目次
日本卸電力取引所(JEPX)とは?JEPXの深層分析と日本の脱炭素化への道筋
導入:日本のエネルギーの未来を司る神経系
日本卸電力取引所(JEPX)は、単なる電力の市場ではありません。
それは、日本の広大な電力網という物理的現実が、経済と政策という抽象的な力と交差するデジタルな闘技場です。30分ごとに繰り返されるオークションの結果が、どの発電所を稼働させ、消費者がいくら電気代を支払い、そして決定的に、日本が2050年のカーボンニュートラル目標を現実的に達成できるかどうかを左右します。JEPXは、まさに国家のエネルギーの未来を司る中枢神経系なのです
JEPXの創設は、日本の電力セクターを自由化する上で極めて重要な一歩でした
本レポートでは、この市場構造を解剖し、その核心的な課題を診断し、JEPXを21世紀の脱炭素化された電力網にふさわしいシステムへと進化させるための青写真を提案します。
この分析は、電力取引の基本原則から始まり、JEPXの各市場の複雑なメカニズムへと旅を進めます。次に、これらの知識を統合し、エネルギー転換を妨げている体系的な機能不全を特定します。最後に、海外の先進事例や第一原理思考に基づき、より強靭で、手頃な価格で、クリーンな日本のエネルギーの未来を切り拓くための一連の具体的かつ実行可能な解決策を概説します。
第1章 日本の電力取引の基礎:JEPXとその基本原則を理解する
JEPXの創設:独占から市場へ
JEPXは、日本の電力市場自由化の流れを受け、2003年に国内唯一の卸電力取引所として設立されました
JEPX設立以前、日本の電力システムは、北海道から九州・沖縄までの10の地域電力会社が発電・送配電・小売を一手に行う「垂直統合・地域独占」体制でした。この体制は戦後の経済成長期において電力の安定供給に大きく貢献しましたが、時代の変化とともに、コスト高や経営の非効率性、サービスの画一性といった課題が指摘されるようになりました。
こうした背景から、より効率的で多様な電力供給システムを構築するため、市場原理を導入する電力システム改革が始まり、その中核としてJEPXが誕生したのです。JEPX会員数は年々増加し、2024年時点では300社を超える事業者が参加しており
「同時同量」の原則:電力網の厳格な物理法則
電力取引を理解する上で最も重要な原則が「同時同量」です
この物理法則は、経済的な選択ではなく、電力網を支配する厳格な制約です。そして、この制約こそがJEPXの市場設計そのものを規定しています。日本では、このバランスを30分単位(「コマ」と呼ばれる)で管理しており
電力が他の商品と根本的に異なるのはこの点であり、数年先から数秒先まで、時間軸の異なる一連の市場が必要とされる理由もここにあります。これは、JEPXの「何」を理解するための「なぜ」に他なりません。
プレイヤーたちの相関図:相互依存のエコシステム
JEPXを中心とする電力市場は、多様なプレイヤーの相互作用によって成り立っています。主要な登場人物は以下の通りです。
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発電事業者(売り手): 大手電力会社の発電部門、独立系発電事業者(IPP)、再エネ発電事業者などが含まれます。自社の発電した電力をJEPXで販売します
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小売電気事業者(買い手): 大手電力会社の小売部門や、自由化後に参入した「新電力」と呼ばれる事業者です。JEPXで電力を調達し、家庭や企業などの最終消費者に販売します
。4 -
日本卸電力取引所(JEPX): 市場の運営者として、中立的な立場で取引の場を提供し、オークションの執行や約定処理を行います
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電力広域的運営推進機関(OCCTO): 日本の電力システムの司令塔です。JEPXでの取引結果に基づき、全国大での送電網の監視や需給バランスの最終調整を行い、電力システムの物理的な安定性を維持する責任を負います
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これらのプレイヤーは、発電事業者が売り、小売事業者が買い、JEPXがその取引を仲介し、OCCTOがその結果に基づいて電力網の物理的な安定を確保するという、緊密な相互依存関係の中にあります。
第2章 市場の心臓部:一日前市場(スポット市場)と当日市場(時間前市場)
日本の電力取引の中核を成すのが、一日前市場と当日市場です。この二つの市場は、取引量においても、電力価格形成における影響力においても、JEPXの心臓部と言える存在です。
