目次
- 1 複合リスクの時代(気候変動・災害・供給ショック) 日本の脱炭素を加速する新戦略
- 2 序論:2025年のパーフェクトストーム – 「複合リスク」の時代へようこそ
- 3 第1章 新時代の語彙:複合リスク、連鎖リスク、システミックリスクの定義
- 4 第2章 包囲されるグローバル・エネルギーシステム:三重の脅威の解剖
- 5 第3章 試練の中の国際戦略:世界のエネルギー多重危機への対応からの教訓
- 6 第4章 岐路に立つ日本:停滞するエネルギー転換の根源的課題の特定
- 7 第5章 強靭で脱炭素な日本への設計図:多層的解決策フレームワーク
- 8 第6章 見過ごされた解決策:究極のレジリエンスを実現する国家「エネルギー分水嶺」戦略
- 9 結論:多重危機を乗り越えて – 日本のエネルギーの未来への行動喚起
- 10 よくある質問(FAQ)
- 11 ファクトチェック・サマリー
複合リスクの時代(気候変動・災害・供給ショック) 日本の脱炭素を加速する新戦略
序論:2025年のパーフェクトストーム – 「複合リスク」の時代へようこそ
2025年10月、日本を未曾有の危機が襲う。超大型台風が上陸し、広範囲にわたる停電を引き起こす。時を同じくして、南シナ海における地政学的緊張が液化天然ガス(LNG)の輸送ルートを寸断し、東南アジアで発生した深刻な干ばつがバイオマス燃料のサプライチェーンを麻痺させる。これは遠い未来の仮説ではない。気候変動、地政学的紛争、そしてサプライチェーンの脆弱性が同時に発生し、互いの影響を増幅させ合う「複合リスク(Compound Risk)」時代の新たな現実である
これまで日本のエネルギー政策は、「S+3E」—安全性(Safety)を大前提に、エネルギーの安定供給(Energy Security)、経済効率性(Economic Efficiency)、環境への適合(Environment)—という3つの要素を個別の変数として最適化する試みを続けてきた
複数の危機が同時に発生し、相互に作用し、予測不可能な非線形のダメージをもたらす複合リスクの時代は、レジリエンス(強靭性)を中核に据えた、全く新しい統合的かつシステムベースの思考を要求している。
本稿は、この新たな挑戦に対する日本のエネルギー政策の最終回答を提示するものである。
まず、複合リスクという新しい脅威の構造を定義し、世界各国がこの未曾有の危機にいかに立ち向かっているかを分析する。次に、日本のエネルギー転換が直面する根源的な課題を白日の下に晒し、その上で、物理的インフラ、デジタル制御、市場制度という多層的な解決策から成る包括的なブループリントを提案する。
そして最終的には、日本のエネルギー安全保障と脱炭素化を両立させるための、斬新かつ実効的な戦略構想を提示することを目的とする。
第1章 新時代の語彙:複合リスク、連鎖リスク、システミックリスクの定義
エネルギー政策を再構築するにあたり、まず我々が直面しているリスクの性質を正確に理解するための共通言語を確立する必要がある。国連防災機関(UNDRR)や気候変動に関する政府間パネル(IPCC)などの国際的な議論で用いられる「複合リスク」「連鎖リスク」「システミックリスク」という3つの概念は、現代の危機を理解する上で不可欠な分析ツールである
複合リスク(Compound Risk)
複合リスクとは、複数のハザード(危害要因)が同時、あるいは連続して発生することにより、その複合的な影響が個々の影響の総和を上回る事態を指す
連鎖リスク(Cascading Risk)
連鎖リスクとは、ある一つのシステムにおける混乱が、相互に接続された他のシステムへと次々に波及し、ドミノ倒しのように連鎖的な機能不全を引き起こす現象を指す
システミックリスク(Systemic Risk)
システミックリスクとは、個々の構成要素の故障ではなく、システム全体の崩壊に至るリスクを指す
