世界銀行報告書「カーボンプライシングの現状と動向 2025」の解析と日本の脱炭素シフトへの洞察の提示

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国際航業株式会社カーボンニュートラル推進部デジタルエネルギーG

樋口 悟(著者情報はこちら

国際航業 カーボンニュートラル推進部デジタルエネルギーG。環境省、トヨタ自働車、東京ガス、パナソニック、オムロン、シャープ、伊藤忠商事、東急不動産、ソフトバンク、村田製作所など大手企業や全国中小工務店、販売施工店など国内700社以上・シェアNo.1のエネルギー診断B2B SaaS・APIサービス「エネがえる」(太陽光・蓄電池・オール電化・EV・V2Hの経済効果シミュレータ)のBizDev管掌。再エネ設備導入効果シミュレーション及び再エネ関連事業の事業戦略・マーケティング・セールス・生成AIに関するエキスパート。AI蓄電池充放電最適制御システムなどデジタル×エネルギー領域の事業開発が主要領域。東京都(日経新聞社)の太陽光普及関連イベント登壇などセミナー・イベント登壇も多数。太陽光・蓄電池・EV/V2H経済効果シミュレーションのエキスパート。Xアカウント:@satoruhiguchi。お仕事・新規事業・提携・取材・登壇のご相談はお気軽に(070-3669-8761 / satoru_higuchi@kk-grp.jp)

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目次

世界銀行報告書「カーボンプライシングの現状と動向 2025」の解析と日本の脱炭素シフトへの洞察の提示

エグゼクティブサマリー

本レポートは、世界銀行の最新報告書「カーボンプライシングの現状と動向 2025」の分析に基づき、日本の脱炭素政策、特に再生可能エネルギーの普及加速に向けた課題と解決策を提示するものである。

世界銀行の報告書は、カーボンプライシングが世界的に主流の政策手段となり、年間1,000億ドル以上の歳入を生み出すまでに成長した一方で、現在の炭素価格はパリ協定の目標達成に必要な水準には依然として遠いという重要なメッセージを発信している 1

この世界的な潮流に対し、日本の「成長志向型カーボンプライシング構想」は、20兆円規模の投資計画を掲げる野心的な枠組みでありながら、導入時期の遅延と価格水準の低さから、国際社会との間に著しい価格差を生じさせている 4

この「価格シグナルの欠如」は、再生可能エネルギー分野への民間投資を阻害し、EUの炭素国境調整メカニズム(CBAM)のような政策によって日本産業が深刻な競争力リスクに晒されるという、二重の課題を生み出している 6

本レポートの中心的な論点は、日本の現行アプローチが、GX(グリーン・トランスフォーメーション)のタイムラインを加速し、価格シグナルを強化し、そして得られる歳入を電力系統の増強といった再生可能エネルギー分野のボトルネック解消に戦略的に再投資することによって、より効果的なものへと転換できるという点にある。

これにより、カーボンプライシングを単なるコストではなく、日本のエネルギー安全保障と長期的な産業競争力を確保するための戦略的エンジンへと変貌させることが可能となる。


第1章 世界のカーボンプライシングの動向:世界銀行2025年報告書の主要な結論

本章では、世界銀行の2025年報告書を分析の主軸とし、カーボンプライシングが直面する世界的な状況を概観する。かつては専門的な政策概念であったカーボンプライシングが、いかにして主流の経済ツールへと成熟し、同時にその潜在能力を完全には発揮できていない現状を明らかにする。

1.1 成熟しつつある政策ツール:対象範囲の拡大と1,000億ドルを超える歳入

カーボンプライシングは、過去20年間で目覚ましい成長を遂げた。現在、世界で稼働している制度は80件(炭素税43件、排出量取引制度(ETS)37件)に上り、前年から5件増加した 1。これは、20年前にはごく少数しか存在しなかった状況からの劇的な拡大である 9