一日前市場(スポット市場):取引のメインアリーナ
一日前市場、通称スポット市場は、JEPXにおける最も主要な市場であり、取引全体の大部分を占めています
メカニズム:48コマの商品と入札
スポット市場では、1日24時間を30分単位で区切った、合計48個の商品(コマ)が取引対象となります
価格決定方式:「メリットオーダー」とブラインド・シングルプライスオークション
スポット市場の価格は、「ブラインド・シングルプライスオークション」という方式で決定されます
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ブラインドオークション: 参加者は、他の事業者がどのような価格と量で入札しているかを知ることができない「目隠し(ブラインド)」の状態で入札します
。これにより、談合などの市場操作を防ぎ、各事業者が自身の発電コストや需要予測に基づいて純粋な価格競争を行うことを促します。12 -
シングルプライスオークション: JEPXは締め切り後、全参加者から集まった入札を整理します。まず、売り入札を価格の安い順に並べた「供給曲線」を作成します。次に、買い入札を価格の高い順に並べた「需要曲線」を作成します。この二つの曲線が交差した点の価格が、そのコマの唯一の「約定価格(システムプライス)」となります
。そして、この約定価格よりも安く売ると入札した全ての売り手と、約定価格よりも高く買うと入札した全ての買い手が、自身の入札価格にかかわらず、この単一の約定価格で取引を成立させます6 。5
この価格決定の背後にある経済原則が「メリットオーダー」です。これは、発電コスト(厳密には限界費用)が最も安い電源から順に稼働させていくという考え方です。供給曲線は、まさにこのメリットオーダーを可視化したものと言えます。例えば、限界費用がほぼゼロの太陽光や水力、安価な石炭火力、比較的高価なLNG火力、そして最も高価な石油火力や揚水発電などが、安い順に積み上がっていきます。需要と供給の交点がどこに来るかによって、その時間帯の価格水準が決定されるのです。
ケーススタディ:2022年夏の価格高騰から見えるメリットオーダーの現実
2022年6月、記録的な猛暑により電力需要が急増し、スポット価格が1kWhあたり100円を超える異常な高騰を見せました
メリットオーダーという両刃の剣
このメリットオーダーの仕組みは、再エネの普及が進む現代において、皮肉なパラドックスを生み出しています。
第一に、限界費用がほぼゼロの太陽光発電は、常に供給曲線の最も安価な部分に位置します。そのため、晴天で太陽光発電の出力が多い昼間の時間帯には、供給曲線が大きく右にシフトし、需要曲線との交点が非常に低い価格、時にはゼロ円/kWhで形成されることが頻繁に起こります
第二に、太陽光が発電しない夜間や、曇天・雨天の日には、電力供給は化石燃料に大きく依存せざるを得ません。需要が高まれば、メリットオーダーの階段を駆け上がり、高価なピーク電源が価格を決定するため、消費者は化石燃料価格の変動に起因する価格高騰リスクに直接さらされることになります
つまり、現在のスポット市場は、再エネの価値を過小評価する一方で、消費者を化石燃料由来の価格変動リスクに晒すという、二重の課題を内包しているのです。
当日市場(時間前市場):最終調整の場
当日市場、別名「時間前市場」は、スポット市場で決定された翌日計画と、実際の電力需給との間に生じるズレを調整するための市場です
メカニズム:ゲートクローズまでのリアルタイム調整
スポット市場の取引が成立した後も、実際の需給は変動します。例えば、天気予報が外れて気温が急上昇し需要が増えたり、逆に太陽光の発電量が想定を上回ったり、あるいは発電所が予期せぬトラブルで停止したりといった事態です
価格決定方式:継続的な「ザラバ取引」
スポット市場のオークション方式とは異なり、当日市場では株式市場と同様の「ザラバ方式」が採用されています
再エネにとっての未発達な生命線
この当日市場の機能は、変動性再エネの大量導入時代において極めて重要です。太陽光や風力は、その性質上、発電量の予測誤差が避けられません。当日市場は、発電事業者や小売事業者がこのリアルタイムの変動を管理し、高額なインバランス料金を回避するための主要なツールです。したがって、流動性が高く効率的な当日市場は、単なる「便利な市場」ではなく、再エネ比率の高い電力システムを構築するための「絶対的な必須条件」と言えます。
日本の当日市場も機能していますが、欧州の先進的な電力市場(例えばNord Poolなど)と比較すると、その流動性や取引の厚みはまだ発展途上にあると指摘されています
表1:JEPX短期市場の比較
特徴 | 一日前市場(スポット市場) | 当日市場(時間前市場) |
