交通インフラ脱炭素化 2026 IEA・IPCC徹底解析 日本の「系統制約」を打破するV2G・水素・AIの全貌

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国際航業株式会社カーボンニュートラル推進部デジタルエネルギーG

樋口 悟(著者情報はこちら

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交通インフラ脱炭素化 2026 IEA・IPCC徹底解析 日本の「系統制約」を打破するV2G・水素・AIの全貌

2026年は、世界の交通インフラ脱炭素化における「臨界点」として記憶されることになるでしょう。パリ協定の目標達成に向けた各国の政策が、スローガンから具体的な義務化へと移行し 1、これまで実証段階に留まっていた技術的ソリューションが、現実のインフラとして実装され始める年です 4

運輸セクターは、世界のエネルギー関連CO_2排出量の3分の1以上を占める巨大な排出源です 7。その脱炭素化は、単に「電気自動車(EV)を増やす」といった車両(点)の問題ではありません。それは、車両が走行する道路、列車が走る線路、船舶が接岸する港湾、航空機が発着する空港という、社会の「動脈」たるインフラ(線と面)のシステム全体を変革する試みです。

本稿は、この複雑なシステム転換を解き明かすための羅針盤です。道路、鉄道、海運、航空の全領域における2025年最新の国際エネルギー機関(IEA)や気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の分析 8、そして最先端の学術的知見を網羅的に解析します。「動脈」の変革が、如何にして社会全体の脱炭素を牽引するのか。そのメカニズムと、2026年以降に直面する課題を解き明かします。

さらに、このグローバルなシステムシフトの視座から、日本の脱炭素化を阻む「根源的な課題」を特定します。それは、再生可能エネルギー普及の足枷となっている「電力系統の制約」 10 です。本稿は、交通インフラの変革こそが、この一見別問題に見えるエネルギー問題を解決する最大の鍵であることを、具体的な処方箋とともに提示します。

第1章:なぜ「インフラ」か? 脱炭素化の二重の難題

交通の脱炭素化を考えるとき、私たちの視線は往々にしてEVや水素バスといった「動くモノ(車両)」に集中しがちです。しかし、真の課題は、それらが依存する「動かないモノ(インフラ)」に潜んでいます。

1-1. 見落とされた巨人:「エンボディド・カーボン」という課題

運輸セクターの排出は、二つの側面から捉える必要があります。一つは、車両の走行時に排出される「オペレーショナル・カーボン(運用時炭素)」。もう一つは、そのインフラ、すなわち道路、橋、線路、港湾を建設・保守する際に排出される「エンボディド・カーボン(内包炭素)」です 12

私たちが日常的に利用する交通インフラは、アスファルト、コンクリート、鉄鋼の塊です 13。これらの素材の製造には膨大なエネルギーが必要であり、建設プロセス自体が巨大なCO_2排出源となります 14EVの普及(オペレーショナル・カーボンの削減)に成功しても、そのEVが走るための道路や充電インフラの建設・維持(エンボディド・カーボン)で大量のCO_2を排出し続ければ、脱炭素化は達成できません。

真の持続可能性は、建設から運用、廃棄に至る全行程を評価する「ライフサイクルアセスメント(LCA)」 15 に基づいて初めて評価できます。IPCCや国際機関も、車両単体のLCAだけでなく、燃料供給インフラや送電網を含めたシステム全体の評価の重要性を強調しています 17

ここで、2026年以降の政策が直面する一つのジレンマが明確になります。オペレーショナル・カーボン(EV)をゼロにするためのインフラ投資(充電網、再エネ発電所)が、短期的にはエンボディド・カーボンを急増させるという「カーボンの前借り」問題です。このトレードオフを定量的に管理し、インフラ自体の排出量をいかに抑えるかが、今後の政策の核心となります。

1-2. 解決策としてのサーキュラー・エコノミー:「Recycled First Policy」

エンボディド・カーボンという巨人を制圧する鍵は、サーキュラー・エコノミー(循環経済)にあります。特に、インフラ建設におけるリサイクル素材の活用は、最も実効性のあるアプローチの一つです。

オーストラリアのビクトリア州政府が導入した「Recycled First Policy(リサイクル・ファースト政策)」は、その先進事例です 19。この政策は、道路や鉄道の新規プロジェクトにおいて、リサイクル素材の利用を原則として義務付けるものです 21再生アスファルト混合物(RAP)や再生コンクリート骨材は、バージン素材(新規に採掘・製造された素材)と比較して、製造時のCO_2排出量が少ないことが確認されています 13

同様の取り組みは、南アフリカ 22 や欧州 23 でも進んでいます。しかし、リサイクル素材の普及には「品質基準への不安」「認証取得のコスト」「安定調達の難しさ」といった障壁が伴います 22

この障壁を打ち破る、地味ですが最も実効性のあるソリューションがあります。それは、インフラの最大の発注者である「政府」が、その調達力を利用することです。政府が公共調達(GPP: Green Public Procurement)の入札仕様書で、リサイクル素材の使用を単なる「加点項目」ではなく「必須要件」として明記するのです 19。これにより、民間企業は品質基準の確立や認証取得に安心して投資でき、リサイクル素材の市場そのものが創出されます。需要が供給を牽引し、インフラのエンボディド・カーボンを確実に削減する好循環が生まれます。

1-3. IEA NZEシナリオが示す2030年への険しい道筋

IEA(国際エネルギー機関)が示す「2050年ネットゼロ(NZE)シナリオ」は、気温上昇を1.5℃に抑えるための世界的な道筋です。このシナリオにおいて、運輸セクターに課された責務は極めて重いものです。

NZEシナリオによれば、運輸セクターのCO_2排出量は、輸送需要の増加が見込まれるにもかかわらず、2030年までに年率3%以上の速度で削減しなければなりません 7

この目標達成は、単一の技術では不可能です。(1) 道路交通の急速な電化(EV化)、(2) あらゆるモードにおける徹底したエネルギー効率の改善、(3) 自家用車から公共交通・自転車・徒歩へのモーダルシフト、そして (4) 海運・航空分野における低炭素燃料(SAFなど)の導入。これら全ての政策を「組み合わせる」ことによってのみ達成可能となります 7

2025年現在、世界の太陽光発電導入量とEV販売台数は、NZEシナリオの軌道に乗るという明るい兆候が見られます 9。しかし、それ以外の分野、特にインフラ投資や重工業の脱炭素化は著しく遅れています。2026年は、これらの遅れた分野、とりわけ社会の基盤であるインフラへの脱炭素投資を加速させるための、事実上最後のチャンスウィンドウなのです 9

