目次
経済効果とは?経済波及効果とは? 経済効果・経済波及効果の科学と計算式、イシューを徹底解説
2025年。経済効果を理解することがなぜ重要なのか?
2023年2月、日本政府は「GX実現に向けた基本方針」を閣議決定し、今後10年間で150兆円超の官民GX(グリーン・トランスフォーメーション)投資を実現するという壮大な目標を掲げました
これらの数字は、政策の規模と野心を示す上で強力なメッセージとなります。
しかし、この「経済効果」という言葉が具体的に何を意味し、どのように算出されているのかを正確に理解している人は多くありません。東京オリンピックの経済効果が30兆円と報道されたり
経済効果の数値は、政策決定、企業投資、地域活性化の正当性を裏付けるための重要な根拠として用いられます。しかし、その算出方法や解釈を誤れば、資源の非効率な配分を招き、社会的な機会損失につながるリスクもはらんでいます。特に、GXのような国家の未来を左右する大規模な構造転換においては、その経済的インパクトを科学的かつ多角的に評価する能力が、国や企業の競争力を決定づけると言っても過言ではありません。
本レポートは、2025年現在の最新の知見に基づき、「経済効果」という言葉の曖昧さを排し、その科学的本質を徹底的に解き明かすことを目的とします。
単なる用語解説に留まらず、経済効果を構成する要素の分解、その計算を支える数理モデルの解説、そしてイベント、公共事業、GX政策といった多様な領域における具体的な分析事例までを網羅します。さらに、応用一般均衡(CGE)モデルのような高度な分析手法や、経済効果測定に潜む過大評価の罠、非市場的価値の評価といった専門的な論点にも踏み込みます。
本稿を読み終える頃には、読者の皆様は経済効果に関する世界最高水準の理解を手にし、報道やレポートで提示される数値を鵜呑みにするのではなく、その妥当性を批判的に吟味し、より賢明な戦略的意思決定を下すための確かな知性を獲得していることでしょう。
第1章 経済的影響の科学:波及効果の分析
経済効果という概念を科学的に理解するためには、まずその定義と構造を正確に把握する必要があります。それは単なる「お金が儲かる」といった漠然としたイメージではなく、ある経済活動が引き金となり、経済全体に連鎖反応(波紋)が広がっていくプロセスを定量的に捉える分析手法です。
1.1. 経済効果とは何か?流行語を超えた明確な定義
経済効果とは、あるイベントの開催、新規の投資、政策の実施などによって新たな需要が発生し、その需要を満たすために生産活動が連鎖的に誘発される現象、およびその効果を金額で示したものを指します
一般的に「経済効果」という言葉は広範な意味で使われますが、本稿では特に、この科学的に測定可能な「経済波及効果」に焦点を当てて解説を進めます。この効果は、特定の事象が地域や国の経済にどれだけのプラスの影響をもたらすかをシミュレーションし、金額で示すことで、政策やイベントの価値を客観的に評価するための重要な指標となります
1.2. 影響の3つの段階:直接的影響、間接的影響、誘発的影響
経済波及効果は、その発生メカニズムの違いから、国際的にも認知された3つの階層に分解して分析されます。それが「直接効果」「間接効果」「誘発効果」です
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直接効果 (Direct Effect)
これは、分析対象となるイベントや投資によって直接的に生み出される支出や生産額そのものを指します 9。例えば、ある自治体に新しい自動車工場が建設される場合、その建設にかかる費用や、工場が稼働して生産する自動車の価値が直接効果に該当します。観光イベントであれば、観光客が宿泊施設や飲食店、土産物店で直接支払う消費額がこれにあたります 8。これは経済波及の出発点となる、最も直感的で分かりやすい効果です。
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間接効果 (Indirect Effect / 日本語では「1次波及効果」とも呼ばれる)
間接効果は、直接効果によって発生した生産活動が、サプライチェーンを通じて他の産業に及ぼす影響です 9。自動車工場が自動車を生産するためには、鉄鋼、プラスチック部品、電子機器、電力など、様々な原材料やサービスを他の企業から購入する必要があります。これにより、鉄鋼業、化学工業、電機産業といったサプライヤーの生産が誘発されます。さらに、そのサプライヤーもまた、自社の生産のために別のサプライヤーから原材料を調達します。このように、企業間の取引(BtoB)が連鎖的に発生していく効果が間接効果です 7。
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誘発効果 (Induced Effect / 日本語では「2次波及効果」とも呼ばれる)
