたり、位置情報が漏洩することには敏感です。このように、モビリティ分野でもデータ活用による効率化 vs. プライバシー保護のトレードオフが存在します。

以上のように、エネルギーの生産から消費、輸送に至る幅広い領域で「データ活用による脱炭素効果」が期待される一方、そのデータの持つセンシティブな側面ゆえに「プライバシー上の壁」が立ちはだかっています。これは「データとプライバシーのパラドックス」とも呼ぶべき状況です。個人・社会の利益のためにデータを使いたいが、個人・企業の権利も守らねばならない…。

では、このジレンマを解決するにはどうしたら良いのでしょうか?

プライバシーテックとは何か:データ利活用の新たな鍵

この難題を解決に導くアプローチが、近年発展しているプライバシー保護技術(Privacy Enhancing Technologies, PETs)です。プライバシーテックとも呼ばれるこれらの技術は、「データをそのまま見せたり渡したりしなくても、必要な分析や共同作業ができるようにする」ための様々な手法の総称です。つまり、プライバシーとデータ活用の両立を技術的に実現しようという取り組みです。

具体的に、主要なプライバシー保護技術には次のようなものがあります:

  • 差分プライバシー(Differential Privacy)データにランダムなノイズ(ゆらぎ)を加えることで、個々人の情報を特定できないようにしつつ、全体の統計的傾向は読み取れるようにする手法です。例えば、ある地域の1時間ごとの電力消費データに微小な乱数を加えて公開すれば、個別家庭の厳密な使用量は分からなくても、地域全体の需要パターンや節電効果を正確に分析できます。差分プライバシーは2006年に提唱された数学理論に基づいており、プライバシーの強さを表す指標ε(イプシロン)でどの程度識別可能性を抑えるか調整できるのが特徴です。「データ解析の結果にほんの少しのゆらぎを加えて匿名性を保証する」このアプローチは、まさにプライバシーとデータ精度のトレードオフをコントロールするものです。エネルギー分野でも、米国でエネルギー専用の差分プライバシーライブラリが開発されており、スマートメーターの詳細データを扱うユーティリティ会社などで実用化が進んでいます。実際、従来は月単位・年単位でざっくりと集計していたデータを、差分プライバシー技術により時間単位の詳細データを安全に共有できるようになれば、きめ細かな需要予測や効果測定が可能になり、脱炭素施策の精度が飛躍的に向上するでしょう。Recurve社はこの技術を「脱炭素化した電力網の基盤となるもの」と評しています。

  • ホモモルフィック暗号(完全準同型暗号)データを暗号化したままで計算処理できる画期的な暗号技術です。通常、暗号化されたデータは復号しないと中身を利用できません。しかしホモモルフィック暗号では、暗号化されたままのデータ同士を演算することで、復号後に得られる結果と同じものを計算できます。例えば、企業Aと企業Bがそれぞれ自社のCO2排出量データを暗号化してクラウド上に送信し、暗号状態のまま足し合わせる計算を行うとします。計算結果を復号すると、両社合計の排出量がわかりますが、第三者は計算過程で各社個別の数値を知ることはできません。この技術は長らく理論上可能でも計算量が膨大すぎましたが、近年の計算性能向上により実用化が見えてきました。例えばサプライチェーン全体の排出量を正確に算出する際、各企業の詳細データを明かさず暗号化したまま「合計」や「平均」などの集計が可能になれば、お互い安心してデータを出し合い、正確なカーボンフットプリント算定ができます。欧州の自動車業界データ連合Catena-Xなども、分散型データ連携とホモモルフィック暗号の組み合わせで企業間データ共有を進めようとしています。

  • セキュアマルチパーティ計算(安全な多者計算, SMPC) – 複数の当事者が自分の秘密データを明かすことなく、共同で計算を行うプロトコルです。例えば、ある地域の住民それぞれが自宅の節電量を秘密に保ったまま、「地域全体で何kWh節電できたか」という合計値だけを計算して知ることができます。また企業間では、各社が出したCO2削減量を互いに開示せずとも「サプライチェーン全体で目標を達成したか否か」を判定するといった用途があります。SMPCは、秘密分散や特殊な暗号プロトコルを用いて各参加者のデータをシャッフル・分割し、誰も全体を復元できない形で計算を進めます。そのため、「データを持ち寄っても中身は漏れない共同計算ルーム」を作るイメージです。実際の応用例として、再エネ電力の融通市場で各家庭・ビルの需要供給データをSMPCで集約し、需給マッチングを行う実証研究も行われています。SMPCによりプライバシーを守りながら最適マッチングが実現すれば、地域のピアツーピア電力取引や需給調整が安心して行えるでしょう。