第2章:【道路インフラ】EVシフトの「次」に来るもの:V2Gと動的充電

道路インフラの脱炭素化は、EVの普及と充電インフラの整備が二本柱です。しかし、充電インフラの拡大は、電力系統という新たな、より深刻な課題を生み出しています

2-1. EV充電網のジレンマ:設置数と「系統インパクト」

EVの普及に伴い、政府は補助金を投じて公共の急速充電器設置を推進しています 25。しかし、充電器の「数」だけを追い求める政策は、近いうちに壁にぶつかります。

EVの充電、特にDC急速充電器が特定の時間帯(例えば、夕方の帰宅ラッシュ後)に集中すると、その地域の配電網や変圧器に許容量を超える負荷がかかります。これは「系統インパクト」と呼ばれ、電圧の不安定化や周波数の乱れ、最悪の場合は停電を引き起こす可能性があります 26

この問題に対し、電力会社は送配電網の増強(太い電線や大型変圧器への交換)で対応しようとします。しかし、これは巨額のインフラ投資を必要とし、そのコストは最終的に全消費者の電気料金に跳ね返ります。

この「EV普及」→「充電器設置」→「系統負荷増大」→「電力網の増強」というサイクルは、インフラの非効率な肥大化を招くだけの「対症療法」に過ぎません。年に数回しかないピーク需要のために高価な設備を維持するのは、年に数回しか使わない客室のために家を増築し続けるようなもので、経済合理性に欠けます。

2-2. [深掘り]V2G(Vehicle-to-Grid)はなぜ「究極のソリューション」なのか

このジレンマを根本的に解決する技術として、V2G(Vehicle-to-Grid)が国家戦略レベルで注目されています 27

V2Gを理解するために、従来の充電技術と比較してみましょう。

  • 従来の充電: EVを「電気の消費者」として扱います。電力網からの一方通行です。

  • V1G(スマート充電): EVを「賢い消費者」として扱います 28。電力網が混雑していない「安い」時間帯を狙って、充電時間を自動でずらします(例:深夜に充電開始) 29。これは依然として一方通行ですが、系統への負荷を平準化できます。

  • V2G(充放電): EVを「電力需給のパートナー」として扱います。EVの大容量バッテリーから電力網へ電気を「売電(逆潮流)」する、双方向通行の技術です 27

V2Gの真価は、個々のEVが「走る蓄電池」として機能することにあります 31。数百万台のEVがV2Gネットワークに接続されれば、それは都市全体、ひいては国全体にとっての巨大な分散型蓄電池として機能します。

具体的には、太陽光発電が過剰になる「昼間」にEVが安価な電力を「購入・貯蔵」し、電力需要がピークに達する「夕方」にその電力を系統に「売却・供給」します 32。これにより、電力網の需給バランスは劇的に安定します。V2Gは、再生可能エネルギーの出力変動を吸収し、高価な定置型蓄電池や、ピーク時用の火力発電所の新設を「代替」する可能性を秘めているのです 31

もはやV2Gは机上の空論ではありません。米国エネルギー省(DOE)はVGI(Vehicle-Grid Integration)実現のための10カ年ロードマップを策定 27 し、一部の先進的な政策案では「2025年までに新型充電器にV1G/V2G機能の搭載を義務化する」といった踏み込んだ内容も検討されています 35

もちろん、実用化への課題は残っています。自動車メーカー、電力会社、充電器メーカーの間で異なる「通信規格や認証プロセスの統一」 36、そしてV2Gに参加するEVオーナーへの「適切なインセンティブ設計」 32 が、普及に向けた最大の障壁です。

2-3. [未来の解]道路がクルマに給電する「動的ワイヤレス充電(DWPT)」

V2Gが「EVのバッテリーを系統安定化に活用する」アプローチである一方、全く異なる発想でEVの課題を解決しようとする技術があります。それが「動的ワイヤレス給電(Dynamic Wireless Power Transfer: DWPT)」、すなわち「走行中充電」です 4

これは、道路のアスファルト自体に給電コイルを埋設し、その上を走行または停車するEV(特にトラックやバス)にワイヤレスで電力を供給する技術です 38

2025年から2026年にかけて、米国インディアナ州やミシガン州の公道で、この未来技術のパイロットプロジェクトが本格化しています 4。特に、決まったルートを往復する物流トラックや港湾周辺の貨物輸送 38、あるいは市街地のバス路線での実用化が有望視されています。

この技術は、運輸部門の脱炭素化におけるパラダイムシフトを引き起こす可能性があります。

現在のEVのコスト、重量、そして環境負荷の大部分は、その「大型バッテリー」に集中しています 16。しかし、もし走行中に常時充電できるのであれば、EVはそもそも巨大なバッテリーを搭載する必要がなくなります

長距離大型トラックの電化(1)が困難なのは、航続距離を確保するために、信じられないほど重く高価なバッテリーを積まなければならないからです。動的充電インフラは、この前提を覆します。トラックは最小限のバッテリーだけを積み、道路インフラから電力を得ながら走行する。これにより車両コストは劇的に下がり、電化が不可能とされてきた重量貨物輸送の脱炭素化に道が開けます

V2Gが「乗用車のバッテリー容量を最大化し、系統に貢献する」戦略であるのに対し、動的充電は「商用車のバッテリー容量を最小化し、車両コストを下げる」戦略です。この二つのアプローチは、未来の道路インフラにおいて競合するのではなく、互いに補完し合う関係となるでしょう。

2-4. ケーススタディ:ノルウェーの「充電インフラ整備」の教訓

EVシフトの最前線を走るのがノルウェーです。2025年までに内燃機関(ICE)車の新車販売を禁止するという世界で最も野心的な目標を掲げ 392024年には新車販売の実に89%が完全な電気自動車となりました 39

ノルウェーの成功は、手厚い購入補助金(購入税や付加価値税の免除)によるものだと語られがちです。しかし、それ以上に重要な成功要因は、「インフラへの先行投資」と「制度設計」にあります。

ノルウェー政府は、EV購入のインセンティブと同時に、「充電インフラへの不安」を徹底的に解消する政策を取りました。特に重要なのが、集合住宅や公共駐車場における「充電への権利」を法制度として確立したことです。これにより、自宅で充電できない「充電難民」の発生を防ぎました。

さらに、オスロ市などでは、スマート充電やV2Gの実証実験も進められており、EVの普及を「系統への脅威」ではなく「系統の安定化リソース」として活用するビジョンが明確です 41

ノルウェーの事例が世界に示す教訓は明らかです。EVの普及は「補助金」というアクセルだけでは達成できません。「インフラ不安の解消」というブレーキを取り除き、V2Gのような「系統統合」というハンドルを正しく操作することこそが、持続可能なEVシフトの必須条件なのです 41

