2026年 人的資本開示を企業価値創造エンジンへと転換する

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国際航業株式会社カーボンニュートラル推進部デジタルエネルギーG

樋口 悟(著者情報はこちら

国際航業 カーボンニュートラル推進部デジタルエネルギーG。環境省、トヨタ自働車、東京ガス、パナソニック、オムロン、シャープ、伊藤忠商事、東急不動産、ソフトバンク、村田製作所など大手企業や全国中小工務店、販売施工店など国内700社以上・シェアNo.1のエネルギー診断B2B SaaS・APIサービス「エネがえる」(太陽光・蓄電池・オール電化・EV・V2Hの経済効果シミュレータ)のBizDev管掌。再エネ設備導入効果シミュレーション及び再エネ関連事業の事業戦略・マーケティング・セールス・生成AIに関するエキスパート。AI蓄電池充放電最適制御システムなどデジタル×エネルギー領域の事業開発が主要領域。東京都(日経新聞社)の太陽光普及関連イベント登壇などセミナー・イベント登壇も多数。太陽光・蓄電池・EV/V2H経済効果シミュレーションのエキスパート。Xアカウント:@satoruhiguchi。お仕事・新規事業・提携・取材・登壇のご相談はお気軽に(070-3669-8761 / satoru_higuchi@kk-grp.jp)

エネがえるキャラクター
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目次

2026年 人的資本開示を企業価値創造エンジンへと転換する

序論:コンプライアンスを超えて – 日本における戦略的人的資本開示の夜明け

2026年3月期より適用される有価証券報告書における人的資本開示の拡充は、単なる規制強化や報告義務の追加ではない。これは、日本のコーポレートガバナンスにおける歴史的なパラダイムシフトを象徴するものである。

すなわち、従業員を管理すべきコストとしての「人的資源」から、企業価値を創造する中核資産としての「人的資本」へと、その位置づけを公式に転換する瞬間である 1。この変革は、ESG投資の世界的な潮流と、国内における生産性向上および企業価値増大という喫緊の課題によって加速されている 4

本レポートの中心的な論点は、戦略的かつ透明性の高い、そして説得力のある物語性を伴った人的資本開示が、もはや企業の「任意科目」ではなく、その将来的な成長性、強靭性(レジリエンス)、そして経営の質を示す極めて重要な先行指標であるという点にある。2026年の新ルールは、そのための「骨格」を提供するが、真の機会は、この骨格を用いて、投資家を惹きつけ、企業価値を高めるための説得力ある投資テーマを構築することにある。

本稿では、まず第1部で、この新たな規制の全体像を解体し、その戦略的背景を明らかにする。続く第2部では、人的資本投資と企業価値の間の因果関係を定量的に証明する。第3部では、企業が世界水準の開示を実践するための具体的なプレイブックを提示する。そして最後に第4部で、AIの台頭や労働市場の変化といった、人的資本経営の次なるフロンティアを探求する。


第1部:規制の荒波 – 2026年開示拡充の完全解剖

このセクションでは、新たな規制の枠組みを詳細に分析し、それが明確な戦略的思想に基づくいかに論理的な進化であるかを明らかにする。

1.1. 2023年から2026年へ:戦略的深化への飛躍

2023年3月期決算から、有価証券報告書に「サステナビリティに関する考え方及び取組」の記載欄が新設され、上場企業約4,000社を対象に人的資本情報の開示が義務化された 6。これは、「人材育成方針」や「社内環境整備方針」、そして女性管理職比率などの特定の多様性指標の開示を求めるものであった。この2023年の義務化は重要な第一歩であったが、各情報が個別の報告項目として扱われ、企業によってはチェックリストを埋めるような形式的な対応に留まる可能性も残されていた。

2026年3月期から適用される金融庁の改訂は、この点を根本的に変革するものである 10最大の変更点は、これまで別々に記載されていた定量的な「従業員の状況」と、定性的な「サステナビリティ情報としての人的資本関連情報」を一本化することにある 12

この統合がもたらす戦略的含意は大きい。

  • 戦略的物語(ナラティブ)の義務化:この一本化により、企業は従業員数や平均勤続年数といった単なる数値と、人材育成やダイバーシティ&インクルージョン(D&I)といった戦略的目標との間に明確な繋がりを持たせ、一貫した物語として説明することが強制される 12

  • 動的指標(ダイナミック・メトリクス)の導入:従業員の平均給与について、単年度の実額だけでなく、その増減率の記載を求めることは、静的なスナップショットから動的なトレンド分析への移行を意味する 12。これにより、企業の人材への投資姿勢が時系列で可視化される。