主な目的 | 翌日の需給計画の策定と電力の主要な調達・販売 | 翌日計画と実需給の差分調整(最終調整) |
取引時間 | 受渡日の前日(午前10時入札締切) | 受渡日の前日17時~受渡コマの1時間前まで |
価格決定方式 | ブラインド・シングルプライスオークション | ザラバ方式(連続約定) |
主な参加者 | 全ての発電事業者・小売電気事業者 | 計画との差分調整が必要な事業者 |
再エネ統合における役割 | 再エネの発電計画を織り込んだ主要な取引の場。価格形成に大きな影響を与える。 | 再エネの予測誤差を吸収し、インバランスを低減させるための重要な調整手段。 |
第3章 未来をヘッジする:先渡市場、ベースロード市場、そして先物市場
電力取引は、今日明日の電気を売買するだけではありません。数ヶ月、数年先の価格変動リスクをいかに管理するかが、事業者経営の安定、ひいては消費者が享受する電気料金の安定に直結します。この長期的視点でのリスク管理を担うのが、先渡市場やベースロード市場、そして金融市場である電力先物市場です。
先渡市場:価格変動リスクを管理するツール
先渡市場は、将来の特定の期間に受け渡される電気を、現時点で合意した価格で売買する市場です
メカニズム:ザラバ方式による将来の電力取引
取引される商品は、1週間、1ヶ月、1年といった期間の電力をブロック化したもので
深刻な分析:流動性の罠
しかし、日本の先渡市場は、その創設以来、慢性的な「流動性の低さ」という深刻な問題を抱えています。つまり、市場に参加する事業者が少なく、取引がほとんど成立しないのです
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売買ニーズの不一致: 売り手(主に発電事業者)は将来の燃料価格上昇や市場分断リスクを価格に織り込むため高めの価格を提示し、買い手(主に小売事業者)はできるだけ安く調達したいため、両者の希望価格に大きな乖離が生まれ、マッチングが困難になっています
。24 -
価格固定ニーズの欠如: かつては、大手電力会社には価格を固定する強いインセンティブが乏しく、一方で新電力は旧一般電気事業者の「常時バックアップ」という仕組みに依存できたため、自らリスクヘッジを行う必要性が低かったという歴史的経緯もあります
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ヘッジ機能の不完全さ: 先渡市場は全国単一の「システムプライス」をヘッジ対象としていますが、送電線の混雑(市場分断)によって、事業者が実際に直面する価格が地域ごとの「エリアプライス」になった場合、ヘッジが完全に機能しないという構造的欠陥を抱えています
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ザラバ方式の限界: 長期契約のマッチングにおいて、ザラバ方式は必ずしも効率的ではなく、買い手と売り手が出会う機会を逸している可能性も指摘されています
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ヘッジ手段の欠如がもたらす体系的帰結
この先渡市場の機能不全は、単なる一市場の問題にとどまりません。それは、日本の電力システム全体を不安定化させる体系的なリスクを生み出しています。
小売事業者は、家庭や企業に対して安定的で予測可能な料金メニューを提供する必要があります。そのためには、日々変動するスポット市場からの調達価格リスクをヘッジすることが不可欠です。先渡市場は、そのためのJEPXにおける主要な物理ヘッジ手段です。しかし、前述の通りこの市場は機能不全に陥っています。
これにより、「ヘッジ欠乏(Hedging Deficit)」とでも言うべき状況が生まれています。つまり、小売事業者は、本来ヘッジされるべき巨大な価格変動リスクを、生身のまま抱え込まざるを得ないのです。この高いリスクは、特に資本力の乏しい新電力の経営を圧迫し、健全な競争を阻害します。実際、2021年から2022年にかけての燃料価格・スポット価格高騰時に、多くの新電力が事業撤退や倒産に追い込まれた背景には、このヘッジ手段の欠如が大きく影響しています
さらに、このリスクは、再エネの普及にも深刻な影を落とします。再エネプロジェクトのファイナンスにおいて、長期にわたる安定した収益見通しは生命線です。長期の電力購入契約(PPA)がその代表例ですが、買い手である小売事業者が自身の将来のリスクをヘッジできなければ、PPAの締結にも消極的にならざるを得ません。先渡市場の失敗は、電力小売エコシステム全体を不安定化させ、日本のエネルギー転換の足かせとなっているのです。
ベースロード市場:過去への架け橋か?