第3章:【鉄道インフラ】「電化」の壁を超える蓄電池と水素

鉄道は、陸上輸送において最もエネルギー効率が高く、CO2排出量の少ないモードです 42。その脱炭素化は、世界的な喫緊の課題となっています。

3-1. 鉄道脱炭素化の王道:「電化」とその経済的障壁

鉄道の脱炭素化の「王道」は、疑いなく「電化」です 43。架線を敷設し、再生可能エネルギー由来の電力で列車を走らせれば、運用時の排出はゼロになります。IEAのNZEシナリオでも、高頻度で利用される幹線は全て電化されるべきとしています 42

しかし、電化には巨大な経済的障壁が存在します。それは、膨大な初期インフラコストです。特に、交通量の少ないローカル線(非電化区間)において、架線や変電所の建設にかかる費用を運賃収入で回収することは、経済的にほぼ不可能です 42。米国では、貨物鉄道の電化が進まない最大の理由がここにあります 44

この障壁を乗り越えるための、地味ですが実効性のあるソリューションが、米国の研究で提案されています 44。それは、鉄道会社が保有する広大な「線路敷(Right-of-Way: ROW)」の価値に着目した官民パートナーシップです。

電化コストの多くは、高圧送電線の建設と、そのための用地確保(ROW)に関連しています。一方で、電力会社も、再生可能エネルギー発電所(例:郊外の風力・太陽光)から都市部へ電力を送るための「送電網」を敷設したいものの、用地確保に苦慮しています。

両者の利害は一致します。鉄道会社が自社のROWを電力会社に提供し、電力会社がそこに「電力網用の高圧送電線」と「鉄道用の架線」を共同で建設するのです 44鉄道のROWを「交通とエネルギーの複合回廊」として活用することで、鉄道会社は電化コストを劇的に削減でき、電力会社は送電網の敷設ルートを確保できます。これは、電化と再エネ普及という二つの国家目標を同時に、かつ低コストで達成する、極めて合理的なシステム的解決策です。

3-2. 非電化区間の二択:水素列車 vs 蓄電池列車(BEMU)

巨額のコストがかかる全線電化が非現実的なローカル線において、従来のディーゼル列車を置き換える技術として、二つのソリューションが実用化フェーズに入っています。それが「水素燃料電池列車」と「蓄電池列車(BEMU: Battery Electric Multiple Unit)」です 45

ケーススタディ(水素):

フランスのアルストム社が開発した「Coradia iLint」は、世界で初めて商業運転に成功した水素旅客列車です 5。ドイツでの実証運転を経て、すでに複数の路線で営業運転に投入されています 47。水素列車は、大容量の水素タンクを搭載することで、1回の充填で1,175kmといった長距離走行が可能な点が最大の強みです 5。その実績は欧州に留まらず、サウジアラビアなど中東市場への展開も始まっています 5。

ケーススタディ(蓄電池):

BEMUは、2025年現在、急速に導入が進んでいる技術です。シーメンス社 49、アルストム社 51、そしてクロアチアのKONČAR社 52 などが、相次いで新型車両を市場に投入しています。

BEMUの主流な運用方法は、既存の「電化区間」を走行中に架線から電力を得て走行・充電し、「非電化区間」に入ると架線を下げてバッテリー電力で走行する、一種のハイブリッド型です 50。これにより、インフラ投資を最小限に抑えつつ、非電化区間の「ラストワンマイル」をゼロエミッションで走行できます。

技術の使い分け:

水素列車と蓄電池列車は、競合するものではなく、路線の特性に応じて使い分けられる「補完関係」にあります 45。

  • BEMU(蓄電池): 比較的短い非電化区間を走行する場合や、既存の電化インフラを最大限活用できる場合に適しています 45

  • 水素列車: バッテリーではカバーできない長距離の非電化区間を走行する運用に適しています 45

ただし、水素燃料電池は瞬発的な大出力(例:急勾配での加速)が苦手な場合もあり、BEMUと同様にバッテリーを搭載したハイブリッド構成が一般的です 53

3-3. [地味だが実効性ある解]回生ブレーキと「沿線蓄電システム(ESS)」

電化区間における効率化も、脱炭素化の重要な柱です。電車はブレーキをかける際、モーターを発電機として利用し、運動エネルギーを電気エネルギーに変換する「回生ブレーキ」を使用します 54

この「回生電力」は、通常は架線に戻されます。その瞬間に、近くに加速中(力行中)の別の列車がいれば、その電力を消費できます。しかし、タイミングが合わなければ、貴重な回生電力は使い道がなく、抵抗器で熱として捨てられてしまいます。

この無駄をなくすソリューションが「エネルギー貯蔵システム(ESS: Energy Storage System)」の導入です。具体的には、二つの方法があります。

  1. OESS (Onboard ESS): 蓄電池を「車両側」に搭載し、自ら発電した回生電力を貯蔵・再利用する 55

  2. SESS (Stationary ESS): 蓄電池を「地上(駅や変電所)」に設置し、余剰な回生電力を一時的に貯蔵し、他の列車が加速する際に供給する 54

真のシステム最適化は、このESSの導入と、「列車運行ダイヤの最適化」を組み合わせることで達成されます 57AIなどを活用し、ある列車が「ブレーキ(電力発生)」をかけるタイミングと、別の列車が「加速(電力消費)」するタイミングを意図的に同期させるのです 57。同期しきれない電力だけをESSが吸収します。

これにより、電力網から購入する電力量、特にピーク時の最大電力(デマンド)を最小化でき、電力コストと$CO_2$排出量の双方を削減できます 58。これはまさに、鉄道網全体を一つの「スマートグリッド」として運用する試みです。

3-4. ケーススタディ:中国高速鉄道(HSR)網のパラドックス

鉄道の優位性を示す代表例として、中国の高速鉄道(HSR)網が挙げられます。中国政府は、2035年までに総延長15万kmを超える世界最大のHSR網を整備する計画を進めており 59、これは航空や自動車に代わる、低炭素な都市間輸送の基盤と期待されています 60

しかし、2025年近辺の最新の学術研究が、この「常識」に警鐘を鳴らしています 61

複数の都市のデータを分析したある研究 61 によれば、「HSRの利便性向上」が、飛行機や車からの転換による$CO_2$削減効果を上回る「新たな移動需要を誘発」した結果、運輸部門全体のCO_2排出量を増加させた可能性が指摘されています。

これは「リバウンド効果(Jevons Paradox)」と呼ばれる現象の典型例です。つまり、「効率化(低炭素化)が、かえって需要を刺激し、総消費量(総排出量)を増やしてしまう」という罠です。

分析によれば、HSRが便利になったことで、人々はより頻繁に、より遠くへ移動するようになりました(誘発需要)。さらに、排出量増加の内訳を見ると、HSRそのものよりも、HSRの駅へのアクセス(多くは自家用車やタクシー)や、訪問先での移動(道路輸送)の増加が大きく寄与していることが示唆されています 61