  • ゼロ知識証明(Zero-Knowledge Proofs)自分の持つ秘密のデータを一切明かすことなく、ある主張が真実であることだけを証明するという高度な暗号技術です。たとえば「この製品のCO2排出量が業界平均以下である」ことを証明したい場合、本来は製品の詳細なライフサイクルデータを公開する必要があります。ゼロ知識証明を使えば、詳細データは伏せたまま「基準を満たしている」という事実だけを保証できます。これにより、企業は競合にノウハウを渡さずに環境性能を示せるのです。またエネルギー取引の世界では、ブロックチェーンとゼロ知識証明を組み合わせてプライバシー保護型のP2P電力取引プラットフォームを開発する動きもあります。最新の研究例では、「スマートメーターの検針データがある閾値以上であること」をゼロ知識で検証し、自動的にブロックチェーン上の取引を成立させるシステムが報告されています。これにより、各家庭の生データを公開せずに信用あるエネルギー取引市場を運営できる可能性が拓けます。

  • 連合学習(Federated Learning)複数の端末や組織が生データを中央に集めずにAIモデルの分散学習を行う手法です。各デバイス(例えばスマートメーター内蔵の通信ユニットや企業サーバー)で機械学習モデルを局所的に訓練し、そのモデルのパラメータ(学習結果)だけを集約して全体のモデルを更新します。これを繰り返すことで、データを共有せずとも全体として高精度なAIモデルを作り上げます。エネルギー分野では、複数家庭の電力需要予測モデルを連合学習で構築した研究があります。各家庭の過去の消費データは手元から出さず、全家庭で共同の予測モデルを鍛えたところ、約97.7%という高い精度で次日の太陽光発電余剰電力を予測できたと報告されています。これは従来の集中型学習と同等の性能でありながら、生データを集中管理しないためプライバシーリスクを抑えています。さらに差分プライバシーを組み合わせて学習過程にノイズを加えることで、個々のデータ寄与を秘匿しつつモデルを改良することも可能です。このように連合学習は「データをシェアせず知見をシェアする」手法として、エネルギーのみならず医療や金融など様々な分野で注目されています。特にエネルギーでは、地域ごとに異なる需要パターンや気象条件に対応したAI制御が重要ですが、連合学習なら地域の電力事業者同士がデータを持ち寄らずに協調でき、広域での再エネ制御や需給予測が改善すると期待されます。

  • データ信託・データ共有ガバナンス – 技術そのものではありませんが、中立的なデータ管理主体やルール作りもプライバシーテックの重要な要素です。欧米では「データトラスト」と呼ばれる仕組みが試行されています。これは、信頼できる第三者機関がデータの受け渡しや利用ルールを管理することで、データ提供者の権利と利益を守りつつ、安全なデータ共有を促進する枠組みです。例えば企業間であれば、業界団体や非営利組織がデータの預かり手(受託者)となり、「誰がどの目的でどの範囲のデータにアクセスできるか」を契約で明確化します。技術的にも、その受託者が設けた安全な分析環境(データを持ち出せないクローズドな空間)でのみ計算を行い、違反があれば追跡できるログを残す、といった仕組みが取られます。実際、前述のCatena-X(自動車業界の共同データ基盤)やLinux基金のOS-Climate(オープンソースの気候関連データプラットフォーム)はデータ信託的な役割を果たし、参加企業が安心して排出データなどを共有できるようガバナンスと技術基盤を提供しています。さらにデータの分散管理も有効です。データを一箇所に大量集積すると、それ自体がハッキングの標的になりリスクが高まります。そこで、データは各社・各機関に置いたまま、必要に応じてピアツーピア(Peer-to-Peer)で直接やり取りする形にすれば、仮に一部が侵害されても被害を最小化できます。この分散型の発想はブロックチェーンなどにも通じ、集中サーバーを持たないエネルギーデータ市場といった将来像にもつながっています。