これらの制度は、2024年に世界全体で1,000億ドルを超える公的歳入を生み出した 1。この歳入額はパリ協定締結以降3倍以上に増加しており 9、その半分以上が環境、インフラ、開発プロジェクトに充当されるなど、重要な気候変動対策資金となっている 1

制度がカバーする排出量は、世界の温室効果ガス(GHG)総排出量の約28%に達し、10年前の12%から倍増した 1これらの制度を導入している国・地域は、世界全体のGDPの約3分の2を占めている 2。特に、電力部門と産業部門では排出量の半分以上が価格付けの対象となっており、政策効果が最も高く現れている 1。一方で、農業や廃棄物といった分野は、依然としてほとんど価格付けの対象外となっている 8

1.2 価格シグナルの欠如:世界の炭素価格のばらつきとパリ協定目標との乖離

対象範囲が拡大する一方で、現在の炭素価格の水準は深刻なほど不十分である。価格は、ポーランドの1トン当たり米ドルという低水準から、ウルグアイの米ドル超まで、極めて大きなばらつきがある 13

世界の平均炭素価格は約米ドル/tCO2であり 14、排出量で加重平均した価格は2015年の約米ドル/tCO2から2025年には約米ドル/tCO2へと上昇したものの 16本格的な脱炭素化を促すには程遠い

決定的なのは、世界の排出量のうち、炭素価格ハイレベル委員会がパリ協定の目標達成に必要と推奨する価格帯でカバーされているのは5%未満であるという事実である 3。同委員会が推奨する価格帯は、2030年までに米ドル/tCO2eである 14。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)のモデルでは、1.5℃目標を達成するためには、2030年までに米ドル/tCO2という、さらに高い価格が必要になる可能性も示唆されている 19

この「価格シグナルの欠如」こそが、現在のグローバルシステムが抱える最大の課題である。

1.3 新興国における排出量取引制度(ETS)の台頭

世界銀行の報告書が示す重要なトレンドの一つは、特に大規模な中所得国において、新規または計画中の制度の多くがETSであるという点だ 1ブラジル、インド、トルコといった国々がETSの導入を積極的に進めている 8中国は、国内のETSを電力部門だけでなく、セメント、鉄鋼、アルミニウムといった重工業にも拡大した。これにより、中国のETSは世界最大の炭素市場となり、それだけで世界のカーボンプライシング対象排出量を押し上げる要因となった 9

この傾向は、排出量削減目標の達成確実性と経済的な柔軟性を両立できる市場メカニズムへと、世界の潮流が収斂しつつあることを示唆している。

これは、日本が独自のGX-ETSを設計する上で直接的な示唆を与えるものである。カーボンプライシングの導入は、もはや個別の国内環境政策ではなく、国際的な貿易・経済戦略の重要な一部となっている。

EUのCBAMのような制度を回避し、貿易関係を維持するためには、気候変動政策コストの国際的な調和が不可欠となるからだ 3。ある主要経済国によるETSの導入は、他の国々にも追随を促す圧力となり、政策導入の自己強化的なサイクルを生み出している。

1.4 カーボン・クレジット市場:品質とコンプライアンス需要へのシフト

カーボン・クレジット市場は二面的な性質を示している。未償還クレジットの総供給量は約10億トンにまで増加し需要を上回っているものの、その需要の内訳は劇的に変化している 2

ETS参加企業などが義務達成の一部としてクレジットを利用するコンプライアンス市場からの需要が約3倍に急増した一方で、企業の自主的な取り組みによるボランタリー市場からの需要は横ばいか、わずかに減少した 1。これは、市場が規制上の確実性と信頼性の高いクレジットを求める「質への逃避」を示している。

特定のクレジットタイプ、特に自然由来の「除去(Removal)」クレジットや、CORSIA(国際航空のためのカーボン・オフセット及び削減スキーム)のようなコンプライアンス制度で利用可能な、品質が高いと見なされるクレジットには、明確な価格プレミアムが付いている 2。対照的に、古い年代の「削減・回避(Avoidance)」クレジット(例:10年前の再生可能エネルギープロジェクト由来のクレジット)の価格は大幅に下落した 16