これらのリスク概念をエネルギーシステムに適用すると、その脅威の深刻さがより明確になる。例えば、干ばつによる水力発電の出力低下は単一のリスクである。そこに熱波による冷房需要の急増が重なると「複合リスク」となる。結果として生じる電力不足が工場停止を招き、サプライチェーンを寸断させ、経済的損失を生むと、それは「連鎖リスク」へと発展する。そして、この経済的混乱が金融不安や社会の動揺を引き起こすに至れば、それは国家レベルの「システミックリスク」となる。
従来のエネルギー政策は、特定のハザードに対するインフラの強化(例:耐震基準の引き上げ)といった単一リスクへの対応に主眼を置いてきた。しかし、複合リスクは複数のハザードへの同時対応(例:パンデミック下の避難計画)を、連鎖リスクはセクター間の相互依存性を考慮したシステム思考(例:停電が水道や通信に与える影響の分析)を要求する
第2章 包囲されるグローバル・エネルギーシステム:三重の脅威の解剖
現代のエネルギーシステムは、物理的、地政学的、そしてシステム的な三重の脅威に同時に晒されている。世界経済フォーラム(WEF)、国際エネルギー機関(IEA)、IPCCの最新の分析は、この脅威が構造的かつ深刻であることを示している。
2.1 物理的脅威:インフラを直接攻撃する気候変動
気候変動はもはや未来の脅威ではなく、エネルギーシステムの運用における日常的なリスクとなっている。気温上昇、降水パターンの変化、海面上昇といった現象は、発電から送配電、需要に至る電力バリューチェーン全体を確実に劣化させている
-
発電への影響:火力・原子力発電所は、気温上昇により冷却効率が低下し、出力が減少する。干ばつは水力発電のポテンシャルを著しく低下させ、海面上昇は沿岸部の発電所に直接的な物理的リスクをもたらす
。 -
送配電への影響:猛暑は送電線の弛みを引き起こし、送電容量を低下させる。山火事や台風は送電鉄塔や電線を物理的に破壊する。これらのインフラは広域に分散しているため、気候変動の影響を最も受けやすい部分の一つである
。 -
需要への影響:記録的な熱波は、冷房需要を想定外のレベルまで押し上げる。2025年のWEFの報告によれば、気候変動による冷却需要の増加やAIデータセンターの急拡大が世界のエネルギー需要を過去10年で最も速いペースで増加させており、電力網を設計上限を超えて逼迫させる
。
2.2 地政学的脅威:資源の希少性からサプライチェーンの兵器化へ
地政学的リスクの様相もまた、大きく変化している。
-
「旧来の」地政学:2022年の欧州エネルギー危機は、特定の国からの化石燃料輸入に依存する脆弱性を浮き彫りにした
。ロシアのウクライナ侵攻が引き金となり、エネルギー供給が「兵器化」されたことは、エネルギー安全保障の定義を根底から揺るがした。 -
「新たな」地政学:エネルギー転換そのものが、新たな地政学的脆弱性を生み出している。IEAの「世界重要鉱物見通し2025」は、リチウム、コバルト、レアアースといったクリーンエネルギー技術に不可欠な重要鉱物の採掘、そして特に精製・加工プロセスが、中国をはじめとするごく少数の国に極端に集中している現実を警告している
。これは、地政学的なチョークポイントが中東の油田から、アジアの精錬所へと移行しつつあることを意味する。エネルギー転換は地政学的リスクを消滅させるのではなく、その性質を「変容」させるのである。我々は「石油国家(ペトロステート)」への依存を、「電力国家(エレクトロステート)」あるいは「鉱物国家(ミネラルステート)」への依存へと置き換えようとしているに過ぎないのかもしれない。
2.3 システム的脅威:危機が衝突する時
WEFの「グローバルリスク報告書2025」は、今後世界が直面する最大のリスクとして、「国家間の武力紛争」「異常気象」「誤情報・偽情報」「社会の分断」を挙げている
この複雑なリスク環境に、新たな強力な変数が加わった。それは、人工知能(AI)とデータセンターによる爆発的な電力需要の増加である
第3章 試練の中の国際戦略:世界のエネルギー多重危機への対応からの教訓