以上のように、プライバシーテックは暗号技術・統計的手法・機械学習手法・制度設計を組み合わせ、「隠しながら活用する」ための道具箱を提供します。これらは単独で使われるだけでなく、組み合わせて用いることで真価を発揮します。たとえば、「データ信託+ホモモルフィック暗号+分散型ネットワーク」の組合せであれば、データ管理者を信頼しつつも技術的に生データの露出を避け、全員で責任を負う仕組みが構築できます。重要なのは、こうした技術がすでに研究段階から実装段階へ進みつつあることです。米英政府が賞金をかけてプライバシー保護技術の開発を競わせ、エネルギー分野でも先端企業が実用化に取り組む今、プライバシーテックは机上の空論ではなく現実のソリューションとなり始めています。

スマートグリッドと家庭エネルギー:プライバシーで築く信頼の基盤

では具体的に、プライバシーテックがどのように家庭部門の脱炭素と再エネ普及に寄与し得るか見てみましょう。キーワードは「信頼の醸成」です。家庭のエネルギーデータは極めてプライベートであり、信頼なくして提供されることはありません。しかし裏を返せば、プライバシーがしっかり守られるなら、人々はデータ提供や省エネ協力に前向きになる可能性が高まります。

スマートメーターへの不安を解消する

スマートメーターは従来の月1回の検針とは異なり、30分毎など細かな間隔で電力使用量を測定・送信します。その詳細データから生活パターンが丸裸にされるのではという不安が普及当初から指摘されてきました。例えば在宅か留守か、いつ食事をしているか、就寝時間まで推測可能だと言われます。こうした懸念があると、せっかく電力の見える化で節電を促したり、太陽光発電の余剰を売電したりといったスマートメーター活用のメリットが伝わっても、肝心の利用者が「データを取られたくない」と感じてしまい導入に消極的になる恐れがあります。実際、「スマートメーターのプライバシーは大丈夫か?」という問いに対し、多くの消費者が透明性とコントロールの確保を求めています。自分のデータが誰にどんな目的で使われるかを明確に知り、不要なデータ収集はされないこと、そして自分で同意や拒否を選べること——これらが担保されれば人々の不安は和らぎます。プライバシーテックはまさにそのための手段です。

差分プライバシーや匿名化技術を取り入れれば、電力会社は個人を特定しない形でデータ解析を行えるようになります。例えば、地域全体の時間帯別消費量を公表するときに単身世帯と家族世帯の区別をつけず統計処理する、あるいは各家庭のデータは暗号化したまま需要予測モデルを訓練し、出来上がったモデルだけを共有するといった工夫です。実際、アメリカではエネルギー差分プライバシーというオープンソースのライブラリが開発され、電力需要の分析に従来より詳細なスマートメーターデータを活かしつつ、個人情報保護規制をクリアする試みが始まっています。このように、電力事業者が最先端のプライバシー技術を採用すれば「高精度な分析」と「顧客の安心」を両立でき、公益とプライバシーのバランスがとれるのです。

デマンドレスポンスと家庭参加の促進

再エネが大量導入されると、電力の供給は天候に左右され変動が大きくなります。そこで家庭やビルが電力消費を一時的に調整するデマンドレスポンス(DR)が注目されています。しかしDRに参加するには、自宅の電気機器や蓄電池の制御を電力会社やアグリゲーター(需要調整サービス事業者)に任せる必要がある場合もあります。「外部から自宅のエアコンやEV充電を制御されるなんてプライバシーや安全面で心配…」と感じる人もいるでしょう。この不安を和らげ、より多くの家庭が脱炭素型のエネルギーシステムに参加してもらうには、プライバシーテックが助けになります。

例えば連合学習(Federated Learning)を使えば、各家庭のデータを外に出さずに需要予測モデルや調整計画を立案できます。先述した通り、地域の複数家庭が協力して電力需要を予測するモデルを連合学習で構築すれば、誰も生データは知りませんが全体として高精度な予測が得られます。この予測に基づいて「あしたの14時〜15時は需要ピークが来そうだからEVの充電を避けよう」というDR計画を各家に配布できます。家側では、モデルの指示に従って動くだけでプライバシーを侵すような監視は行われていません。また、ある家庭のデータに異常があってもそれはローカルに処理され、中央には統計的な情報しか伝わらないため、個々の生活パターンが漏れるリスクも低減します。