ベースロード市場は、2019年に創設された比較的新しい市場です
目的と背景:競争環境の均等化
この市場が創設された目的は、電力自由化後の競争環境を「イコールフッティング(均等化)」することにありました
メカニズム:年間固定価格のオークション
ベースロード市場では、年4回、翌年度1年間の電力を対象としたオークションが実施されます
再エネ時代の時代錯誤
ベースロード市場は、自由化初期の課題、すなわち「安価な化石燃料電源へのアクセス」を解決するために設計されました。しかし、2050年カーボンニュートラルを目指す現代において、その存在意義は問い直されています。
未来の電力システムの主役は、化石燃料ではなく再エネです。太陽光や風力は、発電している時間帯においては、まさに「新しいベースロード電源」であり、その限界費用はゼロです。このような状況下で、CO2を大量に排出する電源を「ベースロード」と定義し、その固定的な電力ブロックを売買するための特別な市場を維持することは、柔軟性が求められる再エネ中心のシステムとは逆行する考え方です。
この市場は、あくまで過渡期的な措置であり、グリッドの脱炭素化が進むにつれて、その役割は縮小していくでしょう。将来的には、段階的に廃止するか、あるいはその概念を根本的に見直す必要があるかもしれません。
金融取引の台頭:電力先物市場
JEPXの物理市場とは別に、金融的な手法で価格変動リスクをヘッジする「電力先物市場」が存在します。これは主に東京商品取引所(TOCOM)や欧州エネルギー取引所(EEX)で取引されています
先渡市場と先物市場の最大の違いは、先物取引では電力の現物受け渡しが必須ではない点です
例えば、ある小売事業者が、夏のスポット価格が15円/kWhに高騰すると予測し、事前に10円/kWhで電力先物を購入したとします。実際に夏のスポット価格が15円になった場合、事業者はスポット市場で15円で電力を調達する必要がありますが、先物取引で5円の利益を得ているため、実質的な調達コストは10円に抑えられます
日本の電力先物市場の取引量は年々増加傾向にありますが、現物市場の数倍の取引がある欧州の先進市場と比べると、まだ非常に小さい規模です
第4章 グリッドの物理的限界を乗り越える:間接送電権市場と容量市場
電力市場は、単なる経済的な取引の場であるだけでなく、送電網という物理的な制約と密接に結びついています。この物理的制約を管理し、将来にわたる供給の信頼性を確保するために、間接送電権市場と容量市場という、より専門的で複雑な二つの市場が存在します。
間接送電権市場の解読
問題:「市場分断」という壁
日本の電力網は、一枚岩の送電網ではなく、北海道から九州までの9つのエリアが「地域間連系線」と呼ばれる送電線で結ばれた構造になっています
ここで問題となるのが「市場分断」です
解決策:金融的なヘッジ手段
この市場分断は、エリアをまたいで電力を取引する事業者にとって大きな価格変動リスクとなります。このリスクを軽減するために2019年に導入されたのが「間接送電権市場」です
重要なのは、間接送電権が「物理的に電気を送る権利」ではないという点です
物理的な傷に対する金融的な絆創膏
間接送電権市場は、巧妙な金融メカニズムです。しかし、その本質を理解することが重要です。根本的な問題は、連系線という「物理的な送電容量の不足」にあります。この物理的なボトルネックこそが、安価な再エネを特定の地域に「閉じ込め」、全国大での効率的なエネルギー利用を妨げる、脱炭素化における最大の物理的障壁の一つです。
間接送電権市場は、この物理的な問題が引き起こす「金融リスク」を軽減するための、いわば「金融的な絆創膏」です。しかし、それは根本原因である物理的な傷そのものを治すわけではありません。
さらに、データを見ると、間接送電権のオークション価格が、実際に発生するエリア間の価格差よりも恒常的に低くなる傾向があることが指摘されています
電灯を灯し続けるために:容量市場
「kWh」と「kW」の違い
2020年に日本で最初のオークションが開催された「容量市場」は、これまでに説明してきた市場とは取引するものが根本的に異なります。スポット市場や先渡市場が、実際に消費される「電力量(kWh)」を取引するのに対し、容量市場は将来の「供給力(kW)」、つまり発電所がいつでも発電できる「能力」そのものを取引する市場です
メカニズム:4年先の供給力を確保するオークション
容量市場の仕組みは以下の通りです。
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需要予測と目標調達量の算定: まず、電力広域的運営推進機関(OCCTO)が、4年後の日本の電力需要が最大になる時点(ピーク時)の需要量を予測します。そして、猛暑や厳寒、災害などのリスクも考慮した上で、そのピーク需要を確実に満たすために必要な供給力(kW)の目標量を全国で算定します