このパラドックスが示す本質的な教訓は、「低炭素インフラの構築」は、必ずしも「社会全体の脱炭素化」に直結しない、という厳然たる事実です。

HSRのような低炭素インフラ政策は、それ単体で進めてはなりません。都市計画(駅周辺のコンパクトシティ化、パーク&ライドの整備)や、ラストワンマイルの移動手段(MaaS 62、自転車インフラ 63)と一体で設計・推進しない限り、技術的解決策はその効果を自ら食い潰してしまう危険性を常にはらんでいるのです。

第4章:【海運・港湾インフラ】「Hard-to-Abate」セクターを動かす代替燃料とデジタル化

国際海運は、世界貿易の屋台骨であると同時に、脱炭素化が最も困難な「Hard-to-Abate(削減困難)」セクターの一つです。電化が困難な長距離大型船舶は、根本的な燃料転換を迫られています。

4-1. 港湾(ポート)の脱炭素化:「ショアパワー」と「荷役機器の電化」

海運の脱炭素化は、「港湾(停泊中)」と「船舶(航行中)」の二領域で進められます。まず、港湾での対策は待ったなしです。

ショアパワー(陸上電力供給):

停泊中の船舶は、荷役や船内活動のためにエンジン(補機)を動かし続け、港湾都市の大気汚染とCO_2排出の主要因となっています。これに対し、陸上の電力網から船舶に電力を供給する「ショアパワー(別名:コールドアイロニング)」 64 は、停泊中の排出をゼロにする切り札です。

しかし、その導入は世界的に遅れています。理由は明確です。(1) 港湾側が負担する巨額のインフラ(変電・接続設備)コスト、(2) 船舶側と陸側で電圧や周波数の規格が統一されていない問題、そして (3) 港湾が投資しても、燃料費削減の恩恵を受けるのは船会社である、という「インセンティブの不一致」です 64

荷役機器の電化・水素化:

港湾内でコンテナを移動させる巨大なクレーン(RTG: ゴムタイヤ式ガントリークレーン)やフォークリフト、コンテナ運搬車は、従来ディーゼル駆動でした。これらを「電化(eRTG)」 67 または「水素化」 69 に置き換える動きが世界中で加速しています。特にeRTGは、コスト削減効果も高いため、港湾地上設備の電化における「先行領域」となっています 67。

4-2. 海運(シップ)の脱炭素化:「グリーン回廊」とバンカリングインフラ

航行中の船舶、特に大型コンテナ船やタンカーの電化は現実的ではありません。そのため、代替燃料への転換が必須です 70。現在、有力候補とされているのは「グリーンメタノール」と「グリーンアンモニア」、そして「グリーン水素」です 70

しかし、ここには深刻な「鶏と卵」の問題が存在します。

船会社は、燃料を補給する「バンカリングインフラ」 72 が世界中の港になければ、1隻数百億円もする新燃料船を発注できません。一方で、港湾当局は、実際に新燃料船が寄港するという「確実な需要」がなければ、タンクや供給設備の整備といった巨額のインフラ投資 71 に踏み切れません。

この巨大な膠着状態を打破するために考案された、システム的な解決策が「グリーン・シッピング回廊(Green Shipping Corridors)」です。

これは、世界中の全航路で一斉にインフラを整備するのではなく、特定の「2地点間の主要航路」(例:シンガポール〜ロッテルダム) 74 や、特定の物資(例:豪州〜東アジア間の鉄鉱石) 77 を運ぶ航路にターゲットを絞ります。そして、その航路に関わる政府、港湾、船会社、荷主、燃料供給者がコンソーシアムを組み、集中的に「政策(規制)」「インフラ投資」「新燃料船の投入」を協調して進めるアプローチです 74

リスクを限定した航路で早期に成功事例を作ることで、他の航路への横展開を加速させる狙いがあります。2025年現在、世界ではすでに44以上のグリーン回廊イニシアチブが進行しており 73、海運脱炭素化の主流な戦略となっています。

4-3. [デジタルの解]スマート・グリーンポートと物流最適化

新燃料への転換(グリーン化)には時間がかかります。しかし、デジタル技術による「効率化」は、今すぐにでもCO_2を削減できます。

船舶は港湾に到着しても、荷役の準備遅れやバースの混雑で、港の外で何時間も(時には何日も)待機(「沖待ち」)することが常態化しています。この待機中もエンジンは稼働し、膨大な燃料(とCO_2)が無駄に消費されています。

この無駄を解消するのが、シンガポール 79 やロッテルダム 80 が推進する「スマートポート」戦略です。AI(人工知能)、IoTセンサー、そして「デジタルツイン(物理空間の情報をそっくり仮想空間に再現する技術)」 80 を駆使します。

スマートポートは、船舶の正確な到着時刻(ETA)をAIで予測し 84、その時刻に合わせて荷役作業員、eRTG、そしてコンテナを引き取る陸上トラックの配車まで、港湾オペレーションの全てをシームレスに最適化します 84

シンガポールとロッテルダムが目指すのが、単なる「グリーン回廊」ではなく「グリーン&デジタル回廊」であることは、偶然ではありません 74

デジタルツインで物流プロセスを最適化 80 すれば、船舶の待機時間が限りなくゼロに近づき、港湾全体の燃料消費量と$CO_2$排出量が劇的に減少します 82。さらに、船舶の入港・停泊時間が正確に予測できれば、「ショアパワー」の設備稼働率が最大化され、高価なインフラ投資の採算性も向上します 64

ここから得られる教訓は明確です。港湾の脱炭素化は、「燃料転換(グリーン)」の前に、まず「デジタル化による効率化(スマート)」から始めるべきです。デジタル化は、それ自体が$CO_2$を削減する(82)と同時に、グリーン化投資(ショアパワーや新燃料バンカリング)の効果を最大化する「必須のイネーブラー(実現要因)」なのです。

第5章:【航空・空港インフラ】SAF依存の限界と「次世代インフラ」への挑戦

航空セクターは、運輸部門の中で最も脱炭素化が困難な「Hardest-to-Abate」領域です 3。代替手段がなく、エネルギー密度が極めて高い液体燃料に依存し続ける必要があるためです。

5-1. 2026年の現実解「SAF」:期待とサプライチェーンの隘路

短中期的(〜2030年)な航空業界の脱炭素化のほぼ唯一の解が、「SAF(Sustainable Aviation Fuel:持続可能な航空燃料)」です 3。SAFは、廃食油やバイオマス、あるいは将来的にはCO_2と水素から製造され、従来のジェット燃料と混合して使用できる「ドロップイン燃料」です。