さらに、デマンドレスポンスの報酬やインセンティブを配分する際にもプライバシーテックが役立ちます。本来、誰がどれだけ協力したか詳細に把握しなければ公平な報酬配分は難しいですが、それでは各家庭の細かな節電行動が筒抜けです。ここで、例えばゼロ知識証明付きの報酬スキームを考えてみます。各家庭は自分の節電量を証明するためにゼロ知識証明を生成し、中央のプラットフォームに提出します。プラットフォーム側は、それぞれの証明を検証するだけで(中身のデータを知ることなく)各家庭が約束通り節電したことを確認できます。そして合計の節電量に応じて報酬を配分します。この方法なら、誰が何kWh節電したかという個別実績を中央が保持することなく、公平な成果配分が達成できます。

要するに、プライバシー保護技術を取り入れた「ブラックボックス型の協調」によって、家庭は安心してエネルギープログラムに参加できるようになります。これは再エネ普及にも好循環を生みます。たとえば、太陽光の余剰電力を近隣で融通するピアツーピアエネルギー取引や、EVの充放電を活用したバーチャルパワープラント(VPP)など、市民や消費者が主体的に関与する脱炭素施策はプライバシーへの配慮があってこそ広がります。プライバシーテックによって「データ提供への抵抗感」を低減し、「自分の情報は守られている」という信頼感を醸成できれば、多くの家庭が脱炭素社会づくりのアクションに加わってくれるでしょう。

セキュリティとプライバシーは両輪

なお、スマートグリッドに関連してはサイバーセキュリティの重要性も忘れてはなりません。大量のエネルギーデータがやり取りされる仕組みは、そのままではサイバー攻撃の標的にもなり得ます。プライバシー保護と情報セキュリティは車の両輪のような関係で、どちらか欠けても安心安全なエネルギー基盤は実現しません。プライバシーテックの導入によってデータ自体へのアクセスを制限することは、結果的にセキュリティ強化にもつながります。例えば、データを暗号化したままにしておけば万一通信が傍受されても意味のある情報は得られませんし、データを分散管理すれば一箇所が破られても被害は限定的です。このように、プライバシー保護=セキュリティ向上という相乗効果も期待できます。エネルギーという社会インフラ分野では特に、これら技術を総合的に組み合わせて堅牢かつ信頼できるシステムを構築することが、長期的な普及のために不可欠です。

企業・サプライチェーンの脱炭素:機密データを守りつつ協調する

次に、企業や産業分野でプライバシーテックが果たす役割について考えてみます。特にサプライチェーン全体での脱炭素(Scope3排出削減)や、業界を超えたデータ連携によるイノベーション創出に注目します。ここでのキーワードは「協調と競争の両立」です。すなわち、企業同士が協力して環境目標を達成しつつも、自社の競争上重要な情報は守るというバランスを取ることです。

なぜ企業間データ共有が必要か

自動車、電子機器、食品、建設…どの業界でも、単独の企業が製品やサービスを完結させているわけではありません。多くの部品・素材メーカー、物流業者、小売業者などが関与するバリューチェーン全体でCO2排出を減らさなければ、真の脱炭素は達成できません。しかし、企業間の連携にはデータのやり取りが伴います。製品ひとつの排出量を正確に算出しようとすれば、原材料のライフサイクルデータから製造エネルギー使用量、輸送距離、廃棄リサイクル率に至るまで情報を突き合わせる必要があります。これにはサプライヤーから顧客まで垣根を越えたデータ共有が欠かせません。

現状、多くの企業は機密保持の観点から詳細データの提供に消極的です。前述の通り、「自社のコア技術が推測されるような情報は出したくない」「データをプラットフォームに上げた後、誰に見られるか分からないのは不安だ」という声が多く上がっています。その結果、サプライチェーン排出量の算定は一部推計や業界平均値頼みとなり、削減努力の進捗を正確に把握できない問題があります。さらに、データ共有が進まないことで失われているチャンスも大きいのです。例えば先ほど触れた物流の最適化に限らず、製造プロセスの相互学習(他社の省エネ方法を知って自社も真似る)、在庫や需要情報の共有(無駄な生産や廃棄を減らす)、共同でのカーボンオフセット投資(複数社で協調し森林保全等に投資)など、協調すれば単独では得られない効果が期待できます。実際、ある試算によれば企業がサプライチェーン上でリアルタイムに物流データ等を共有し合うことで、排出削減だけでなく新たなビジネスモデルの創出やコスト削減にも寄与しうるとされています。つまり、データ共有こそが産業界の脱炭素イノベーションの土台となり得るのです。