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オークションの実施: 次に、OCCTOはこの目標量を確保するため、4年後に供給可能となる発電所などを対象にオークションを実施します。発電所の所有者は、「この価格(円/kW)なら供給力を提供します」と入札します。OCCTOは、入札価格の安い順に供給力を確保していき、目標量に達した時点での価格が、その年の「約定価格」となります(シングルプライスオークション)
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対価の支払いと負担: オークションで落札した発電事業者は、4年後に実際に供給力を提供できる状態を維持する義務を負う代わりに、OCCTOから対価(容量確保契約金額)を受け取ります。その原資は、全国の小売電気事業者が、その電力販売量に応じて負担する「容量拠出金」によって賄われます
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移行期における、物議を醸すが不可欠なツール
なぜこのような複雑な市場が必要なのでしょうか。それは、「kWh」だけを取引する市場(エナジーオンリー市場)が抱える「ミッシングマネー問題」を解決するためです。
スポット市場のようなエナジーオンリー市場では、発電所は発電した電力量(kWh)に応じてしか収益を得られません。しかし、年に数時間しか稼働しないピーク電源(例えば、真夏の夕方にだけ必要とされる発電所)は、kWhの売上だけでは、建設費や維持費といった巨大な固定費を回収できず、採算が取れずに撤退してしまいます。その結果、いざという時に供給力が足りなくなるリスクが生じます。
容量市場は、この問題を解決するために、発電(kWh)とは別に、供給力(kW)を維持していること自体に対価を支払う仕組みです。これにより、ピーク電源にも安定した収益源を提供し、電力供給の信頼性を確保するのです。
この仕組みは、エネルギー転換期において特に重要です。再エネの導入拡大によってスポット価格が低下すると、バックアップや柔軟性供給源として依然として必要な火力発電所などの既存電源の収益性が悪化します。容量市場は、これらの電源が、バッテリーやデマンドレスポンスといったクリーンな代替手段に置き換わるまでの間、経済的に存続可能にするためのメカニズムなのです。
しかし、この市場は物議を醸しています。米国のPJM市場の経験が示すように
表2:JEPX関連の長期計画・リスク管理市場の概要
市場名 | 取引対象 | 時間軸 | 主な機能 | 主要な課題・特徴 |
先渡市場 | 将来の物理的な電力量(kWh) | 1週間~3年先 | スポット価格変動に対する物理的な価格ヘッジ | 慢性的な流動性不足、ヘッジ機能の不完全さ |
ベースロード市場 | 年間固定のベースロード電源(kWh) | 翌年度1年間 | 新電力への安価な電力へのアクセス確保 | 化石燃料中心の旧来型概念、再エネ時代との不整合 |
電力先物市場 | 将来の電力価格(金融商品) | 数ヶ月~数年先 | スポット価格変動に対する金融的な価格ヘッジ | 流動性が成長途上、物理市場との連携が課題 |
間接送電権市場 | エリア間の価格差(金融商品) | 週間・年間 | 市場分断時のエリア間価格差リスクのヘッジ | 物理的な送電制約の根本解決にはならない |
容量市場 | 将来の供給能力(kW) | 4年先 | 中長期的な供給信頼度の確保 | 制度設計の複雑さ、化石燃料電源延命への懸念 |
第5章 体系的診断:日本の脱炭素化を阻む根本課題の特定
これまでの各市場の分析を統合すると、日本の電力システムが抱える、相互に関連し合った根本的な課題が浮かび上がってきます。これらの課題は、JEPXという市場の設計に起因し、日本の脱炭素化への道を険しいものにしています。
課題1:スポット市場の専制と「ヘッジ欠乏」
日本の卸電力取引は、極度にスポット市場に依存しています。これは、第3章で詳述した先渡市場や先物市場といった長期的なヘッジ手段が機能不全に陥っていることの裏返しです。小売事業者は、ボラティリティの高いスポット市場での価格変動リスクを、ほとんど生身のまま受け止めざるを得ない「ヘッジ欠乏」状態にあります
この構造は、複数の深刻な問題を引き起こします。第一に、小売事業者の経営を著しく不安定にし、資本力のない新電力の参入や成長を妨げ、健全な競争環境を阻害します
買い手である小売事業者が将来のリスクをヘッジできなければ、長期契約を結ぶインセンティブは働きません。このように、スポット市場への過度な依存とヘッジ手段の欠如は、電力市場の安定性と再エネ普及の双方にとって、深刻な足かせとなっているのです。
課題2:再エネのパラドックス — ダックカーブと誤った価値評価
現在の市場構造は、再エネに対して「価値のデフレーション」とも言うべき現象を引き起こしています。第2章で見たように、太陽光発電が増えれば増えるほど、メリットオーダー効果によって昼間のスポット価格を暴落させ、自らの収益を食い潰してしまいます