複合リスクという共通の脅威に対し、世界主要国はそれぞれ異なる戦略的アプローチで対峙している。米国、EU、英国、そして中国の対応を比較分析することは、日本の進むべき道を照らす上で極めて有益な示唆を与える。
-
米国:「再産業化によるレジリエンス」戦略 米国は、超党派インフラ投資法(BIL)やインフレ削減法(IRA)をテコに、巨額の公的資金を電力網の近代化とクリーンエネルギー製造業の国内回帰に投じている
。これは、エネルギー安全保障を経済安全保障と一体のものとして捉え、国内の産業基盤を強化することで外部ショックへの耐性を高めようとする戦略である。一方で、北米電力信頼度協議会(NERC)の信頼性評価は、既存電源の閉鎖、再生可能エネルギーの変動性、そしてデータセンター等による需要急増という複合的要因により、電力システムが極度のストレス下にあり、異常気象時には供給不足に陥る「高いリスク」に直面していることを繰り返し警告している 。 -
EU:「統合と加速による安全保障」戦略 EUの「REPowerEU」計画は、ウクライナ戦争という地政学的ショックへの直接的な回答である
。ロシア産ガスからの脱却を目標に掲げ、再生可能エネルギー導入とエネルギー効率改善を劇的に加速させ、供給源の多様化を図ることで、エネルギー安全保障を確立しようとしている 。しかし、この急進的な転換は電力システムの安定性に対する新たな課題を生む。欧州送電系統運用者ネットワーク(ENTSO-E)は、柔軟性(フレキシビリティ)の確保、国家間の連系線強化、そしてレジリエンスを評価する市場設計を通じて、この課題に対応しようと試みている 。 -
英国:「国内主権による安全保障」戦略 英国のエネルギー安全保障戦略は、輸入依存度を低減するため、原子力や洋上風力といった国内の非天候依存型電源の開発に重点を置いている
。電力の安定供給を確保する主要な政策ツールが「容量市場(Capacity Market)」であり、損失負荷期待値(LOLE: Loss of Load Expectation)といった信頼度基準に基づき、必要な供給力を事前に確保する仕組みである 。近年、異常気象の激甚化を受け、この信頼度基準そのものの見直しが議論されている 。 -
中国:「中央管理下での現実的移行」戦略 中国は「先立後破(新しいものを確立してから古いものを壊す)」という原則に基づき、巨大な石炭火力発電網でエネルギー安全保障を確保しつつ、同時に世界最大規模で再生可能エネルギーを導入するという二元的アプローチを推進している
。来る第15次5カ年計画(2026-2030年)では、この路線をさらに深化させ、大量の変動性再エネを系統に統合するための送電網の柔軟性向上や電力市場改革が焦点になると予測されている 。
これらの各国の戦略は、それぞれの地理的、政治的、経済的文脈を反映しているが、共通しているのは、もはやエネルギー政策が単なる電力供給計画ではなく、国家の安全保障と経済の存続をかけた包括的な戦略へと昇華している点である。
この比較から、日本が直面する課題の特異性が浮かび上がってくる。欧米が市場メカニズムや大規模な財政出動を通じてシステム全体の変革を急ぐ一方、日本は既存のシステムを補強・維持することに多くのエネルギーを費やしているように見える。次章では、この構造的な問題の根源をさらに深く掘り下げる。
第4章 岐路に立つ日本:停滞するエネルギー転換の根源的課題の特定
日本の第6次エネルギー基本計画は、2030年度までに再生可能エネルギー比率を36~38%に引き上げるという野心的な目標を掲げている
4.1 中央集権型レガシーシステムのイナーシャ(慣性)
日本の電力システムは、大規模な化石燃料・原子力発電所が予測可能な需要に応えるという、20世紀のパラダイムに基づいて設計・構築された。この物理的かつ制度的な構造は、分散型で変動性の高い再生可能エネルギーの導入に対して、本質的な抵抗力を持っている。東西で周波数が異なり、地域間の連系線容量が不十分であるという問題は、この構造的欠陥の最も分かりやすい現れである
4.2 「レジリエンス・ギャップ」:過去の災害への備えは、未来の危機に通じるか?