2026年は、このSAFの実装が本格化する年です。欧州連合(ReFuelEU Aviation) 3、英国(2025年に2%の混合義務化) 2、日本(2030年に10%をSAFに置換) 3 など、世界各国でSAFの混合義務化や導入目標が法制化・施行され、その実効性が問われ始めます。

SAFは「ドロップイン」可能とされていますが、既存の空港インフラをそのまま使えるわけではありません。実際には、SAFを輸入・貯蔵し、従来のジェット燃料と正確に混合するための「ブレンディング(混合)施設」の整備や、専用のサプライチェーン 86、そして厳格な品質管理(COA: 品質証明書の発行) 87 が必要となり、空港側には新たなインフラ投資が求められます 88

5-2. [見過ごされる論点]SAFは「万能薬」ではない

各国政府や航空業界はSAFへの期待を急速に高めていますが、学術界や環境専門家からは、その持続可能性に対する深刻な懸念が示されています。

  • 懸念1:土地利用と食料競合 89

    現在のSAFの多くは、パーム油や大豆油といった植物油を原料としています。これらの生産は、貴重な熱帯雨林の破壊や、食料生産との競合を引き起こすリスクがあります 89。

  • 懸念2:絶対的な供給量の不足 2

    廃食油や都市ごみなどを原料とする「第二世代」のSAFは、土地利用の問題はありませんが、原料の発生量が本質的に限られており、世界の航空需要のすべてを賄うことは不可能です 2。

  • 懸念3:法外なコスト 2

    究極のSAFとされる、再生可能エネルギー由来の水素と回収した$CO_2$から製造する「e-fuel(またはPower-to-Liquid: PtL)」は、現時点では技術的にも未成熟であり、製造コストが法外に高いという課題があります 2。

これらの懸念から、SAFは航空業界が「需要の伸び」(3)を維持・正当化するために用いる「技術的なアリバイ(テクノフィックス)」 91 に過ぎないのではないか、という厳しい批判も存在します。SAFの導入努力と同時に、不必要な出張の削減や高速鉄道への転移といった、根本的な「需要抑制策」 3 を組み合わせなければ、航空部門の真の脱炭素化は達成できません。

5-3. 空港の「地上」から始める脱炭素化(No-Regret Moves)

空を飛ぶ航空機(Scope 3排出)の脱炭素化が長期戦となる一方、空港(Scope 1, 2排出)の「地上」には、今すぐにでも実行可能で、経済的合理性もある「No-Regret Moves(後悔しない施策)」が溢れています。

  1. eGSE(電動地上支援機器)の導入

    航空機をゲートまで牽引するプッシュバック・トラクターや、手荷物を運搬するベルトローダーなど、地上支援機器(GSE)の多くはディーゼル駆動です。これらを全て電動化(eGSE)する取り組みが世界中で進んでいます 92。eGSEはCO_2と大気汚染物質を削減するだけでなく、燃料費やメンテナンスコストも大幅に削減できるため 93、空港運営者にとって合理的な投資です。

  2. ネット・ゼロ・エネルギー・ターミナル

    空港ターミナルビルは、それ自体が24時間稼働する巨大なエネルギー消費者です。アトランタ空港 95 やサンフランシスコ空港 96 などでは、ターミナルビルの徹底した省エネ設計(LED化、高効率空調) 95、建物自体への太陽光発電の設置 95、そして天然ガスの使用停止 96 などを組み合わせ、ターミナルビルのエネルギー収支を実質ゼロにする「ネット・ゼロ・エネルギー・ビルディング」 98 を目指す取り組みが主流となっています。

5-4. 2030年代への布石:水素航空機が空港インフラに要求するもの

SAFが2020年代の主役である一方、2030年代以降の空の主役として「水素航空機」 100 および「電動航空機(短距離)」 101 の開発が世界中で進んでいます。

2026年には初の商用飛行が計画され 102、2030年から2035年にかけては、短距離用の次世代航空機が市場に参入すると予測されています 102

この次世代機は、現在の空港インフラの「根本的な変革」を要求します 103。特に水素航空機は、従来のジェット燃料やSAFとは全く異なり、空港内での「液化水素(LH_2)の大量製造・貯蔵」「パイプラインによる輸送」「極低温に対応した特殊な燃料供給システム」といった、全く新しいインフラストラクチャを必要とします 104

ここで、空港運営者は「インフラ投資の二重リスク」という深刻な岐路に立たされます。

2025年から2030年にかけての政策(SAF混合義務化) 3 は、空港に対して「SAF用のブレンディング・貯蔵インフラ」 88 への投資を要求します。しかし、2030年から2035年にかけての技術革新 102 は、「水素供給インフラ」 105 という、全く互換性のない別種のインフラへの巨額投資を要求します。

もし、空港が短期的なSAF対応に過度な投資を行えば、そのインフラはわずか10年程度で次世代の水素インフラに取って代わられ、「座礁資産(Stranded Assets)」と化すリスクを孕んでいます。

したがって、2026年時点での最も賢明な空港戦略は、(1) eGSEの導入 92 やターミナルの省エネ化 98 といった、いかなる未来シナリオでも無駄にならない「No-Regret Moves」に集中投資し、(2) SAFインフラへの投資は最小限かつ柔軟なものに留め、(3) 2035年を見据えた「水素インフラ導入マスタープラン」の策定 105 を並行して進めることであると言えます。

第6章:脱炭素化の「OS」を実装する:AI、データ連携、政策レバー

これまで見てきた道路、鉄道、港湾、空港の変革は、個別に進むものではありません。それら全てのインフラを横断的に支え、最適化する「オペレーティング・システム(OS)」と呼ぶべき基盤の導入が、脱炭素化の成否を分けます。

6-1. 横断的イネーブラー(1):AIとデジタルツインによる物流最適化

交通インフラの上を流れるモノ、すなわち「物流」は、それ自体が$CO_2$排出の主要因です 82。この物流プロセスを根本から効率化する技術が、AIとデジタルツインです 107

サプライチェーンの脱炭素化は、排出してしまった$CO_2$を回収する(CDR)といった「事後処理」よりも、AIによる最適化でそもそも排出を「回避」するアプローチの方が、遥かに効率的かつ経済的です 82

具体的なユースケースは以下の通りです。

  1. AIによるルート最適化: 従来のカーナビゲーションを超え、天候、交通渋滞、車両の積載率、さらには電力価格(EVトラックの場合)までを考慮し、燃料消費(または電力消費)が最小となる最適ルートをリアルタイムで算出します 107

  2. デジタルツインによる排出シミュレーション: 物理的なサプライチェーン全体(工場、倉庫、トラック、船舶)を仮想空間上に「デジタルツイン」として再現 108。輸送モード(例:航空から鉄道へ)や経路を変更した場合にCO_2排出量がどう変化するかを「事前に」シミュレーションし、最も環境負荷の低い物流計画を立案します 107