  • スコープの拡大と統合:女性管理職比率や男女間賃金格差といった指標が、単なる多様性の項目としてではなく、人的資本戦略全体の文脈の中で語られるべき中核的な要素として位置づけられる 12

2023年のルールでは、企業はデータをあるセクションで、戦略を別のセクションで語ることが許容されていた。投資家は、断片化された情報をつなぎ合わせ、企業の人材戦略の全体像を自ら再構築する必要があった。これは、いわば「開示における失読症(ディスクロージャー・ディスレクシア)」とも呼べる状態で、人と業績の真の関連性を読み解くことを困難にしていた。2026年の一本化は、金融庁がこの症状を治療するための直接的な介入である。定量データと定性戦略を同じ記載欄に強制的に統合することで、金融庁は物語としての一貫性を制度的に要求している。その二次的効果として、報告書の構造変化は、企業内部の思考様式の構造変化を促す。人事、財務、経営企画部門は、もはやサイロ化されたままでは報告書を作成できない。単一の、統合された物語を構築するために協働せざるを得なくなる。これは、報告様式の更新という名の下に隠された、深遠な組織運営上・文化上の変革なのである。

1.2. 指導原則:日本の公式プレイブックを解読する

今回の規制強化は、経済産業省と内閣官房が主導する二つの重要な指針によって、その思想的・実践的な基盤が支えられている。

  • 経済産業省「人材版伊藤レポート(1.0 & 2.0)」:The “Why”(なぜ)

    「人材版伊藤レポート」シリーズは、新たな開示ルールの「魂」とも言える哲学的背景を提供する 15。守りの人事管理から、長期的な企業価値向上を目的とした攻めの人的資本投資への転換を強く提唱している。特に「人材版伊藤レポート2.0」で提示された「3つの視点・5つの共通要素(3P・5Fモデル)」は、企業が自社の人的資本経営を構想する上での中核的なフレームワークとなる 16。

    • 3つの視点 (Perspectives):1) 経営戦略と人材戦略の連動、2) As is-To beギャップの定量把握、3) 企業文化への定着 1

    • 5つの共通要素 (Common Factors):1) 動的な人材ポートフォリオ、2) 知・経験のダイバーシティ&インクルージョン、3) リスキル・学び直し、4) 従業員エンゲージメント、5) 時間や場所にとらわれない働き方 1

  • 内閣官房「人的資本可視化指針」:The “What” & “How”(何を、どうやって)

    「人的資本可視化指針」は、伊藤レポートの思想を具体的な開示行動に落とし込むための実践的ガイドラインである 20。

    • 中核思想:人的資本情報をビジネスモデルと結びつけ、物語性のある開示を行うことを求めている 13

    • 2つの開示類型:開示事項を、企業の独自戦略を語る「独自性のある事項」と、他社比較を可能にする「比較可能性のある事項」に分類している点が極めて重要である 13

    • 7分野19項目:企業が開示を検討する際の具体的な「メニュー」として、人材育成、エンゲージメント、流動性、ダイバーシティなど7つの分野と19の項目例を提示している 23

これら二つの指針は独立した文書ではなく、一つの統合された国家戦略の両輪をなすものである。「人材版伊藤レポート」が戦略立案のための高次なビジョンを提供し、「人的資本可視化指針」がその戦略を報告するための戦術的なフレームワークを提供する。つまり、伊藤レポートの「3P・5Fモデル」は企業戦略のインプットであり、可視化指針の「7分野」は開示のアウトプットとなる。世界水準の開示報告は、この両者の連携を明確に示すものとなるだろう。「我々の経営戦略である〇〇(伊藤レポートの要素、例:動的な人材ポートフォリオの構築)を達成するため、我々は△△(可視化指針の分野、例:流動性)に注力し、これらのKPIで進捗を測定している」といった形で、インプットとアウトプットを繋げて説明することが求められる。

1.3. グローバルな文脈:国際的な先行事例から学ぶ

日本の今回の動きは、世界的な潮流と軌を一つにするものである。主要な国際基準を理解することは、グローバルな投資家との対話において不可欠である。

  • ISO 30414:グローバルな指標の「辞書」

    ISO 30414は、人的資本報告に関する世界初の国際標準規格である 4。コスト、ダイバーシティ、生産性、スキルなど11の領域と49の測定基準を定義しており、日本企業が開示情報をグローバルに通用し、比較可能なものにするための普遍的な「辞書」として機能する 25。2025年に予定されている改訂では、ウェルビーイングやAIスキルへの注目が高まる見込みであり、これは将来の開示トレンドを示唆している 26。