問題の根源は、現在の市場が「電力量(kWh)」という単一の価値しか評価していない点にあります。しかし、再エネ比率の高い未来の電力網が必要とするのは、単なる電力量だけではありません。急峻な需要変動に追随する「柔軟性」、太陽光の出力が急変する際の「ランプアップ・ダウン能力」、周波数を安定させる「慣性力」といった、多様な「調整力」です。現在の市場はこれらの価値を適切に価格付けできていないため、蓄電池やデマンドレスポンス、柔軟な火力発電といった、本当に必要なリソースへの投資を促す経済的シグナルが欠如しています。結果として、リソースの根本的な誤配分が生じているのです。
課題3:分断された列島グリッド
第4章で分析したように、日本は単一の電力市場として機能しておらず、送電容量の乏しい連系線でかろうじて繋がれた、9つの地域的「島」の集合体と化しています。この物理的な分断は、低コストな脱炭素化グリッドを実現する上での最大の物理的障壁です。
この「列島グリッド」は、全国大での効率的なリソース共有を妨げます。例えば、太陽光資源が豊富な九州や風力資源が豊富な北海道・東北で発電された安価な再エネ電力が、送電線のボトルネックによって大消費地である東京や大阪に届けられない、という事態が常態化しています。これは、国全体として見れば、最も安価なクリーンエネルギーをみすみす無駄にしていることに他ならず、システム全体のコストを不必要に押し上げています。間接送電権市場は、この問題が引き起こす金融リスクを緩和するものの、物理的な解決策そのものを加速させる力は限定的です。
課題4:共同最適化されていないシステムの限界(国際比較からの示唆)
日本の電力市場は、電力量(kWh)を取引する市場、供給力(kW)を取引する容量市場、そして調整力を取引する需給調整市場が、それぞれ個別に、いわば「サイロ化」して運営されています。これは、海外の先進的な市場設計、特に米国のPJM市場などと比較すると、著しい非効率性を内包しています
PJMのような先進市場では、エネルギー(kWh)、調整力(アンシラリーサービス)、時には容量(kW)の調達を同時に計算し、システム全体のコストが最小になる解を導き出す「共同最適化(Co-optimization)」というアプローチが採用されています
一方、日本のサイロ化されたアプローチでは、このような全体最適化が困難です。例えば、スポット市場で安価だが柔軟性の低い電源が約定した結果、別の需給調整市場で高価な調整力を追加で調達しなければならなくなる、といった非効率が発生し得ます。この共同最適化の欠如は、システム全体の総コストを増大させる隠れた要因であり、日本の市場設計における大きな構造改革の余地を示しています。
第6章 未来への青写真:強靭で脱炭素化されたグリッドのための実行可能な解決策
前章で診断した根本課題に対し、本章では、証拠に基づいた一連の具体的かつ実行可能な解決策を提案します。これらは、単なる微調整ではなく、日本の電力システムを21世紀の要請に適応させるための構造改革の青写真です。
解決策1:ヘッジ手段の修復 — 実用的な長期市場の創設
まず取り組むべきは、「ヘッジ欠乏」の解消です。これは、単に市場の流動性が自然に高まるのを待つのではなく、積極的な制度改革を必要とします。
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マーケットメイク制度の導入: 市場に常に一定の売り注文と買い注文が存在するよう、指定された事業者にマーケットメイク(値付け)を義務付けます。これにより、取引の呼び水となり、流動性の基盤を構築します。
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魅力的な商品の設計: 事業者にとってより使いやすく、魅力的な先渡・先物商品を設計します。例えば、再エネの発電パターンに連動した商品や、エリアプライスとの連動性が高い商品を開発することで、より実用的なヘッジ手段を提供します。
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物理市場と金融市場の連携強化: JEPXとTOCOM等を結ぶ「JJ-Link」
のような取り組みを加速させ、清算・決済機能の統合を進めることで、カウンターパーティリスク(取引相手のデフォルトリスク)を低減し、より多くの金融機関が参入しやすい環境を整備します。31 -
オークション方式の導入: 流動性の低い長期契約のマッチングにおいて、ザラバ方式だけでなく、価格発見機能に優れた定期的なオークション方式を導入することも検討すべきです。
解決策2:価値の正しい価格付け — 真の「柔軟性市場」の設計
「kWh」だけでなく、「価値」を正しく価格付けする市場へと進化させる必要があります。これは、当日市場の改革と、再エネグリッドが必要とする調整力(アンシラリーサービス)を取引する、透明性の高い市場の創設を意味します。