  3. 動的な再計画: 計画立案後も、AIがリアルタイムデータ(例:港湾での船舶の遅延、高速道路の事故渋滞)を監視し、計画を即座に動的に修正します 82

チュニジアでの実証実験では、AIを導入した物流最適化により、燃料消費量が12〜15%削減されたという報告もあります 82。AIとデジタルツインは、交通インフラの物理的な制約の中で、排出量を最小化する「神経系」として機能します。

6-2. 横断的イネーブラー(2):MaaSとデータ標準化

インフラの脱炭素化には、人々の「行動変容(モーダルシフト)」が不可欠です 17。自家用車での移動を、より低炭素な公共交通、シェアサイクル、徒歩などへ転換してもらう必要があります。

この転換を促す強力なツールが「MaaS(Mobility as a Service)」です 109。MaaSは、鉄道、バス、タクシー、シェアサイクルなど、あらゆる交通手段を一つのスマートフォンアプリ上でシームレスに検索・予約・決済できるサービスです 109

MaaSは、自家用車を所有するよりも「安く、便利で、ストレスがない」移動体験を提供することで、人々の移動手段の選択を自発的に低炭素な方向へと導きます 62

しかし、MaaSの実現には大きな壁があります。それは技術的な壁ではなく、JR、私鉄、バス会社、自治体のコミュニティバスなど、縦割りで分断された交通事業者間の「組織の壁」と「データの壁」です。

MaaSの価値の源泉は「シームレスな体験」 110 にありますが、この体験は、事業者間での「データ連携(相互運用性)」 109 がなければ実現しません。時刻表データ、運行状況データ、そして決済システムがバラバラでは、利用者はアプリを使い分ける手間から解放されません。

この膠着状態を打破する、地味ですが実効性のあるソリューションは、政府が主導して交通データに関する「共通規格(データ標準)」を策定することです 112。そして、公共性の高い交通事業者に対し、標準化された形式での「オープンデータ化」を促す(あるいは義務付ける)ことです 62。データ連携の基盤が整って初めて、民間企業によるMaaSイノベーションが花開きます。また、新たなAI活用を促進するために「規制のサンドボックス」を設置し、イノベーションを後押しすることも有効です 115

6-3. [地味だが最強のレバー]グリーン公共調達 (GPP) と政策ミックス

交通インフラの脱炭素化において、政府や自治体は「規制者」であると同時に、最大の「発注者」でもあります 116。この「発注者」としての力を活用する政策が、「グリーン公共調達(GPP: Green Public Procurement)」です 117

GPPとは、政府が道路、橋、鉄道、公共施設などを発注(入札)する際に、従来の「価格」だけで落札者を決めるのではなく、「ライフサイクルCO_2排出量」 24 や「リサイクル素材の使用率」 19 といった環境性能基準を仕様書に盛り込む手法です 116

この政策の威力は絶大です。低炭素コンクリートや再生アスファルトといった革新的な技術 13 は、当初はコストが高く、市場で競争力がありません。しかし、GPPによって政府が「確実な初期需要」を創出することで、企業は安心して量産化投資に踏み切れます 24。GPPは、市場全体をグリーン化する、最も強力な「需要創出型」の政策レバーなのです。

ただし、GPPの導入には「コスト増への懸念」や「調達担当者の環境技術に関する知識不足」という現実的な障壁があります 116。このため、GPPを専門的に支援する技術者チームの設置 119 や、EUレベルでの明確なガイダンス策定 24 が、その実効性を高めるために不可欠となります。

6-4. 行動変容を促す「ナッジ」と「フィーベート」

インフラ(ハード)を整えるだけでは、人々の行動(ソフト)は変わりません 17。行動変容を促すためには、より洗練された政策が必要です。

  • ナッジ(Nudge):

    行動経済学に基づき、人々が自発的に望ましい行動(例:公共交通の利用)を選ぶよう「そっと後押しする」手法です 120。例えば、アプリで「車ではなく自転車を使えば、これだけの健康効果(カロリー消費)がある」と可視化する(ゲイン・ナッジ) 121、あるいは「あなたの移動によるCO2排出量は、他の市民の平均より多い」と社会規範に訴えかける(規範ナッジ) 122 などが有効とされています。

  • フィーベート(Feebate):

    より強力な「アメとムチ」の政策です 124。$CO_2$排出量の多い車(例:大型SUV)の購入者からは「フィー(Fee:課徴金)」を徴収します。そして、その徴収した税収を原資として、CO_2排出量の少ない車(例:EV)の購入者に「リベート(Rebate:補助金)」を給付する制度です 124。

  • 効果:

    フィーベート制度は、政府の追加財源を必要としない「税収中立」 124 で設計できるため、炭素税 125 などに比べて政治的な導入抵抗が低いという大きな利点があります。それでいて、消費者の車両購入の選択を、市場メカニズムを通じて強力に低炭素な方向へ誘導することができます 127。

第7章:【日本への提言】「系統制約」こそが日本の脱炭素化の「根源的課題」である

これまで詳述してきた世界の交通インフラ脱炭素化の潮流は、日本の状況を映し出す鏡でもあります。このグローバルなシステム分析の視点に立つとき、日本の脱炭素化と再エネ普及を阻む「根源的課題」が、鮮明に浮かび上がってきます。

7-1. 日本が直面する二重の制約:「系統」と「インフラコスト」

日本が直面する課題は二つあります。

1. 系統制約(電力網の制約) 10

第一の課題は、電力系統の脆弱性です。九州や東北、北海道といった再エネ資源の豊富な地域で太陽光発電や風力発電の導入が急速に進みましたが、発電した電力を大消費地(都市部)へ送るための「送電網の容量が不足」しています 11。

その結果、何が起きているか。皮肉なことに、晴天の昼間など、再エネ発電がピークを迎える時間帯に電力が「余って」しまい、系統の需給バランスを保つため(同時同量)、発電したばかりのクリーンな電気を強制的に停止させる「出力制御」が頻発しています 128。2023年度のゴールデンウィーク期間中には、九州エリアで需要の7割以上を再エネが占める時間帯も発生し、大規模な出力制御が実施されました 129

これは本質的に「再エネが多すぎる」のではありません。「再エネの出力変動に合わせて、需要側が柔軟に変化できない」、すなわち「需要側の柔軟性(フレキシビリティ)」が致命的に不足している問題です。

2. インフラコストの障壁 130

第二の課題は、インフラの建設コストです。特に、次世代の主力電源として期待される「洋上風力発電」において、日本は欧州に比べて建設コストが著しく高いという現実に直面しています 130。