  • 米国証券取引委員会(SEC)規則S-K:原則主義アプローチ

    2020年に改正されたSECの規則は、「登録者の事業全体を理解する上で重要な範囲において」、人的資本に関する情報開示を義務付けている 27。この規則は、特定の指標を prescriptive(規定的)に定めるのではなく、”materiality”(重要性)の概念に基づき、企業に裁量と説明責任を委ねる principles-based(原則主義)のアプローチを採っている 27。

    MicrosoftやAccentureといった先進企業のForm 10-K(年次報告書)を分析すると、彼らが企業文化、タレント育成、D&I、ウェルビーイングといったテーマを中心に、定性的な物語と定量的なKPIを巧みに組み合わせた開示を行っていることがわかる 30。これらは、日本企業が目指すべき「ゴールドスタンダード」として具体的な手本となる。

これらの国内外のフレームワークを統合的に理解し、活用することが、戦略的な人的資本経営と開示の鍵となる。

表1:統合的人的資本フレームワーク

人材版伊藤レポート (3P/5Fモデル) 人的資本可視化指針 (7分野) ISO 30414 (11領域) 戦略的アクションとKPIの例
経営戦略と人材戦略の連動 (3P) 戦略全体を統括 リーダーシップ、後継者計画 経営会議での人的資本アジェンダの議論回数、CHROの設置
As is-To be ギャップの定量把握 (3P) 全分野にわたる指標設定 生産性、コスト 人的資本ROI (HCROI)、従業員一人当たり売上高、スキルギャップ分析
動的な人材ポートフォリオ (5F) 流動性 (採用・維持・サクセッション) 採用・異動・離職、後継者計画 重要ポジションの後継者充足率、ハイパフォーマー離職率、内部登用率
知・経験のD&I (5F) ダイバーシティ (多様性・非差別・育休) ダイバーシティ 女性・外国人管理職比率、男女間賃金格差、インクルージョン調査スコア
リスキル・学び直し (5F) 人材育成 (リーダーシップ・育成・スキル) スキルと能力 従業員一人当たり研修時間・費用、デジタル人材比率、資格取得者数
従業員エンゲージメント (5F) エンゲージメント (従業員満足度) 組織文化 エンゲージメントサーベイのスコア、eNPS (従業員推奨度)
時間や場所にとらわれない働き方 (5F) 労働慣行、健康・安全 健康・安全 リモートワーク実施率、時間単位有給取得率、ストレスチェック結果

この統合フレームワークは、現在多くの企業が直面している「複数の複雑な指針をどう整理し、実行に移すか」という課題に対する直接的な回答である。これにより、例えば伊藤レポートが提唱する「リスキル」という戦略的要素が、可視化指針の「人材育成」という開示分野に該当し、それをISO 30414の「スキルと能力」領域で定義された具体的な指標で測定するという、一気通貫した戦略立案と実行、そして報告のプロセスが可能になる。


第2部:価値創造の方程式 – 人的資本リターンの定量化

このセクションでは、「何を開示するか」から「なぜそれが重要なのか」へと焦点を移し、人的資本の財務的 materiality(重要性)について、確固たるエビデンスに基づいた論証を構築する。

2.1. 因果の連鎖:投資から企業価値へ

人的資本への投資が企業価値を高めることは、もはや単なる信念ではない。それは、数々の学術研究やコンサルティングファームの分析によって裏付けられた経済的な事実である。

  • 主要な研究エビデンス

    • McKinsey & Companyの調査によれば、「人と業績の勝者(People + Performance Winners)」、すなわち人材投資とトップレベルの収益性を両立する企業は、より高い収益成長を達成し、危機的状況において優れた強靭性を示す 32。また、個人の生涯賃金の約半分は職場での経験によって形成されることも示されており、企業内部で創造される価値の大きさを物語っている 34

    • ペンシルベニア大学ウォートン・スクールのレポート「The People Factor」は、「コミットした雇用主(従業員への投資という言説を実行に移す企業)」であることと、より高い投下資本利益率(ROIC)、売上成長率、そして低い離職率との間に直接的な相関関係があることを明らかにしている 36

    • Schrodersとオックスフォード大学の共同研究は、人的資本ROI(HCROI)と、複数の期間およびセクターにわたる将来の超過株式リターンとの間に正の相関があることを実証している 37