近年の日本のレジリエンス強化策は、エネルギー供給強靱化法に見られるように、既存インフラの物理的な「強靭化」と、災害発生後の「連携強化」に重点が置かれている
複合リスク時代の脅威は、過去の延長線上にはない。未知の組み合わせで発生し、予測不能な連鎖反応を引き起こす。真のレジリエンスとは、単に「早く復旧する(bounce back)」能力だけでなく、システムが大きな衝撃を受けても致命的な崩壊を免れ、しなやかに機能を維持し続ける「適応・吸収する(absorb and adapt)」能力である
4.3 投資のパラドックス:インセンティブと資本のミスマッチ
日本には、固定価格買取制度(FIT)やフィードインプレミアム(FIP)制度、そして緒に就いたばかりの容量市場や長期脱炭素電源オークションといった政策ツールが存在する
その結果、投資家や事業者は、次世代の送電網、大規模なエネルギー貯蔵システム、VPP(仮想発電所)といった変革的な投資よりも、既存の枠組みの中での低リスクな投資を選択しがちである。脱炭素化とレジリエンス強化に必要な巨額の民間資本は存在するものの、それを呼び込むための政策シグナルが弱すぎるか、あるいは相互に矛盾しているため、資本が適切な場所に流れていない。これが「投資のパラドックス」である。
日本の根本的な課題は、技術や資本の欠如ではない。それは、20世紀に最適化されたエネルギーシステムの構造と、21世紀の複合リスク環境との間の致命的なミスマッチである。我々は、中央集権的で硬直的な過去のシステムの上に、分散型で変動的な未来のエネルギーを無理やり接ぎ木しようとしている。この戦略的な自己矛盾こそが、日本のエネルギー転換を停滞させる最大の要因である。したがって、解決策は、個別の政策の修正ではなく、送電網、市場、規制のあり方そのものを一体的に変革する、システムレベルのアプローチでなければならない。
第5章 強靭で脱炭素な日本への設計図:多層的解決策フレームワーク
日本のエネルギーシステムが抱える構造的課題を克服するためには、物理インフラ(ハード)、デジタル制御(ソフト)、市場制度(ルール)という3つの層にまたがる、統合的な改革が必要である。
5.1 第1層(ハード層):次世代送電インフラによる基盤強化
-
「プッシュ型」系統整備への転換 これまでの、発電事業者の接続申請に対応する「待ち」の姿勢から、エネルギー供給強靱化法が目指す、国が主導して計画的に系統を整備する「プッシュ型」モデルへと完全に移行する必要がある
。具体的には、電力広域的運営推進機関(OCCTO)が、再生可能エネルギーのポテンシャルが高い地域(北海道や東北、九州など)から大消費地への送電ルートを国家戦略として特定し、民間投資を呼び込むための明確なロードマップと事業環境を整備する。これは、未来のエネルギーの「高速道路」を先行投資で建設するに等しい。 -
物理的強靭化(フィジカル・ハードニング)の徹底 台風や豪雨、山火事といった激甚化する自然災害に対し、送配電網の物理的な耐性を向上させる。具体的には、災害リスクの高い地域における送配電線の地中化、鉄塔の設計基準の見直し、倒木リスクを低減するための徹底した樹木管理など、国際的なベストプラクティスを参考に具体的な対策を加速させる
。
5.2 第2層(ソフト層):DER、VPP、エネルギー貯蔵による柔軟性の解放
-
分散型エネルギー源(DER)とマイクログリッドの推進 大規模停電時にも社会機能を維持するため、病院、データセンター、自治体庁舎、避難所といった重要施設を中心に、自立運転可能なマイクログリッドの構築を国策として推進する
。これらのマイクログリッドは、平時は系統に連系して経済性を追求し、非常時には系統から切り離されて地域の「レジリエンス拠点」として機能する 。千葉県睦沢町の「むつざわスマートウェルネスタウン」のような先進事例を全国に展開するための制度的支援を強化する 。 -
仮想発電所(VPP)の国家リソース化 家庭の太陽光パネルや蓄電池、電気自動車(EV)、工場の自家発電機といった無数のDERを、IoTとAI技術で束ねて一つの発電所のように制御するVPPは、電力システムの柔軟性を飛躍的に高める切り札である
。VPPが周波数調整や需給調整(デマンドレスポンス)といった系統サービスを提供することで、高コストな化石燃料のピーク電源への依存を減らし、再生可能エネルギーの導入を加速できる 。国は、VPPアグリゲーターが公平に市場参入できる環境を整備し、VPPを電力システムの公式な調整力として位置づけるべきである。 -
エネルギー貯蔵システム(ESS)の戦略的導入 変動性再生可能エネルギーの大量導入には、エネルギー貯蔵システム、特に系統用蓄電池(BESS)が不可欠である
。大規模な再エネ発電所の新設に際しては、一定容量のESSの併設を義務付けることを検討する。さらに、数時間単位の短期的な変動に対応するリチウムイオン電池だけでなく、数日間にわたる「風が吹かない」「日が照らない」といった事態に対応できる長時間エネルギー貯蔵(LDES)技術の開発と導入を促進するための新たな市場メカニズムを創設する 。