市場のこの二極化は、将来の投資フローを理解する上で極めて重要なトレンドである。


第2章 日本の「成長志向型カーボンプライシング」:批判的評価

本章では、グローバルな視点から国内の状況へと焦点を移し、第1章で確立した国際的な文脈の中に日本の政策枠組みを位置づけ、その詳細かつ批判的な検討を行う。

2.1 国際比較から見た日本の現在地:低い炭素価格

日本の現状を理解する上で、まず既存の制度を確認する必要がある。現行の「地球温暖化対策のための税」による炭素価格は、CO2排出量1トン当たり289円である 22。これは2023年時点で約米ドル/tCO2eに相当する 7。この価格は、しばしば€80~90/tCO2e(米ドル超)で推移するEU-ETSなど、主要な先進国の価格と比較して著しく低い 7。以下の比較表が示すように、日本の明示的な炭素価格は、主要先進国の中で最も低い水準にある 5

表1:主要国・地域の明示的炭素価格の比較(2025年)

国・地域 制度の種類 価格 (米ドル/tCO2e) パリ協定目標との整合性 (米ドル/tCO2e基準)
日本 炭素税 ~$2 非整合
EU ETS ~$95 整合
英国 ETS ~$60 整合
カナダ(連邦) 炭素税 ~$60 整合
韓国 ETS ~$10 非整合
ブリティッシュ・コロンビア州(カナダ) 炭素税 ~$60 整合

注:価格は2025年第2四半期時点の概算値。世界銀行、OECD等のデータを基に作成 7

2.2 GX戦略の解剖:段階的かつ慎重なアプローチ

日本政府が掲げる「成長志向型カーボンプライシング構想」は、その段階的かつ長期的な性質に特徴がある 4。この戦略は、GX-ETS、化石燃料賦課金、そして発電事業者への有償オークションという3つの柱から構成されるが、その本格導入はいずれも将来に先送りされている。

  • GX-ETS: 2段階で構成される。

    • 第1フェーズ(2023~2025年度): 「GXリーグ」の枠組みの下での自主的な制度。日本の排出量の5割超をカバーする参加企業が、自らの削減目標(プレッジ)を設定する 27。超過削減分の取引は認められるが、目標未達の場合でもペナルティはなく、本格導入に向けた試行期間と位置づけられている 7

    • 第2フェーズ(2026年度~): 改正GX推進法に基づき、大規模排出事業者(例:直接排出量10万トン以上)を対象に制度への参加が義務化される 29。しかし、排出枠の割り当ては当初、大半が無償であり、有償オークションの導入はさらに先となる。

  • 化石燃料賦課金: 化石燃料の輸入事業者等を対象とする広範な賦課金で、導入は2028年度からとされている 4。重要なのは、当初は低い負担率で導入され、段階的に引き上げられる設計である点だ 7

  • 発電事業者への有償オークション: EU-ETSのような成熟した制度では標準となっている、発電部門に対する完全な有償オークションの導入は、2033年度まで先送りされている 4

この段階的な導入スケジュールは、短期的な経済的ショックを回避し、産業界との合意形成を優先する日本政府の慎重な姿勢を反映している。

表2:日本の成長志向型カーボンプライシング導入タイムライン

年度 政策マイルストーン 主要な特徴 期待される価格シグナル
2023-2025 GXリーグETS(第1フェーズ)開始 自主的参加、目標未達ペナルティなし ほぼゼロ
2026 GX-ETS(第2フェーズ)義務化開始 義務化、ただし排出枠の大部分は無償割当 低い
2028 化石燃料賦課金 導入 低い負担率で開始、段階的引き上げ 低~中程度
2033 発電事業者向け有償オークション 導入 段階的な有償化の開始 中~高程度