  • 価値創造の伝達メカニズム

    人的資本投資は、魔法のように企業価値を生み出すわけではない。そこには明確な因果の連鎖が存在する。すなわち、投資(例:研修、ウェルビーイング施策)がアウトプット(例:スキル向上、エンゲージメント向上)を生み、それがアウトカム(例:生産性向上、イノベーション創出、離職率低下)につながり、最終的に財務的インパクト(例:売上増加、コスト削減、ROE改善)として結実するのである 38。

従来の財務諸表(損益計算書や貸借対照表)は、過去の業績を報告する遅行指標である。一方で、投資家の役割は未来を予測することにある。上記のエビデンスが示すように、今日の人的資本への投資(研修、企業文化、D&I)は、明日の財務結果(強靭性、イノベーション、ROIC)と強く相関している。したがって、質の高い人的資本開示は、単なるコンプライアンス文書ではなく、未来志向の目論見書に他ならない。それは、企業の「成長エンジン」の質を、その成果が財務諸表に現れる前に垣間見せる、投資家にとって最も価値ある先行指標の一つなのである。

2.2. 投資家の視点:市場が真に評価するもの

KPIの数値自体も重要だが、洗練された投資家は、その数値の背後にある物語を求めている。金融庁自身の「記述情報の開示の好事例集」も、投資家が経営戦略と人事施策の明確な連関性を重視していることを強調している 40

したがって、人的資本開示は、投資家が抱く以下のような根源的な問いに答える形で構成されるべきである。

  • 成長性(Growth):貴社のタレント戦略は、競合他社よりも速く新市場に参入したり、イノベーションを創出したりするために、どのように貢献しているか?(例:住友ゴム工業株式会社のDX人材育成 40

  • リスク(Risk):スキルギャップ、高い離職率、重要人材の獲得難といったタレントリスクをどのように軽減しているか?(例:Microsoftの従業員リテンションへの注力 30

  • 効率性(Efficiency):人的資本への投資は、生産性と収益性をどのように向上させているか?(例:株式会社SHIFTのエンゲージメントと業績の連動 40

  • ガバナンス(Governance):取締役会は人的資本戦略をどのように監督しているか?CHROは経営の戦略的パートナーとして機能しているか?(例:三井物産株式会社におけるCHROの役割 40

2.3. 人的資本ROI(HCROI)フレームワーク

人的資本投資の効果を財務言語に翻訳する強力なツールが、人的資本ROI(HCROI)である。

  • HCROIの定義:HCROIは、人的資本への投資がどれだけの利益を生み出したかを示す指標である。一般的な計算式は以下の通りである 37

  • 実践的活用:HCROIは、単なる開示指標ではなく、強力な内部管理ツールでもある。この指標を用いることで、人事部門はCFOや経営陣に対して、研修、ウェルネス、D&Iといった施策への投資がもたらす財務的リターンを具体的に示し、その正当性を主張することができる 41

  • HCROIを超えて:HCROIに加え、従業員一人当たり売上高、従業員一人当たり利益、エンゲージメントスコアと業績の相関分析などを組み合わせることで、人的資本のパフォーマンスを多角的に評価するダッシュボードを構築することが可能になる。


第3部:企業のプレイブック – 世界水準の開示に向けたステップ・バイ・ステップ・ガイド

このセクションでは、企業が理論を実践に移すための、極めて具体的かつ実行可能なガイドを提供する。

3.1. ステップ1:データ基盤の構築

  • 中核的課題:多くの企業にとって最初の、そして最大の障壁はデータ収集である。人材に関する情報は、人事情報システム(HRIS)、給与システム、学習管理システム(LMS)、エンゲージメントサーベイ、そして財務部門の会計システムなどに散在しているのが実情である 42

  • 解決策 – 「Single Source of Truth」の確立:この課題を克服するためには、タレントマネジメントシステムなどのHRテクノロジーを活用し、これらの分散したデータソースを統合・一元管理する「信頼できる唯一の情報源」を構築することが不可欠である 43

  • データの種類:収集するデータは、エンゲージメントサーベイのような主観的データと、PCのログデータや業績データのような客観的データに大別される。客観的データは開示情報の信頼性を高める上で強力な武器となるが、従業員に「監視されている」という印象を与え、エンゲージメントを低下させるリスクも伴うため、その導入と活用には慎重な配慮が求められる 45

3.2. ステップ2:戦略的KPIの選定と目標設定

  • 「見栄え指標(Vanity Metric)」の罠を回避する:単に開示しやすい、あるいは見栄えが良いだけの汎用的な指標を並べることは避けるべきである。最も重要なのは、可視化指針が強調する「独自性」の原則に基づき、自社の独自の経営戦略と直結したKPIを選定することである 13