5.3 第3層(ルール層):混乱を前提とした市場メカニズムと適応的政策
-
容量市場の高度化 日本の容量市場を、単に供給力(kW)を確保する仕組みから、レジリエンスに貢献する「質」を評価する仕組みへと進化させる。EUや英国の事例を参考に、系統混雑地点に立地する電源を優遇する「ロケーション別価格」や、瞬時に出力を変動できる「高速応答性」、大規模停電からの復旧に不可欠な「ブラックスタート能力」といった価値を評価する新たな商品(プロダクト)を導入する
。 -
長期脱炭素電源オークションの活用 新設された長期脱炭素電源オークション制度を最大限に活用し、地熱、グリーン水素・アンモニア、次世代革新炉といった、再生可能エネルギーを補完するクリーンで安定した「調整電源」への20年間の長期投資を確保する
。これにより、投資リスクを低減し、民間資本を呼び込む。 -
OCCTOの機能強化 OCCTOの役割を、単なる需給計画の取りまとめ役から、国家レベルの「リスク評価機関」へと強化する
。単年の予備率(kW)評価だけでなく、複合リスクや連鎖リスクをモデル化した確率論的評価手法(例:年間期待停電電力量 EUE)を導入し、将来の電力システムの脆弱性を科学的に評価・公表する 。その評価に基づき、必要なインフラ投資や市場改革を政府に勧告する権限を与えるべきである。
第6章 見過ごされた解決策:究極のレジリエンスを実現する国家「エネルギー分水嶺」戦略
これまでの多層的解決策を統合し、日本のエネルギーシステムのパラダイムを根本から転換する、地味だが実効性のあるソリューションとして、「エネルギー分水嶺(Energy-Shed)」戦略を提案する。これは、水の流域(Watershed)の考え方をエネルギーシステムに応用したものである。
エネルギー分水嶺の概念
エネルギー分水嶺とは、地理的に定義された領域内でエネルギーの生産と消費がある程度自己完結しており、全国規模の基幹系統に接続されつつも、大規模な擾乱時には独立した「島(アイランド)」として機能し続けられる能力を持つエネルギー・エコシステムである。
中央集権型から細胞型(セルラー)アーキテクチャへ
この戦略は、日本の電力網を一枚岩の「中央集権型」構造から、多数のエネルギー分水嶺という自己完結的な「細胞」が相互に連携する「細胞型(セルラー)」構造へと転換させることを目指す。全国を結ぶ超高圧の基幹系統は、これらの細胞間を繋ぐ「大動脈」としての役割に特化する。このアーキテクチャは、ある一つの細胞での障害がシステム全体に波及する連鎖リスクを遮断し、システム全体のレジリエンスを劇的に向上させる。
戦略の実行
-
マッピングと計画:地理情報システム(GIS)を活用し、再生可能エネルギーのポテンシャル、人口密度、重要インフラの配置、既存の送電網などを分析し、日本全土を複数の論理的なエネルギー分水嶺に区分けする。
-
制度的インセンティブ:市町村や都道府県が主体となって、それぞれの「分水嶺レジリエンス計画」を策定することを促すための強力な財政的・制度的インセンティブを設計する。これにより、ドイツの地域エネルギー会社「シュタットベルケ(Stadtwerke)」のような、地域に根差した事業体の育成を促し、エネルギーコストの域内循環による地域経済の活性化も図る
。 -
技術的アーキテクチャ:各エネルギー分水嶺は、第5章で述べたマイクログリッドやDER、VPP、ESSを核として構築される。地域のエネルギー需給は、地域のエネルギー管理システム(CEMS)によって最適化され、OCCTOが運用する全国システムと協調して動作する。
このエネルギー分水嶺戦略は、日本の過度な中央集権という根源的な脆弱性に対する直接的な処方箋である。それは、多層的なレジリエンスを確保し、外部からの供給ショックに対する国家安全保障を高めると同時に、エネルギーの地産地消を通じて地方創生にも貢献する、一石三鳥の国家戦略となりうる。
結論:多重危機を乗り越えて – 日本のエネルギーの未来への行動喚起
複合リスクの時代は、一時的な危機ではなく、我々が今後恒久的に向き合わなければならない新しい常態である。既存のエネルギー政策に対する小手先の修正や、過去の成功体験の延長では、この構造的な変化に対応することは断じてできない。
本稿で提示した、物理インフラの強靭化、システムの柔軟性の解放、そしてレジリエンスを評価する市場設計という多層的フレームワーク、そしてそれを統合する国家「エネルギー分水嶺」戦略は、脱炭素化と真のエネルギー安全保障という二つの至上命題を同時に達成するための、首尾一貫した現実的な道筋である。
今こそ、日本の政策決定者、産業界のリーダー、そして投資家は、20世紀の中央集権型パラダイムとの決別を決断し、強靭で、分散型で、脱炭素化された日本のエネルギーの未来に向けた新たなビジョンを共有し、断固として行動を起こすべき時である。この変革は困難を伴うが、それを乗り越えた先にこそ、持続可能で安全な国家の未来が待っている。
よくある質問(FAQ)
Q1: エネルギー政策における「複合リスク」とは具体的に何ですか?