誘発効果は、直接効果および間接効果によって新たに生み出された雇用や所得が、家計の消費支出を通じてさらに経済全体に広がる効果を指します 9。自動車工場やそのサプライヤーで働く従業員は、給与(雇用者所得)を得ます。彼らがその所得を使って、地域のスーパーで食料品を買ったり、レストランで食事をしたり、娯楽サービスを利用したりすることで、小売業やサービス業など、さらに多様な産業の売上が増加します。この「所得から消費へ」という循環によって生まれる波及効果が誘発効果です 7。
ここで注意すべきは、日本国内の資料における用語の使われ方です。国際標準では「Indirect Effect」と「Induced Effect」が明確に区別されますが、日本の行政資料などでは「間接効果」という言葉が、サプライチェーン効果(Indirect)のみを指す場合と、サプライチェーン効果と所得消費効果(Induced)の両方を含んだ総称として使われる場合があります
誘発効果の大きさは、その地域で生み出された付加価値(特に賃金)が、いかに効率的に地域内で再循環しているかを示す指標とも言えます。誘発効果が大きいということは、単に雇用が創出されただけでなく、そこで働く人々が地域内で活発に消費活動を行っていることを意味し、地域経済全体の豊かさにつながる重要な要素です。
以下の表は、これら3つの効果の定義と関係性を整理したものです。
効果の種類 | 国際標準用語 | 日本の主な用語 | 定義 | 「新工場建設」の例 |
直接効果 | Direct Effect | 直接効果 | イベントや投資によって直接的に発生する初期の支出・生産。 | 工場の建設費、工場が生産する製品の売上。 |
間接効果 | Indirect Effect | 1次波及効果、間接波及効果 | 直接効果を満たすために必要な、サプライチェーン(企業間取引)を通じて連鎖的に発生する生産。 | 工場が購入する鉄鋼、部品、電力などの生産。 |
誘発効果 | Induced Effect | 2次波及効果、所得誘発効果 | 直接・間接効果によって増加した雇用者所得が、消費されることで新たに発生する生産。 | 工場やサプライヤーの従業員が給与で行う飲食、買い物など。 |
第2章 経済波及効果と産業連関分析の解明
経済波及効果という複雑な連鎖反応を、どのようにして具体的な数値として算出するのでしょうか。その分析の心臓部となるのが、「産業連関分析(Input-Output Analysis)」と呼ばれる手法です。このセクションでは、その仕組みと計算のロジックを解き明かしていきます。
2.1. 経済の「地図」:産業連関表の読み方
産業連関分析の基礎となるのが、「産業連関表(Input-Output Table)」です
産業連関表は、タテ(列)とヨコ(行)の二つの方向から読み解くことができます
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ヨコ(行)方向の見方:「産出(Output)」
各行は、その産業が生産した財・サービスが「どこに販売されたか(販路構成)」を示します 16。例えば、「輸送用機械」産業の行を見れば、生産された自動車が、他の産業(例:運輸業)に原材料としてどれだけ販売され(中間需要)、家計や政府、企業に最終製品としてどれだけ販売され(最終需要)、そして海外にどれだけ輸出されたかが分かります。
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タテ(列)方向の見方:「投入(Input)」
各列は、その産業が生産活動を行うために「何をどれだけ購入したか(費用構成)」を示します 16。同じく「輸送用機械」産業の列を見れば、自動車を1単位生産するために、鉄鋼業から鉄を、化学工業から塗料を、そして労働市場から労働力をどれだけ購入したかが分かります。この購入費用は「中間投入」と、人件費や利益などの「粗付加価値」に分けられます。
この表の根幹をなす原理は、各産業において「投入(列の合計)=産出(行の合計)」となる会計上の恒等式です
2.2. 計算エンジン:入力係数とレオンチェフ逆行列
産業連関表という経済の地図を手に入れたら、次はその地図を使って波及効果を計算するエンジンを理解する必要があります。それが「投入係数」と「レオンチェフ逆行列」です。
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投入係数 (Input Coefficients)
投入係数とは、ある産業が1単位の生産を行うために、各産業からどれだけの原材料やサービスを直接的に投入する必要があるかを示した比率です 6。これは、各産業の「生産レシピ」と考えることができます。例えば、「輸送用機械」産業の生産額が1兆円で、そのために「鉄鋼」業から500億円分の鋼材を購入した場合、「輸送用機械」産業の「鉄鋼」に対する投入係数は となります
。この係数を全産業について計算し、一覧にしたものが「投入係数表」です。11 -
レオンチェフ逆行列 (Leontief Inverse Matrix)