  • 構造的アプローチ

    1. 経営戦略から出発する(例:「東南アジア市場への事業拡大」)。

    2. 必要な人的資本の要件を特定する(例:「現地リーダーの育成と、異文化対応可能な営業スキルの獲得」)。

    3. 具体的かつ測定可能なKPIを選定する(例:「東南アジアにおける現地人管理職比率(%)」「異文化交渉に関する研修時間」「東南アジアのハイパフォーマー社員の自発的離職率(%)」)。

表2:戦略的人的資本KPIメニュー

可視化指針の7分野 KPIの例 定義・計算式 戦略的意義 データソース例
1. 人材育成 従業員一人当たり研修費用 総研修費用 ÷ 従業員数 スキル向上への投資額を示す 財務、LMS
デジタル人材比率 デジタルスキル保有者数 ÷ 従業員数 DX戦略の実行能力を示す スキル評価、HRIS
2. エンゲージメント エンゲージメントスコア 定期サーベイによるスコア 従業員の意欲と定着の先行指標 エンゲージメントサーベイ
eNPS (従業員推奨度) (推奨者の割合 – 批判者の割合) × 100 組織の魅力と文化の健全性を示す パルスサーベイ
3. 流動性 ハイパフォーマー離職率 離職したハイパフォーマー数 ÷ 全ハイパフォーマー数 競争力の源泉たる人材の維持能力 人事評価、HRIS
内部登用率 内部から登用された管理職数 ÷ 全新規管理職数 人材育成とキャリアパスの有効性 HRIS
4. ダイバーシティ 女性管理職比率 女性管理職数 ÷ 全管理職数 意思決定層の多様性を示す HRIS
男女間賃金格差 (男性の平均賃金 – 女性の平均賃金) ÷ 男性の平均賃金 賃金の公平性を示す 給与データ
5. 健康・安全 労働災害度数率 (死傷者数 ÷ 延べ実労働時間数) × 1,000,000 職場の安全レベルを示す 安全衛生記録
アブセンティーイズム率 病気欠勤日数 ÷ 全所定労働日数 従業員の身体的健康状態を示す 勤怠データ
6. 労働慣行 有給休暇取得率 取得された年次有給休暇日数 ÷ 付与された年次有給休暇日数 ワークライフバランスの実現度 勤怠データ
団体交渉協約の適用率 労働組合員数 ÷ 従業員数 労使関係の安定性を示す HRIS
7. コンプライアンス コンプライアンス研修受講率 研修受講者数 ÷ 対象従業員数 倫理・コンプライアンス意識の浸透度 LMS
内部通報件数・対応状況 組織の自浄作用と透明性を示す 内部監査、法務

3.3. ステップ3:説得力のある物語の構築

最終的な目標は、データの羅列ではなく、戦略、行動、結果を結びつける説得力のある物語を語ることである 46。その物語は、以下の論理的な流れに沿って構築されるべきである。

  1. 我々のビジョン (Our Vision):我々の事業戦略とパーパスは何か?

  2. 我々の人材戦略 (Our People Strategy):我々の人的資本戦略は、このビジョンをどのように直接的に実現するのか? (例:株式会社レゾナック・ホールディングスの事業変革と人事戦略の連動 48)

  3. 我々の行動と投資 (Our Actions & Investments):具体的にどのような施策を実行しているか? (例:花王株式会社の従業員の挑戦への注力、伊藤忠商事株式会社の生産性重視 49)

  4. 我々の進捗と証明 (Our Progress & Proof):選定したKPIを用いて、成功をどのように測定しているか? (例:双日株式会社の動的KPIの活用 40)

  5. 我々の今後の道のり (Our Road Ahead):将来の目標と課題は何か?

金融庁の「好事例集」に挙げられた双日株式会社ニデック株式会社積水ハウス株式会社などの事例は、このような物語をいかに効果的に構築するかの優れた手本となる 40

3.4. ステップ4:非対称性への対処 – ネガティブ情報とギャップの開示

  • 信頼の必須条件:高い離職率、広がるスキルギャップ、未達に終わったD&I目標といったネガティブな情報を隠蔽することは、投資家の信頼を著しく損なう致命的な過ちである。