出所:経済産業省、環境省の公表資料を基に作成 4

2.3 20兆円の賭け:GX経済移行債と歳入の連動

日本のGX戦略の独自性は、将来のカーボンプライシングによる歳入を、20兆円規模の「GX経済移行債」の償還財源として明確に位置づけている点にある 4。この移行債は、今後10年間にわたる脱炭素技術やインフラへの先行投資を賄うために発行される 4。将来の化石燃料賦課金やETSオークションによる歳入が、この巨額の債務を返済するための原資となる 4

この仕組みは、脱炭素化に必要な大規模な資金を upfront で確保するという強みを持つ一方で、歳入確保の必要性が、排出削減を強力に促すほど高い価格の導入を遅らせる、あるいは妨げる可能性があるという潜在的な弱点も内包している。

政府は、低い価格から始めることで産業界の抵抗を避けようとしているが 7、それは同時に、民間部門が追随するために必要な市場インセンティブを欠いた状態で公的資金を投入することを意味する。

この結果、市場主導の変革ではなく補助金への依存を招き、非効率な資本配分につながるリスクがある。

これは、価格シグナルによって市場に最も費用対効果の高い解決策を見出させる「マーケットプル」型のEU-ETSとは対照的に、政府が選んだ特定技術への投資を優先する「テクノロジープッシュ」型の哲学を反映しており、日本の将来のエネルギー経済の構造に長期的な影響を与える戦略的選択と言える。


第3章 ギャップを埋める:日本の脱炭素化における課題と責務

本章では、第1章で示したグローバルな動向と第2章で分析した日本の政策選択を結びつけ、そこから生じる戦略的課題、特に国際競争力に関する問題を特定する。

3.1 競争力のジレンマ:EUのCBAMと「炭素リーケージ」のリスク

炭素国境調整メカニズム(CBAM)とは、気候変動対策が緩やかな国で製造された製品を輸入する際に、国内製品と同等の炭素コストを課すことで、国内産業の競争力を維持し、「炭素リーケージ」(生産拠点が規制の緩い国へ移転し、結果的に世界の総排出量が減少しない現象)を防ぐための措置である 6。EUのCBAMは2023年10月に報告義務を伴う移行期間に入り、2026年からは実際の金銭的負担が始まる 38

その仕組みは、鉄鋼やアルミニウムなどの対象製品の輸入者が、製品に内包される排出量に相当するCBAM証書を購入・提出するというものである。証書の価格は、EU-ETSの週間平均オークション価格に基づいて決定される 6。ここで決定的に重要なのは、輸出国において同等の炭素価格がすでに支払われている場合、その分が控除されるという点である 7

これは日本の状況に直接的な影響を及ぼす。日本の炭素価格が約米ドル/tCO2eであるのに対し、EUの炭素価格はしばしば米ドル/tCO2eを超える 7。このため、日本の鉄鋼やアルミニウム等の輸出事業者は、EU市場で著しい価格競争上の不利益を被るか、あるいは差額をCBAMとしてEUに支払うことを余儀なくされる

つまり、日本が国内で十分な炭素価格を導入しないという政策決定は、事実上、日本企業が負担する炭素コストの歳入をEUの財源として移転させることを選択しているに等しい。企業が支払うコストは、国内で支払うかEUで支払うかの違いであり、総額は変わらない。唯一の違いは、その歳入がどちらの政府に帰属するかである。

3.2 投資シグナルの課題:GXのタイムラインは十分な緊急性をもたらすか

日本のGX戦略における、意味のある価格シグナル導入の遅延(賦課金は2028年、発電部門のオークションは2033年から)は、民間投資における「失われた10年」を生み出すリスクをはらんでいる。

電力部門や重工業における大規模な設備投資の意思決定は、5年から15年という長いリードタイムを要する。2030年代になって初めて本格化するような価格シグナルは、まさに「今日」行われている投資判断に影響を与えるにはあまりにも遠すぎる