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高速周波数応答(Fast Frequency Response): 周波数の急な変動に対し、数秒以内に応答できる能力(例:蓄電池)を評価し、対価を支払う市場を創設します。
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ランプ能力(Ramping Capability): 太陽光の出力が急増・急減する「ダックカーブ」の急峻な傾斜に追随して、出力を迅速に増減させる能力を評価します。
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慣性力(Inertia): グリッドの安定に貢献する、大型回転機が持つ物理的な慣性力自体を評価し、新たな収益源とします。
これらの市場を創設することで、蓄電池、デマンドレスポンス、柔軟な火力発電といった重要な資産に新たな収益機会が生まれ、それらへの投資を促す強力な経済的シグナルとなります。これは、FIPのような補助金に頼るのではなく、市場メカニズムを通じて再エネ統合コストを賄う、より持続可能なアプローチです。
解決策3:列島をつなぐ — 市場主導の送電網計画
送電網への投資判断に、より強く市場シグナルを活用すべきです。エリア間の価格差(エリアプライス)は、どこで送電線の混雑が最もコスト高な問題を引き起こしているかを示す、強力な経済的指標です。
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価格差に基づく投資優先順位付け: スポット市場で恒常的に発生する価格差や、間接送電権市場のオークション結果を、OCCTOの長期的な送電網増強計画に直接的かつ透明性の高い形で反映させるプロセスを確立します。これにより、従来の工学的な判断のみに基づく計画から、市場経済性と工学的な合理性を融合させた「市場主導・技術立脚」の計画へと進化させることができます。
解決策4(非常識からの発想):グリッド資産としての「需要サイド」の解放
日本の電力システムにおける最大の未開発資源は、電力の「需要サイド」にあります。この解決策は、VPP(バーチャルパワープラント)の能力を最大限に引き出すための、抜本的な改革を提案します。
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市場参加障壁の撤廃: 電気自動車(EV)、家庭用蓄電池、スマート給湯器、業務用空調といった分散型エネルギーリソース(DER)を束ねたアグリゲーターが、容量市場からスポット市場、調整力市場に至るまで、JEPXの「全ての市場」に容易に参加できるよう、最低入札単位の引き下げや参加要件の抜本的な簡素化を行います。
この改革は、何百万もの受動的な電力消費機器を、能動的で、分散され、柔軟なグリッド調整リソースへと変貌させます。それは、変動する需要という「負債」を、新たな発電所を建設するよりもはるかに低いコストでグリッドを安定させる「中核資産」へと転換させる、パラダイムシフトなのです。
結論:21世紀型電力システムへの進化
JEPXの進化は、一部の専門家だけが関心を持つニッチな技術的課題ではありません。それは、日本の経済、安全保障、そして気候変動に対するコミットメントにとって、戦略的に不可欠な要請です。過去のエネルギーパラダイムの遺物である現在の市場設計は、今や未来へのボトルネックと化しています。
本レポートで概説した改革案—ヘッジ市場の修復、柔軟性の価格付け、列島グリッドの接続、そして需要サイドの解放—は、それぞれが独立した微調整ではなく、相互に連携した統合パッケージです。その実行は複雑で困難を伴うでしょう。しかし、それこそが、単にクリーンであるだけでなく、より強靭で、より効率的で、そして全ての人々にとってより手頃な価格の電力システムを構築するための、避けては通れない道なのです。
付録
よくある質問(FAQ)
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Q1. JEPXのスポット価格と、家庭の電気料金はどう違うのですか?
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A1. JEPXのスポット価格は、電力の「卸売価格」です。小売電気事業者はこの価格で電力を仕入れ、それに送電網の利用料(託送料金)、自社の経費や利益などを上乗せして、最終的な家庭向けの「小売価格」を設定します。市場連動型プランでない限り、スポット価格の30分ごとの変動がそのまま電気料金に反映されるわけではありません。しかし、スポット価格の平均的な水準が上昇すれば、いずれ小売価格にも影響が及びます
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Q2. なぜJEPXの価格はゼロ円やマイナスになることがあるのですか?