プライバシー保護技術で競争と協調を両立

では、企業が安心してデータ共有に踏み切るには何が必要でしょうか。言うまでもなく、企業秘密や個人情報が外部に漏れない保証です。ここにプライバシーテックが活きてきます。

  • データ信託と契約によるガバナンス: 前述したデータトラスト(信託)の枠組みを企業間連携に活用する動きがあります。例えば業界横断の非営利組織を立ち上げ、そこが各社の排出データを預かり管理する代わりに「目的外利用の禁止」「関係者以外アクセス不可」「集計結果だけを共有」といったルールを厳格に適用します。この第三者は各社との間で法的な契約を結んでおり、違反時の罰則や責任も明確化します。さらに技術面でも、データは暗号化されたまま預かり、解析は隔離された安全な環境で実施し、生のデータは誰も直接閲覧しない——といった信頼の仕組みを構築します。実際の例として、欧州の「SINE Foundation」や前述のCatena-Xは、中立機関として企業データを扱い信頼のハブとなっています。これにより「データ提供者の権利を守りつつ分析だけ実行する」ことが可能となり、企業も参加しやすくなっています。

  • 高度な暗号技術の活用: 技術面の保証として、ホモモルフィック暗号やSMPCゼロ知識証明といった暗号手法が企業間データ連携に適用できます。例えば、企業グループ全体のCO2総排出量を算出する際、各社の値を暗号化したまま加算するホモモルフィック暗号なら、誰も他社の値を知りません。また新製品の環境性能を共同で評価する場合、各社の持つテストデータをSMPCで分析すれば、結果(例えば「基準達成/未達」)だけを共有し、各社の詳細データやノウハウは秘匿できます。ゼロ知識証明も有力です。ある部品メーカーが「自社の製造工程排出量は業界平均以下」とサプライヤーに保証する際、詳細な工程データは隠してその事実だけ証明できます。こうした技術を駆使すれば、「秘密を守りながら証明・集計・分析する」ことが可能となり、企業は安心して協調に踏み出せます。研究レベルでは、ブロックチェーンとゼロ知識証明で取引の透明性と企業機密の非公開を両立するエネルギープラットフォームの開発が進んでいます。近未来的な例ですが、スマートコントラクト上で排出量取引を自動化しつつ、各社の排出実績データはゼロ知識で隠すといった応用も見えてきました。

  • 分散型データ管理とアクセス制御: 中央集権的なプラットフォームに機密データを集約することに抵抗がある企業も多いでしょう。そこで分散管理の考え方が重要です。各社のデータは自社に置いたまま、必要なときにピンポイントでデータを取り出して使う。あるいはデータそのものは動かさず、計算クエリ(問い)のほうを各社に送って結果だけ回収する、といった方式です。連合学習もこの一種と言えますが、それ以外にもデータマーケットプレイスのような形で各社が提供可能なデータ一覧だけ公開し、実際のデータ提供は相手の信用度や契約に応じて双方向で直接やり取りする、という枠組みも考案されています。これを補助するのがアクセス制御と監査ログです。誰がいつどのデータにアクセスしたかを記録・監査できる仕組みを入れることで、「出したデータが勝手に広まらないか」という不安を和らげます。要するに、痕跡を残し責任を明確化する技術です。具体的にはブロックチェーン技術を用いてアクセスログを改ざん不可能な形で保存し、データ提供者はいつでも確認できるようにする、といった実装が考えられています。これらの施策により、企業は「データを出しっぱなしにさせられる」感覚ではなく、自分たちでコントロールしながら協力しているという感覚を持てるようになります。

以上のように、プライバシーテックを駆使すれば企業間の「競争力維持」と「データ協調」は両立可能です。実際、欧州ではデータ戦略の一環として産業データ共有基盤「GAIA-X」エネルギーデータスペース構想が動き始めており、その根底にはプライバシー・セキュリティを確保した技術基盤づくりがあります。国境を越えた自由なデータ流通を促進しつつ各社の機密も守る枠組みとして、中立的データ共有基盤+プライバシー保護技術は今後ますます重要になるでしょう。この土台がしっかり築かれれば、企業は安心して環境データを共有し、サプライチェーン全体での脱炭素化をスピードアップできます。それはひいては業界全体の競争力強化(ムダの削減やブランド価値向上)にもつながり、環境と経済の好循環を生み出すはずです。