この短期的な価格シグナルの欠如は、企業が予測可能な市場インセンティブに頼るのではなく、GX移行債を財源とする不確実な将来の補助金制度に依存せざるを得ない状況を生み出す。

これは政策リスクを高め、脱炭素移行に不可欠な大規模な民間資本の動員を妨げる可能性がある 41

産業競争力への配慮から強力な価格シグナルを遅らせるという現在のGX戦略は、皮肉にもその競争力自体を蝕む「競争力の罠」を生み出している

第一に、CBAMのような海外の炭素関税に産業を晒す。第二に、そしてより重要なことに、脱炭素化が進む世界経済における競争優位の基盤となる、低炭素生産プロセスへの国内のイノベーションと投資を抑制してしまう

EUの競合他社が高い炭素価格によってイノベーションと効率化を余儀なくされる一方で、日本の企業は同様の緊急シグナルを受け取っておらず、長期的な技術的・効率的な遅れをとるリスクに直面している。

3.3 「成長志向」政策と意味のある炭素価格の必要性の両立

「成長志向型」という政策のネーミング自体が、カーボンプライシングは本質的に成長を阻害するという懸念を反映している。この種の言説は、オーストラリアやカナダといった他国で政策への反発を招いた経緯がある 9

しかし、この見方には再考の余地がある。CO2排出1トン当たりの損害を金額で示した「炭素の社会的費用(Social Cost of Carbon, SCC)」という概念は、現在市場で無視されている実質的な経済コストが存在することを示している 44カーボンプライシングは、この外部不経済を内部化することで市場の失敗を是正し、より効率的で持続可能な長期成長につながる可能性がある 24

日本にとっての課題は、カーボンプライシングを単なる「コスト」としてではなく、将来の競争力への「戦略的投資」であり、さもなければCBAMを通じて海外に流出する価値を国内で確保するためのツールとして、その位置づけを転換することである。


第4章 効果的なカーボンプライシングによる日本の再生可能エネルギー移行の加速

本章は、本レポートの核心部分であり、一般的な政策分析から、再生可能エネルギーの普及加速という具体的なテーマへと議論を進める。

4.1 太陽光・風力発電への投資判断の転換

カーボンプライシングの基本的な経済原理は、石炭や天然ガスといった化石燃料による発電の運転コストを引き上げることにある。これにより、初期投資は高いが運転コストがゼロの再生可能エネルギーが、均等化発電原価(LCOE)ベースで相対的に経済的魅力を増すことになる 47

太陽光発電協会(JPEA)の分析によれば、カーボンプライシングの導入により、2035年までにオフサイト型の事業用太陽光発電の導入ポテンシャルのうち93%が経済合理性を持つようになる可能性がある。これは、カーボンプライシングがない場合の1.7%という予測とは対照的であり、意味のある価格シグナルが持つ変革のポテンシャルを明確に示している 49

日本のGX戦略が発電部門の有償オークション導入を2033年まで遅らせることは、2030年の気候目標達成に向けて今すぐ必要とされる投資判断の転換を促す上で、決定的に不十分である。

4.2 好循環の創出:炭素収入による重要インフラへの投資とリスク低減

カーボンプライシングによって生み出される「歳入」は、再生可能エネルギーの普及を加速させる上で、「価格シグナル」そのものと同じくらい重要である。特に、日本のように地理的・系統的な制約を抱える国においては、その意義は大きい。

  • 電力系統の近代化と増強: 日本における再生可能エネルギー導入の大きな障壁の一つは、電力系統の混雑と、送配電網への大規模な投資の必要性である。カーボンプライシングによる歳入は、これらの系統増強を賄うための、一般財源とは別の特定財源となりうる。これは、エネルギー移行に不可欠な公共財への投資と位置づけることができる 33。この考え方は、ETSの歳入を用いて加盟国のエネルギーシステムを近代化するEUの「近代化基金(Modernisation Fund)」のロジックと共通している 50