  • 戦略的開示フレームワーク:ネガティブな情報を建設的に開示するための3段階のフレームワークが存在する 51

    1. 透明性のある承認 (Acknowledge Transparently):ネガティブな事実や未達の目標を、明確かつ誠実に記述する。

    2. 厳密な原因分析 (Diagnose Rigorously):なぜそれが起きたのか、根本原因についてデータに基づいた分析を提供する。(例:「当事業部における離職率の高さは、退職者インタビューが示す通り、明確なキャリアパスの欠如に起因している」)

    3. 公的なコミットメント (Commit Publicly):その問題に対処するための具体的かつ期限を定めた行動計画と、進捗を追跡するためのKPIを明示する。

企業の基本的な本能は、悪いニュースを隠すことである。しかし、投資家はナイーブではなく、問題の存在をしばしば察知している。企業が自ら問題を積極的に開示する行為は、自己認識能力と経営の能力の高さを示す。そして、その問題に信頼できる解決策をセットで提示することで、企業は「彼らは問題を抱えている」という物語を、「彼らは自社の課題を能動的かつ有能に管理している」という物語へと転換させることができる。この戦略的な透明性の実践は、逆説的にも、完璧であるがゆえに信憑性の低い報告書よりも、はるかに強固な長期的信頼を構築しうるのである。

3.5. ステップ5:精査への備え – 第三者保証の台頭

  • 新たなフロンティア:人的資本データが投資判断においてより中心的な役割を担うようになるにつれて、そのデータの信頼性が厳しく問われることになる。これは、財務監査と同様に、第三者による保証や監査への需要を高める 42

  • 規制のシグナル:金融庁は、一部のサステナビリティ情報について保証を義務化する検討をすでに始めており、人的資本情報もその対象となる可能性が高い 53

  • 「保証対応可能」な体制構築:企業は、以下のチェックリストに基づき、保証に耐えうる体制を早期に構築すべきである。

    • データ定義と算定方法の明確化

    • データ収集・報告プロセスにおける強固な内部統制の導入

    • 報告される全指標に関する明確な監査証跡の作成

    • 監査法人などの保証提供機関との早期の対話 42


第4部:仕事と価値の未来 – 次なるフロンティアを航海する

この最終セクションでは、2026年の目前の期限を超えて、今後10年間の人的資本経営を形作るであろう戦略的な課題と機会に目を向ける。

4.1. 人間 + AI:新たな労働力のパラダイム

  • 破壊者かつ実現者としてのAI:LinkedInやDeloitteなどの調査が示すように、AIは仕事のあり方を根本的に変えつつある 55。それは単なる自動化に留まらず、人間の能力を拡張するものであり、そのためには「AIリテラシー」を持つ労働力を育成するための大規模なリスキリングが不可欠となる。

  • 開示への示唆:将来の人的資本開示は、以下の点に対応する必要がある。

    • AI関連スキルへの研修投資額

    • 生産性指標に対するAIのインパクト

    • AIによって影響を受ける職務の移行を管理するための戦略

    • 人事機能自体が、タレントマネジメントを改善するためにAIをどのように活用しているか

4.2. 変容する日本の労働市場

  • 人口動態という現実:パーソル総合研究所の「労働市場の未来推計2035」が示すデータを直視する必要がある 58。高齢者、女性、外国人の労働参加により就業者総数は増加するものの、生産年齢人口は減少し、2035年には384万人相当という大規模な人手不足が発生すると予測されている。

  • 戦略的必須事項:この人口動態の崖は、日本企業にとって、人材の獲得、定着、そして従業員一人当たりの生産性向上を、企業の存続に関わる死活問題へと変える。人的資本戦略は、もはや成長のドライバーであるだけでなく、生存のための前提条件となる。この文脈が、開示義務化全体の緊急性を劇的に高めている。

  • キャリア・オーナーシップの台頭:リクルートワークス研究所の調査結果が示すように、終身雇用という伝統的なモデルは過去のものとなりつつある 60。従業員は、自らを自己の人的資本の所有者とみなし、企業が成長機会を提供できなければ、その資本を「引き揚げる」ことを厭わない。このパワーシフトは、企業に対して、画一的なキャリアパスではなく、個人の自律的なキャリア形成を支援する役割を強く求める。

4.3. 今後の道のり:開示の継続的進化

  • サイロから統合へ:次の論理的なステップは、人的資本指標を有価証券報告書の一セクションに留めるのではなく、財務報告とより深く統合していくことだろう。

  • インパクトへの集中:将来の基準は、単なる投資(インプット)や活動(アウトプット)の開示に留まらず、それらが事業や社会に与えた測定可能なインパクト(アウトカム)の証明をより強く要求するようになるだろう。