プライバシーとイノベーションの両立がもたらす未来

ここまで見てきたように、プライバシー保護技術は脱炭素社会への移行を加速する強力な武器となり得ます。最後に、プライバシーテックを活用して新たな価値を創造するためのポイントを整理し、未来への展望を述べます。

プライバシーと脱炭素を両立させるためのポイント

  1. プライバシー・バイ・デザインの徹底エネルギー関連のサービスやシステムを設計する段階から、プライバシー保護を組み込むことが重要です。データ収集は「最小限、必要な範囲だけ」に限定し(データ最小化の原則)、利用目的を明確化する。例えばスマートメーターでも、必要以上に細かいデータは取らない設定や、ユーザー自身が測定頻度を選べる仕組みを提供するなど、利用者主体の設計が信頼につながります。また、新しい脱炭素サービスを導入する際は、その利便性や環境メリットだけでなくプライバシー対策をしっかり周知し、透明性を持って説明することが不可欠です。設計段階からプライバシーを考慮することで、「便利だけど心配」という状況を避け「便利で安心」を実現しましょう。

  2. 先進技術の積極活用と実証差分プライバシー、暗号技術、連合学習など、近年飛躍的に実用化が進むプライバシーテックを実際のエネルギープロジェクトに適用してみることが重要です。最初から100%完璧な解決策でなくとも、小規模な実証(PoC)を通じて効果と課題を検証できます。例えば、ある地域のデマンドレスポンスで連合学習+差分プライバシーを試してみる業界内の2,3社でホモモルフィック暗号による共同集計をやってみる、といったパスファインダー(道しるべ)プロジェクトが有効です。また、実データを使えない場合は合成データ(シンセティックデータ)で代替し、技術検証する方法もあります。これによりプライバシーを侵害するリスクなくアルゴリズムの有用性をテストできます。研究機関やスタートアップとも協力し、試行錯誤を重ねてベストプラクティスを蓄積することが、ひいては世界標準をリードすることにもつながります。

  3. インセンティブ設計と透明性 – データ提供者(消費者や企業)が「データを共有してよかった」と実感できる仕組みづくりが重要です。例えば家庭向けには、プライバシーに配慮した上で電気料金の割引やポイント還元など見返りを提示し、データ活用による公共的メリット(CO2削減や停電リスク低減など)をわかりやすくフィードバックすることです。自分のデータ提供がどんな良い結果を生んだのか、逆にデータを出さないことでどんな機会が失われるのかデータを共有しないことのコスト)も明示すると、協力の動機付けになります。同時に、プライバシー保護策についてもオープンに開示し、独立機関の監査を受けるなど透明性と説明責任を徹底しましょう。これにより利用者の不信感を和らげ、「この取り組みなら信用できる」と思ってもらえるようになります。

  4. 標準化と政策支援 – プライバシーとデータ活用を両立する枠組みを広く普及させるには、業界標準政策の整備が欠かせません。例えばエネルギーデータのフォーマット標準化や相互運用性の確保は、各社・各機関が安全な形でデータをやり取りする土台になります。また、規制当局も「エネルギーデータは原則オープンだが適切なプライバシー保護措置を講じること」といった方針を明確に示すことで、企業が動きやすくなります。欧州ではGDPRや各国のエネルギー法制でスマートメーターデータの扱いが定められていますし、英国ではOfgem(エネルギー規制当局)が「すべてのエネルギーデータは公開が原則」とするガイダンスを発出しつつプライバシーにも配慮する姿勢を打ち出しました。日本においても、個人情報保護法制とエネルギー政策を調和させつつ、企業が安心してデータ共有協力できるガイドライン策定官民連携の推進が求められます。政策による後押しと明確なルールがあれば、企業も消費者も迷わず行動できるでしょう。

  5. 国際協力と知見の共有 – 気候変動もデータ流通も国境を越える課題です。プライバシーテックの活用についても国際協力が鍵となります。各国での成功事例や技術知見を共有し、国際標準化団体でルールづくりを進めることが重要です。また、先進的な取り組みを行う企業・都市・団体がネットワークを形成し、ベストプラクティスを世界に発信していくことも有益でしょう。例えば、欧州のエネルギーデータ共有フレームワークや米国DOEのプログラム、日本のスマートシティ実証などで得られた知見をまとめ、国連やIEA(国際エネルギー機関)などの場で議論することが考えられます。プライバシーを守りながら脱炭素を進めるフレームワークは各国共通の利益になるはずで、ここで主導権を握ることは技術立国としての地位向上にもつながります。

おわりに:プライバシーを制する者が脱炭素を制す?