  • エネルギー貯蔵ソリューション: 太陽光や風力の変動性を補うためには、蓄電池や揚水発電、水素といった大規模なエネルギー貯蔵技術が不可欠である。炭素収入は、これらの技術導入への補助金として活用し、商業規模への移行を支援し、システム全体のコストを低減するために用いることができる。これは、EUの「イノベーション基金(Innovation Fund)」がエネルギー貯蔵プロジェクトを支援している事例と一致する 53

日本の特殊な状況を鑑みると、カーボンプライシングが再生可能エネルギーにもたらす最大の価値は、当初は価格シグナルそのものよりも、電力系統というインフラのボトルネックを解消するための大規模かつ安定した歳入源の創出にあるかもしれない。価格シグナルは主に発電事業者間の「運転」コストの比較に影響を与えるが、系統問題はプロジェクトの建設自体を妨げる「資本的」かつ「物理的」な障壁である。

系統は典型的な公共財であり、電力会社は投機的な大規模投資に及び腰で、開発事業者は系統の空きがなければ建設できないという「鶏と卵」の問題を抱えている。カーボンプライシングによる特定財源を系統増強に充てることは、この膠着状態を打破する鍵となる。

4.3 次世代再生可能エネルギーのイノベーション促進

炭素収入は、洋上風力、先進的な地熱発電、グリーン水素製造など、日本の長期的なエネルギー安全保障に不可欠な技術の研究開発や導入支援に重点的に振り向けることができる。これにより、「好循環」が生まれる。すなわち、炭素価格が既存の再生可能エネルギーの競争力を高め、そこから得られた歳入が次世代技術のコストダウンを加速させるのである。ETSの歳入を活用して、世界初の大規模商用プロジェクトを共同出資するEUのイノベーション基金は、このアプローチの強力な成功事例である 53


第5章 政策強化のための戦略的提言

本章では、これまでの分析を、日本政府および産業界のステークホルダーに向けた、具体的かつ実行可能な政策提言へと結びつける。

5.1 価格シグナルの強化:GXタイムラインと価格水準の加速

  • 提言1:価格シグナルの前倒し導入

    化石燃料賦課金を2028年、発電部門のオークションを2033年まで待つのではなく、以下の改訂タイムラインを推奨する。

    • 2026年から始まるGX-ETS内に、化石燃料賦課金と連動した、経済全体をカバーする意味のある「最低炭素価格(プライスフロア)」を導入する。

    • 発電部門における完全有償オークションへの移行を遅くとも2028年までに開始し、無償割当の段階的廃止をより迅速に進める。

  • 提言2:明確で予測可能な価格回廊(プライス・コリドー)の設定

    炭素税・賦課金の税率、およびETSオークションの最低価格について、明確に上昇していく価格帯を事前に公表する。2030年までに炭素価格ハイレベル委員会の推奨下限値(50米ドル/tCO2e)に到達する道筋を示すことで、民間部門が必要とする長期的な投資の予見可能性を確保する 42。

5.2 歳入還元の最適化:効果を最大化するポートフォリオ・アプローチ

歳入の全額をGX移行債の償還に充てるのではなく、国際的なベストプラクティスを参考に、歳入使途を多様化させる「ポートフォリオ・アプローチ」を提言する。これにより、政策の多面的な目標を同時に達成することが可能となる。

  • 提言3:電力系統インフラへの重点的配分

    炭素収入の一部を原資とする「電力系統近代化基金」を設立し、日本の送配電網の増強・更新に直接資金を供給する。これは第4章で特定された主要なボトルネックに直接対処するものである(EU近代化基金との類似性) 50。

  • 提言4:「日本イノベーション基金」の創設

    EUのモデルに倣い 53、歳入の一部を用いて、洋上風力、エネルギー貯蔵、グリーン水素などの分野における、世界初の大規模商用プロジェクトに対する競争的資金やリスク分担の仕組みを提供する。