  • 標準化の進展:現在は原則主義的なアプローチが主流であるが、投資家による比較可能性を向上させるため、より標準化された、グローバルに受け入れられる指標へと徐々に収斂していくことが予想される。


結論:人的資本は競争優位の源泉である – それを戦略的に開示せよ

本レポートの核心的な論点を要約する。2026年の開示義務化は、コンプライアンス課題ではなく、戦略的機会である。人的資本と企業価値の間には、証明可能な定量的連関が存在する。その価値を伝えるためには、構造化され、物語性のあるアプローチが不可欠である。そして、これは透明性と戦略的整合性を高めるための終わりなき旅である。

日本の企業リーダーたちに強く求められるのは、自社の人材を、厳しいグローバル市場および国内市場における最も防御困難な競争優位の源泉として捉え直すことである。2026年の開示指令は、企業の報告能力を試すテストではない。それは、その競争優位の価値を世界に向けて明確に表明するための、歴史的な好機なのである。


FAQ:2026年人的資本開示義務化に関する15の重要質問

  1. Q1: 2026年3月期からの主な変更点は何ですか?

    A1: 最大の変更点は、これまで別々に記載されていた「従業員の状況」(定量情報)と「サステナビリティに関する考え方及び取組」内の人的資本情報(定性情報)が一本化されることです。これにより、経営戦略と人材戦略の関連性を一貫した物語として説明することが求められます 12。また、従業員の平均給与の「増減率」の記載も新たに追加されます 12。

  2. Q2: この変更はどの企業に適用されますか?

    A2: 2023年3月期からの開示義務化と同様に、有価証券報告書の提出義務がある上場企業など約4,000社が対象となります 7。

  3. Q3: なぜ今、開示が強化されるのですか?

    A3: ESG投資の世界的な拡大を背景に、企業の持続的成長の源泉である無形資産、特に人的資本への投資家の関心が高まっているためです 4。また、日本の生産性向上という国内の経済課題も背景にあります 5。

  4. Q4: 「人材版伊藤レポート」とは何ですか?

    A4: 経済産業省が公表した報告書で、人材を「資本」と捉え、その価値を最大限に引き出すことで中長期的な企業価値向上につなげる「人的資本経営」の重要性を提唱したものです。開示ルールの思想的背景となっています 1。

  5. Q5: 「3P・5Fモデル」とは具体的に何ですか?

    A5: 「人材版伊藤レポート2.0」で示された、人的資本経営を実践するためのフレームワークです。「3つの視点(Perspectives)」は経営戦略との連動、As is-To beギャップの定量把握、企業文化への定着を指します。「5つの共通要素(Common Factors)」は動的な人材ポートフォリオ、D&I、リスキル、エンゲージメント、柔軟な働き方を指します 1。

  6. Q6: 「人的資本可視化指針」の役割は何ですか?

    A6: 内閣官房が公表した、企業が人的資本情報を開示する際の具体的な方法や開示項目例を示した実践的なガイドラインです。「独自性のある事項」と「比較可能性のある事項」の2つの類型に分けて開示を検討することを推奨しています 13。

  7. Q7: どのようなKPIを開示すべきですか?

    A7: 決まった答えはありません。重要なのは、自社の経営戦略と直結したKPIを選ぶことです。例えば、イノベーションが戦略なら「研究開発職のエンゲージメントスコア」や「新規事業提案件数」、グローバル展開が戦略なら「海外拠点における現地管理職比率」などが考えられます。可視化指針の7分野19項目が参考になります 23。

  8. Q8: データ収集はどのように進めればよいですか?

    A8: まず、社内に散在する人事、給与、研修、財務などのデータを特定します。長期的には、これらのデータを一元管理できるタレントマネジメントシステムなどのHRテクノロジーを導入することが効果的です 43。

  9. Q9: ネガティブな情報(高い離職率など)も開示する必要がありますか?

    A9: はい、開示することが強く推奨されます。ネガティブな情報を隠すことは投資家の信頼を損ないます。重要なのは、事実を誠実に開示した上で、その原因分析と今後の改善に向けた具体的な行動計画をセットで示すことです。これにより、経営の透明性と課題解決能力を示すことができます 51。

  10. Q10: 開示情報の信頼性を担保するにはどうすればよいですか?

    A10: 将来的には、財務情報と同様に第三者による保証が求められる流れにあります 42。今から、データの定義や算定プロセスを明確にし、内部統制を整備しておくことが重要です。