A1: 複合リスクとは、気候変動による自然災害(例:台風、熱波)、地政学的紛争による燃料供給の途絶、そしてパンデミックのような社会経済的ショックなど、複数の異なる種類の危機が同時に、あるいは連続して発生し、その影響が単純な足し算以上に大きくなる状況を指します
Q2: なぜ日本の再生可能エネルギー導入は他のG7諸国に比べて遅れているのですか?
A2: 主な原因は、日本の電力システムが大規模・中央集権型の発電所を前提に作られており、分散型で変動性の高い再生可能エネルギーを大量に受け入れるための送電網が未整備である「系統制約」にあります
Q3: 仮想発電所(VPP)は、どのように電力網のレジリエンスを高めるのですか?
A3: VPPは、家庭や工場に点在する太陽光パネル、蓄電池、電気自動車(EV)といった小規模なエネルギーリソース(DER)を、IoT技術を用いて束ね、あたかも一つの大きな発電所のように遠隔制御する仕組みです
Q4: 日本のエネルギー安全保障のために、今最も重要な投資は何ですか?
A4: 最も重要な投資は、2つあります。第一に、再生可能エネルギーのポテンシャルが高い地域と大消費地を結ぶ、次世代の「広域連系送電網」への戦略的投資です。これにより、国内のエネルギーを最大限に活用できます
ファクトチェック・サマリー
本報告書で引用された主要な事実とデータは、以下の信頼できる情報源に基づいています。
-
複合リスクの定義: 複数の気候ハザードが同時または連続して発生し、複合的な影響をもたらすリスクとして定義されています
。パンデミックや地政学的イベント、経済ショックなど、異なるリスク源の同時発生も含まれます 。 -
グローバルリスクの現状: 世界経済フォーラムの「グローバルリスク報告書2025」では、2025年の短期的なリスクとして「国家間の武力紛争」が最も懸念されており、「異常気象」や「社会の分断」も上位に挙げられています
。 -
AIによる電力需要の増加: IEAは、AIとデータセンターによる電力需要が急増しており、2030年までに世界の電力需要増加の10%を占める可能性があると予測しています
。 -
米国の電力信頼性: NERCの2025年夏季信頼性評価では、猛暑と再エネの出力変動が重なることで、複数の地域で電力供給不足のリスクが高まると警告されています
。 -
EUのエネルギー政策: ロシアのウクライナ侵攻を受け、EUは「REPowerEU」計画を策定し、2027年までにロシア産天然ガスへの依存から脱却することを目指しています
。 -
日本のエネルギー目標: 第6次エネルギー基本計画では、2030年度の電源構成における再生可能エネルギー比率を36~38%とすることが目標とされています
。 -
日本の電力供給見通し: 電力広域的運営推進機関(OCCTO)の「2025年度供給計画の取りまとめ」によると、2025年度の夏冬の電力需給は、全エリアで安定供給に最低限必要な予備率3%を確保できる見通しです
。 -
重要鉱物のサプライチェーン: IEAの分析によると、クリーンエネルギー技術に不可欠な重要鉱物の精製・加工は、中国をはじめとする特定の国に極度に集中しており、新たな地政学的脆弱性を生んでいます
。
コメント