  • 提言5:公正な移行の確保

    政策への国民的・政治的な支持を維持するため、歳入の一部を、特に低・中所得世帯への「気候配当(クライメート・ディビデンド)」として還元するか、他の税(所得税や消費税など)の引き下げに充てる。これは、歳入還元によって政策を累進的にし、政治的な持続可能性を確保したカナダ・ブリティッシュコロンビア州の成功モデルに倣うものである 56。

これらの提言は、個別に機能するだけでなく、相互に強化し合う一貫した戦略を形成する。価格シグナルの早期強化(5.1)はより多くの歳入を生み、それが効果的な歳入還元(5.2)を可能にする。そして、歳入還元は政治的支持を構築し、再生可能エネルギー導入の物理的障壁を取り除くことで、より高い価格設定を現実的なものにする。国際基準との整合(5.3)は、対外的な競争力に関する懸念を緩和し、国内価格を引き上げる上での障壁を取り除く。これにより、野心的な気候変動政策に向けた正のフィードバックループが生まれる。

表3:炭素歳入の還元メカニズムと再生可能エネルギー普及加速へのインパクト

歳入使途メカニズム 主要目的 再エネ普及へのインパクト 対処する主要障壁 国際的な先行事例
1. 電力系統近代化基金 インフラ整備 直接的 系統接続の制約 EU近代化基金
2. 再エネ・イノベーション基金 技術開発・導入支援 直接的 技術の未成熟性、高コスト EUイノベーション基金
3. エネルギー貯蔵補助金 安定供給確保 間接的 再エネの変動性 EUイノベーション基金
4. 家計への気候配当 公正な移行、負担軽減 間接的 国民の受容性 ブリティッシュコロンビア州気候行動税クレジット
5. 法人税・所得税の減税 経済的負担の相殺 間接的 経済全体への影響 ブリティッシュコロンビア州歳入中立モデル

出所:各国の事例を基に分析・作成 50

5.3 日本の炭素市場と国際基準の統合によるCBAM影響の緩和

  • 提言6:国際的に通用するGX-ETSの設計

    GX-ETSのモニタリング・報告・検証(MRV)基準を、制度開始当初から頑健かつ透明性の高いものとして設計する。将来的には、EUがCBAMの適用上、同等の制度として認定することを目指すべきである。

  • 提言7:カーボン・クレジットの戦略的活用

    世界銀行の報告書が示すトレンド(除去クレジットへの需要シフト)を踏まえ 1、GX-ETS内において、品質の高い国際的に認知されたカーボン・クレジット(特に除去クレジット)の限定的な利用を認める。これにより、企業のコンプライアンスにおける柔軟性を確保しコストを抑制しつつも、国内での排出削減が主要な目標であり続けることを担保する。


第6章 結論:脱炭素化する世界における日本の競争優位の確保

本レポートで明らかにしたように、意味のあるカーボンプライシングに向かう世界の潮流は不可逆的であり、その動きは加速している。日本は今、重大な岐路に立たされている。現行の「成長志向型」アプローチは、その意図は理解できるものの、この世界的な潮流から乖離しており、日本を経済的に脆弱な立場に置き、クリーンエネルギー競争で後れを取るリスクをはらんでいる。

カーボンプライシングの導入時期を戦略的に前倒しし、電力系統インフラのような主要な障壁の克服に焦点を当てた高度な歳入還元戦略を採用することによって、日本はカーボンプライシングを、単なる「脅威」や「コスト」から、イノベーション、エネルギー安全保障、そして長期的な産業競争力を生み出す強力な「エンジン」へと転換することができる。

最終的に、日本が下すべき決断は、経済か環境かという二者択一ではない。それは、変化に対して受動的・防衛的な姿勢を取り続けるのか、それとも世界のグリーン経済をリードするための能動的な戦略を選択するのか、という未来に向けた戦略的選択そのものである。

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