  11. Q11: 海外の動向(SECやISO)はなぜ重要ですか?

    A11: グローバルな投資家は、国際的な基準に照らして企業を評価します。ISO 30414のような国際標準に準拠した指標を用いることで、自社の開示が海外の投資家にも理解されやすくなり、比較可能性が高まります 26。SECの動向は、世界の開示トレンドの方向性を示しています 27。

  12. Q12: 人的資本投資は本当に企業価値に繋がるのですか?

    A12: はい。McKinsey、Wharton School、Schrodersなど、数多くの調査研究が、従業員への投資、高いエンゲージメント、D&Iの推進などが、企業の収益性(ROIC、ROE)、株価パフォーマンス、危機への耐性と正の相関があることを示しています 32。

  13. Q13: 開示にあたって最も重要なことは何ですか?

    A13: **物語性(ストーリーテリング)**です。単なるデータの羅列ではなく、「自社の経営戦略を実現するために、なぜこの人的資本戦略が必要で、どのように投資・実行し、その結果どうなったのか」という一貫した説得力のある物語を語ることが、投資家の理解と共感を得る鍵です 47。

  14. Q14: 準備期間はどのくらい必要ですか?

    A14: 2026年3月期の有価証券報告書からの適用ですが、実質的な準備期間は1年未満の企業もあります 12。データ基盤の構築、KPI選定、戦略とのすり合わせには時間がかかるため、直ちに準備を開始することが賢明です。

  15. Q15: この開示は人事部だけの仕事ですか?

    A15: いいえ、全く違います。これは全社的な取り組みです。経営戦略との連動が不可欠なため、経営企画、財務、IR、そして人事部門が密に連携し、経営トップの強いコミットメントのもとで進める必要があります 1。

ファクトチェック・サマリー

本レポートの信頼性を担保するため、主要な主張とデータポイントの根拠を以下に要約します。

  • 2026年3月期からの開示拡充: 金融庁が2025年8月に発表し、従来の「従業員の状況」と「サステナビリティ情報」を一本化する方針です 10

  • 人的資本経営の思想的背景: 経済産業省の「人材版伊藤レポート」が、経営戦略と人材戦略の連動や「3P・5Fモデル」を提唱しています 1

  • 開示の実践的ガイドライン: 内閣官房の「人的資本可視化指針」が、7分野19項目の開示例や「独自性」と「比較可能性」の観点を提示しています 13

  • 国際標準: 人的資本報告の国際規格としてISO 30414が存在し、11領域49項目を定めています 4

  • 米国での先行事例: 米国SECは2020年から、重要性(materiality)を基準とした原則主義に基づく人的資本開示を義務付けています 27

  • 人的資本投資と企業業績の相関:

    • Wharton Schoolの研究では、「コミットした雇用主」は投下資本利益率(ROIC)が4.0%高いことが示されています 36

    • McKinsey & Companyの分析では、「人と業績の勝者」は高い収益成長と危機耐性を持つことが確認されています 32

    • Schrodersとオックスフォード大学の共同研究は、人的資本ROI(HCROI)と将来の超過株式リターンの正の相関を明らかにしています 37

  • 日本の労働市場予測: パーソル総合研究所は、2035年に日本で384万人相当の労働力が不足すると推計しています 59

  • 第三者保証の動向: 金融庁はサステナビリティ情報の一部について第三者保証の義務化を検討しており、人的資本情報も将来的な対象となる可能性があります 42

著者情報

国際航業株式会社カーボンニュートラル推進部デジタルエネルギーG

樋口 悟(著者情報はこちら

国際航業 カーボンニュートラル推進部デジタルエネルギーG。環境省、トヨタ自働車、東京ガス、パナソニック、オムロン、シャープ、伊藤忠商事、東急不動産、ソフトバンク、村田製作所など大手企業や全国中小工務店、販売施工店など国内700社以上・シェアNo.1のエネルギー診断B2B SaaS・APIサービス「エネがえる」(太陽光・蓄電池・オール電化・EV・V2Hの経済効果シミュレータ)のBizDev管掌。再エネ設備導入効果シミュレーション及び再エネ関連事業の事業戦略・マーケティング・セールス・生成AIに関するエキスパート。AI蓄電池充放電最適制御システムなどデジタル×エネルギー領域の事業開発が主要領域。東京都(日経新聞社)の太陽光普及関連イベント登壇などセミナー・イベント登壇も多数。太陽光・蓄電池・EV/V2H経済効果シミュレーションのエキスパート。Xアカウント:@satoruhiguchi。お仕事・新規事業・提携・取材・登壇のご相談はお気軽に(070-3669-8761 / satoru_higuchi@kk-grp.jp)

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