その原因は、遠浅の海が少ないという地理的条件に加え、巨大な風車を組み立て、沖合まで運搬するために必要な「港湾インフラ(強固な岸壁、広大な資材ヤード)」が、国内に致命的に不足しているためです 130

7-2. [本質的な解決策]交通インフラを「巨大な調整弁」として活用せよ

ここで、システム思考のレンズを通して、これら二つの課題を眺めてみましょう。

(A) 「電力系統の不安定性(昼間に再エネ電力が余る)」 11

(B) 「交通インフラの脱炭素化(EV、鉄道、港湾が大量の電力を必要とする)」 25

これらは、個別に対処すべき「二つの問題」ではありません。互いが互いの「解決策」となる、「一つのシステム課題」です。

日本のエネルギーインフラの課題(A)は、「昼間の余剰電力」をどう処理するか、です 11。

日本の交通インフラの課題(B)は、「脱炭素化のために、大量のクリーンな電力をいつ、どのように確保するか」、です。

答えは明白です。電化された交通インフラは、電力需要を「創出」すると同時に、V2G(車載蓄電池) 30 やSESS(沿線蓄電池) 56 によって、電力を「貯蔵・調整」する能力を持ちます。

日本の交通インフラは、「電力系統を安定させるための、日本最大の調整弁(バッファ)」として機能すべきなのです。

7-3. 日本のための実効性ある処方箋

このシステム的解決策を実装するために、以下の3つの具体的な処方箋を提言します。

  • 処方箋(1)「V2G特区」の創設(道路×エネルギー)

    出力制御が慢性化している九州電力・東北電力管内 11 を「V2G・VGI戦略特区」に指定します。

    この地域において、V2G対応EV 31 および双方向充放電器 27 の導入に、国の予算を集中投下します。

    そして、「昼間の余剰電力(出力制御対象電力)」をEVオーナーが安価(あるいは無料)で充電できる特別な電力料金プランを創設します。オーナーは、その電力を夕方の電力ピーク時に系統に「放電(売電)」する 32 ことで、インセンティブ(利益)を得られる制度設計 35 を導入します。これにより、EVが系統安定化に貢献するビジネスモデルを確立します。

  • 処方箋(2)「エネルギー複合港湾」の構築(港湾×エネルギー)

    洋上風力発電の導入 130 と、港湾の脱炭素化 69 を、個別のプロジェクトとしてではなく「一体」で計画します。

    洋上風力で発電した電力(あるいは系統制約で余った電力)を活用し、港湾の敷地内で「グリーン水素」を製造(電解)します 69。

    その水素を、(a) 港湾荷役機器(水素RTG、水素トラック)69、(b) 周辺の工業地帯(コンビナート)、(c) 将来の水素燃料船のための「バンカリングインフラ」 71 に供給します。

    これにより、港湾は単なる「物流拠点」から、地域の「エネルギーハブ」へと進化します。洋上風力の建設インフラ問題 130 と、水素の需要・供給インフラ問題を同時に解決するアプローチです。

  • 処方箋(3)「鉄道網のスマートグリッド化」(鉄道×エネルギー)

    交通量の少ないローカル線(非電化区間)の脱炭素化 45 と、沿線の再エネ導入を連携させます。

    沿線の休耕地などに設置された太陽光発電所からの電力を、脆弱な電力系統 10 を介さず、蓄電池列車(BEMU) 52 や駅に設置された沿線蓄電システム(SESS) 56 に直接充電するシステムを構築します。

    これは、鉄道網自体が、電力系統から半ば独立した「自立型のマイクログリッド」として機能することを意味します。系統に負荷をかけずに、地域の再エネと交通の脱炭素化を両立させる解です。

7-4. 結論:インフラは「繋がる」ことで脱炭素化の真価を発揮する

日本の脱炭素化と再エネ普及を阻む根源的課題は、技術の不足ではなく、制度の「縦割り」です。エネルギーインフラ(経済産業省)と交通インフラ(国土交通省)が、今なお別々に計画・最適化されています。

2026年以降、この二つのインフラを「融合」させ、V2G、水素ハブ、鉄道マイクログリッドといった形で「繋げる」こと。そして、システム全体で最適化を図ること。それこそが、日本の脱炭素化を加速させる、唯一にして最大のレバレッジ・ポイント(最も影響力の高い介入点)です。

第8章:総論と未来への展望

2026年現在、私たちが目の当たりにしているのは、交通インフラの「脱炭素化」という名の「システム再構築」です。これは単なる燃料の置き換えではありません。インフラの役割そのものの再定義です。

道路は、単に車両を走らせる路面から、V2Gによって「送配電網」の一部へと進化します 27。

港湾は、単に貨物を積み替える場所から、水素と再エネの「エネルギーハブ」へと進化します 69。

鉄道は、単に人を運ぶ輸送機関から、ESSによって「自立型マイクログリッド」へと進化します 56。

そして、AIとデジタルツインが、これら全てをリアルタイムで協調させる「神経系」として機能し、システム全体の効率を最大化します 80

このシステム転換の本質は「融合」にあります。交通インフラとエネルギーインフラの融合 44、物理的なハードウェアとデジタルなソフトウェアの融合 80、そして効率化を促す政策(GPP)と人々の行動を導く仕組み(ナッジ)の融合 24 です。

この巨大なシステムシフトの必然性を理解し、部門間の壁を超えて「融合」を設計・実装できる国、自治体、そして企業こそが、21世紀後半の「グリーン経済」の勝者となるでしょう。

第9章:交通インフラ脱炭素化に関するFAQ(よくある質問)

Q1: 交通インフラの「エンボディド・カーボン」とは何ですか? なぜ重要ですか?

A1: エンボディド・カーボン(内包炭素)とは、道路、橋、鉄道、港湾、空港といったインフラを「建設」する際に排出される$CO_2$のことです 12。セメントや鉄鋼、アスファルトの製造には大量のエネルギーが必要なため 13、この排出量は膨大です。電気自動車(EV)を普及させて走行時の$CO_2$(オペレーショナル・カーボン)をゼロにしても、そのEVが走る道路の建設・保守で大量の$CO_2$を排出すれば、ライフサイクルアセスメント(LCA) 15 の観点では真の脱炭素化とは言えません。豪州の「Recycled First Policy」 19 のように、リサイクル素材の活用 21 で建設時の$CO_2$を削減することが、運用時の$CO_2$削減と同様に重要となっています。

Q2: V2G(Vehicle-to-Grid)のメリットと実用化の課題は何ですか?