データなくして脱炭素なし——このスローガンが示す通り、データ活用は気候危機に立ち向かう切り札です。

しかし、その反面「プライバシーなくしてデータ活用なし」という現実も浮かび上がってきました。人々や企業の信頼を得ずして、大量のデータを集め分析することはできません。プライバシーテックは、この信頼と活用の両立を可能にする架け橋です。高度に洗練された技術と賢明な制度設計を組み合わせることで、「個人の権利・企業の競争力を守りながら社会全体の利益を最大化する」ことが現実のものとなります。

まるで魔法のようですが、実は既に世界各地でこの動きは始まっています。スマートメーターのプライバシー問題への対策として差分プライバシーや連合学習が導入され始め、企業連合は暗号技術を用いて機密データを共有しようと試みています。政府もプライバシー技術コンテストを開催し、技術開発を後押ししています。つまり、プライバシーテックはもはや研究室の中の理論ではなく、脱炭素社会の実現を左右しうる実践的ツールとなったのです。

もちろん課題が皆無なわけではありません。プライバシー保護技術を使えば万能というわけではなく、技術的な複雑さや計算コスト、プライバシーとデータ精度のトレードオフなど注意点もあります。それでも、従来の「データを見せない/もらえない」壁を破る突破口として、その価値は計り知れません。重要なのは、私たち社会全体がこの新しいテクノロジーを正しく理解し、使いこなしていくことです。

プライバシーテックによってデータへの安心感が生まれれば、より多くのデータが気候ソリューションに使われ、脱炭素のイノベーションが加速します。データがロックされ宝の持ち腐れになる「もやもや」した状況から、データが解き放たれてみんなの役に立つ「すっきり」した未来へと転換できるのです。

最後に強調したいのは、プライバシーと持続可能性は対立するものではなく、両立できる目標であるということです。むしろ21世紀のこれからの社会では、両者を高い次元で満たすことが求められます。プライバシーをおろそかにした技術は人々の支持を失い、脱炭素も進みません。一方、環境課題に目を向けないままプライバシーだけ守っていても本末転倒です。その両方を追求するプライバシーテックの発展・実装こそ、私たちが目指すべき持続可能で公正な未来への道筋でしょう。プライバシーを制する者が脱炭素を制す——そんな時代がすぐそこまで来ています。私たち一人一人も、この潮流を捉え、安心でグリーンな社会づくりに参加していきましょう。データとプライバシーの調和が、新たなイノベーションと地球の未来を切り拓いていくのです。

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著者情報

国際航業株式会社カーボンニュートラル推進部デジタルエネルギーG

樋口 悟(著者情報はこちら

国際航業 カーボンニュートラル推進部デジタルエネルギーG。環境省、トヨタ自働車、東京ガス、パナソニック、オムロン、シャープ、伊藤忠商事、東急不動産、ソフトバンク、村田製作所など大手企業や全国中小工務店、販売施工店など国内700社以上・シェアNo.1のエネルギー診断B2B SaaS・APIサービス「エネがえる」(太陽光・蓄電池・オール電化・EV・V2Hの経済効果シミュレータ)のBizDev管掌。再エネ設備導入効果シミュレーション及び再エネ関連事業の事業戦略・マーケティング・セールス・生成AIに関するエキスパート。AI蓄電池充放電最適制御システムなどデジタル×エネルギー領域の事業開発が主要領域。東京都(日経新聞社)の太陽光普及関連イベント登壇などセミナー・イベント登壇も多数。太陽光・蓄電池・EV/V2H経済効果シミュレーションのエキスパート。Xアカウント:@satoruhiguchi。お仕事・新規事業・提携・取材・登壇のご相談はお気軽に(070-3669-8761 / satoru_higuchi@kk-grp.jp)

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