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A2. 主に、再エネの出力が電力需要を上回る場合に発生します。特に太陽光発電は、一度発電を始めると出力を細かく調整するのが難しく、発電コスト(限界費用)もほぼゼロです。そのため、晴天の昼間などに出力が需要を上回ると、発電事業者はペナルティを避けるために「ゼロ円でもいいから売りたい」、あるいは「お金を払ってでも引き取ってほしい(マイナス価格)」と入札することがあります。これがゼロ円価格やマイナス価格の原因です
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Q3. 個人や中小企業はJEPXで直接電気を売買できますか?
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A3. いいえ、できません。JEPXでの取引は、純資産額が1,000万円以上であることなど、一定の要件を満たして取引会員となった事業者(発電事業者や小売電気事業者など)に限定されています
。個人や中小企業は、これらの小売電気事業者を通じて電気を購入することになります。3
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Q4. JEPXの「先渡市場」と、TOCOMの「電力先物市場」の違いは何ですか?
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A4. 最大の違いは、現物の受け渡し義務の有無です。JEPXの先渡市場は「物理取引」であり、契約が成立した場合、売り手は実際にその電力を供給し、買い手は受け取る義務があります。一方、TOCOMの電力先物市場は「金融取引」であり、現物の受け渡しは必須ではありません。契約価格と実際の市場価格の差額を金銭で決済する「差金決済」が可能です。これにより、電力事業を行っていない金融機関などもリスクヘッジ目的で参加しやすくなっています
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Q5. FIP制度はJEPX価格とどう関係していますか?
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A5. FIP制度は、再エネ発電事業者がJEPXなどの市場で電力を販売した際に、その市場価格に加えて「プレミアム」と呼ばれる補助額を受け取れる制度です。プレミアム額は、「基準価格(FIP価格)」から市場価格などを基に算定される「参照価格」を差し引いて決まります。市場価格が低い時はプレミアムが高くなり、市場価格が高い時はプレミアムが低くなる(あるいはゼロになる)ことで、発電事業者の収入をある程度安定させる仕組みです。つまり、FIP制度下の売電収入はJEPXの市場価格と密接に連動しています
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Q6. 「市場分断」とは何ですか?なぜ起こるのですか?
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A6. 市場分断とは、JEPXのスポット市場で全国単一の価格が成立せず、地域ごとに異なる電力価格(エリアプライス)が設定される現象です。これは、地域間を結ぶ送電線(連系線)の送電容量に限りがあるために起こります。安価な電気が豊富な地域から需要の大きい地域へ、需要を満たすだけの電力を送りきれない場合に、送電線がボトルネックとなり、市場が物理的に「分断」されるのです
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ファクトチェック・サマリー
本レポートは、日本卸電力取引所(JEPX)、経済産業省(METI)、資源エネルギー庁(ANRE)、電力・ガス取引監視等委員会から公開されている公式文書およびデータに基づき、包括的な分析を行っています。主要な情報源には、JEPXの取引ガイド
用語集
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JEPX (Japan Electric Power Exchange): 日本卸電力取引所。日本で唯一、卸電力の取引が行われる市場。
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OCCTO (Organization for Cross-regional Coordination of Transmission Operators, Japan): 電力広域的運営推進機関。日本の電力系統全体の需給バランス調整や送電網の計画・運用を担う中立機関。
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メリットオーダー (Merit Order): 発電コスト(限界費用)の安い発電所から順に稼働させていく、電力市場における経済的な原則。
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ザラバ方式 (Zaraba): 株式市場などで用いられる取引方式。売り注文と買い注文を価格と時間の優先順位に従って、継続的に約定させていく。
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コマ (Koma): JEPXのスポット市場などで使われる取引単位。1日を30分ごとに区切ったもの。1日は48コマで構成される。
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同時同量 (Simultaneous Balancing): 電力システムにおいて、需要(消費量)と供給(発電量)を常に一致させなければならないという物理的な原則。
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供給力 (Capacity / kW): 発電所が発電できる能力、パワー。実際に発電した電力量(kWh)とは区別される。
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調整力 (Ancillary Services): 周波数維持や需給バランス調整など、電力の安定供給を維持するために必要な機能の総称。
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市場分断 (Market Division): 地域間連系線の送電容量制約により、全国で単一の市場価格が成立せず、エリアごとに異なる価格がつく現象。
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新電力: 2016年の電力小売全面自由化以降に、新たに参入した小売電気事業者の通称。
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