A2: V2Gは、EVのバッテリーから電力網へ電気を「逆潮流(放電)」させる技術です 27。最大のメリットは、数百万台のEVが「走る蓄電池」 31 となり、電力網の需給バランスを安定させることです。特に、太陽光発電などが余剰となる昼間にEVが電力を吸収し、需要が高まる夕方に電力を供給(売電) 32 することで、再生可能エネルギーの「出力制御」 11 を減らし、高価な大型蓄電池の設置を代替できる可能性があります 33。2025年時点での課題は、(1) 自動車メーカー、電力会社、充電器メーカー間での通信規格や認証プロセスの統一 36、(2) 放電によるバッテリー劣化への懸念、(3) EVオーナーが参加するメリット(インセンティブ)の制度設計 32 です。

Q3: 水素列車と蓄電池列車(BEMU)、どちらが優れていますか?

A3: どちらが優れているかではなく、「適材適所」です 45。蓄電池列車(BEMU)は、エネルギー効率が高く、既存の電化区間(架線)で走行しながら充電できるため、比較的短い非電化区間 45 や、駅での急速充電が可能な路線に適しています 52。一方、水素列車(例:アルストム社Coradia iLint)は、大容量の水素をタンクに搭載し、1回の充填で1,000km以上の長距離走行が可能なため 5、長距離の非電化区間での運用に適しています 45。両者は競合ではなく、路線の特性に応じて使い分けられる補完関係にあります。

Q4: SAF(持続可能な航空燃料)だけで航空業界は脱炭素化できますか?

A4: できません。SAFは2030年までの短中期的には最も重要な脱炭素化手段です 3。しかし、(1) 廃食油など持続可能な原料の「供給量が絶対的に不足」 2 しており、(2) パーム油などのバイオ燃料は食料競合や森林破壊のリスク 89 があり、(3) 再エネ由来のe-fuelは「コストが非常に高い」 2 という深刻な課題があります。SAFは「テクノフィックス」(技術万能主義) 91 の側面があり、航空需要の抑制策 3 や、空港地上設備の電化(eGSE) 92、そして2035年以降の水素航空機 102 など、多層的なアプローチが不可欠です。

Q5: 日本の脱炭素化が遅れている根本的な理由は何ですか?

A5: 本稿の分析によれば、根源的な課題は「電力系統の制約」 10 と、それに伴う「再エネ普及の遅れ」にあります。日本は、再エネ(特に太陽光)が普及するほど、送電網の容量不足から「出力制御(発電停止)」 128 が頻発するというジレンマに陥っています。この「余剰電力問題」を解決する鍵が、本稿で詳述した「交通インフラの電化」です。EVをV2G 27 で蓄電池として活用し、鉄道 56 や港湾 69 をエネルギーバッファとして利用するなど、交通インフラとエネルギーインフラを「融合」させるシステム思考 44 こそが、日本の脱炭素化を加速させる本質的な解決策となります。

第10章:交通インフラ脱炭素化のモード別・時間軸別ロードマップ (2026-2035)

領域 短期 (2026-2030) 中期 (2030-2035+)
道路インフラ

EV充電網の全国整備(特に集合住宅) 25

V1G(スマート充電)の実装・義務化 28

動的ワイヤレス充電(DWPT)の公道実証 4

V2G(双方向充放電)の本格普及と市場化 27

物流ハイウェイへのDWPT導入開始 38

鉄道インフラ

BEMU(蓄電池列車)の導入拡大(非電化区間) 49

回生エネルギー用ESS(沿線蓄電)の設置 56

水素列車(Coradia iLint等)の商業運転拡大 5

ROW(線路敷)共有による幹線電化の促進 44

鉄道網向け水素供給インフラの整備

海運・港湾

グリーン回廊の運用開始(例:シンガポール-ロッテルダム) 74

スマートポート化(AI物流最適化)の推進 80

荷役機器(eRTG)の電化・水素化 67

主要港湾でのショアパワー設置義務化 64

グリーンメタノール/アンモニア燃料船の本格導入 71

主要ハブ港での代替燃料バンカリングインフラ整備 73

航空・空港

SAF混合義務化の開始(2-10%) 2

eGSE(電動地上支援機器)の全面導入 92

ネット・ゼロ・エネルギー・ターミナルの建設 98

水素航空機(短距離)の商用化 102

空港における液化水素インフラの建設開始 105

SAF(特にe-fuel)の供給拡大

横断基盤(デジタル)

MaaSの都市部での本格展開 111

交通・物流データ標準化とオープンデータ化 112

AIによるサプライチェーン最適化(排出回避) 106

全国レベルでのMaaSと物流デジタルツインの統合 80

横断基盤(政策)

GPP(グリーン公共調達)の強化(リサイクル材・LCA基準) 24

フィーベート(Feebate)制度の導入 124

V2G参加へのインセンティブ設計 32

炭素税の導入拡大(フィーベートとの併用) 126

行動変容を促すナッジ政策の本格化 120

第11章:ファクトチェック・サマリー

本記事で提示した主要な事実、統計、および分析(IEAのNZEシナリオ目標 7、各国の政策導入年(例:英国SAF義務化 2025年 2)、主要なケーススタディ(例:ノルウェーEV普及率 2024年 89% 39、中国HSRのリバウンド効果 61、アルストム社Coradia iLintの走行記録 5)、およびV2G 27、水素 131、SAF 88 の技術的特徴と課題 2、日本の系統制約 10)は、記載された出典(IEA、IPCC、OECD、各国政府報告書、主要学術論文、業界レポート)に基づき、2025年現在の最新情報として検証済みです。

第12章:出典(リファレンス)

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著者情報

国際航業株式会社カーボンニュートラル推進部デジタルエネルギーG

樋口 悟(著者情報はこちら

国際航業 カーボンニュートラル推進部デジタルエネルギーG。環境省、トヨタ自働車、東京ガス、パナソニック、オムロン、シャープ、伊藤忠商事、東急不動産、ソフトバンク、村田製作所など大手企業や全国中小工務店、販売施工店など国内700社以上・シェアNo.1のエネルギー診断B2B SaaS・APIサービス「エネがえる」(太陽光・蓄電池・オール電化・EV・V2Hの経済効果シミュレータ)のBizDev管掌。再エネ設備導入効果シミュレーション及び再エネ関連事業の事業戦略・マーケティング・セールス・生成AIに関するエキスパート。AI蓄電池充放電最適制御システムなどデジタル×エネルギー領域の事業開発が主要領域。東京都(日経新聞社)の太陽光普及関連イベント登壇などセミナー・イベント登壇も多数。太陽光・蓄電池・EV/V2H経済効果シミュレーションのエキスパート。Xアカウント:@satoruhiguchi。お仕事・新規事業・提携・取材・登壇のご相談はお気軽に(070-3669-8761 / satoru_higuchi@kk-grp.jp)

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