これが経済波及効果分析の核心部分です。投入係数が「直接」必要な原材料の量を示すのに対し、レオンチェフ逆行列は、最終的な需要が1単位増加したときに、直接的・間接的な波及効果のすべてを含めて、各産業の生産が「最終的に」どれだけ増加するかを計算した係数です 6。
概念的には、「波及効果の総量をあらかじめ計算しておいた電卓」のようなものです。例えば、政府が公共事業で100億円の道路を建設するという「最終需要」が発生したとします。この100億円という数値をレオンチェフ逆行列にかけるだけで、道路建設のために直接必要なセメントや鉄鋼の生産増(1次波及)だけでなく、そのセメント工場で使われる電力の生産増(2次波及)、さらにその発電所で使われる燃料の生産増(3次波及)…といった連鎖のすべてを合計した、経済全体で必要となる総生産誘発額を瞬時に算出できるのです
。11 数式で表すと、経済波及効果の基本式は以下のようになります。
ここで、
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: 各産業の総生産額ベクトル
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: 各産業への最終需要ベクトル(例:公共投資、観光消費など)
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: 投入係数行列(各産業の生産レシピ)
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: 単位行列
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: レオンチェフ逆行列
このレオンチェフ逆行列 は、実は数学的に という無限級数に展開できます
。この数式は単なる数学的な表現ではなく、経済波及のプロセスそのものを美しく描き出しています。21 -
: 最終需要 を満たすための最初の生産(直接効果)
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: その生産に必要な第1ラウンドの原材料投入(1次波及効果の最初の波)
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: 第1ラウンドのサプライヤーが必要とする第2ラウンドの原材料投入(1次波及効果の第2の波)
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: 以下同様に、波及効果が経済全体に行き渡るまで続く…
レオンチェフ逆行列は、この無限に続く波紋の総和を、一つの行列として見事に計算してくれるのです。
ただし、この産業連関表は特定の年(例えば日本では2015年版が広く使われている)の経済構造をスナップショットとして捉えたものです。DX(デジタルトランスフォーメーション)やGXのように経済構造が急速に変化する現代において、古い産業連関表を使い続けると、新しい産業の実態を正確に反映できず、分析結果に誤差が生じる可能性があるという限界も内包しています。
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2.3. マクロ経済のつながり:乗数効果
産業連関分析がミクロな産業レベルでの波及メカニズムを解明するのに対し、マクロ経済学には古くから「乗数効果(Multiplier Effect)」という概念が存在します
この理論は、ジョン・メイナード・ケインズによって発展させられたもので
ここで、cは「限界消費性向」と呼ばれ、増加した所得のうち消費に回される割合を示します。例えば、限界消費性向が0.8(増えた所得の80%を消費に回す)の場合、乗数は 1/(1−0.8)=5 となります。これは、政府が1兆円の公共事業を行えば、その支出が人々の所得となり、それが消費され、さらに次の人の所得となり…という連鎖を経て、最終的に国民所得が5兆円増加することを意味します 26。
産業連関分析は、このマクロ的な乗数効果を、産業部門ごとにより詳細かつ具体的に計算していると考えることができます。ある産業への需要が他のどの産業にどれだけ波及するかを計算するレオンチェフ逆行列は、いわば産業部門別の精緻な乗数の一覧表なのです。
第3節:経済効果の実践:主要分野における分析
理論と計算モデルを理解したところで、次にそれらが現実の社会でどのように活用されているのか、具体的な事例を通じて見ていきましょう。イベント・観光から公共インフラ、そして国家戦略であるGXまで、様々な領域で経済効果分析が意思決定の重要な材料となっています。
3.1. イベントと観光:スペクタクルと訪問者の経済学
経済効果分析が最も頻繁に用いられる分野の一つが、大規模イベントや観光です。これらの活動は、地域外から人やお金を呼び込み、地域経済に直接的なインパクトを与えるため、分析対象として非常に適しています。
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Case Study: Tokyo Olympics
東京2020オリンピック・パラリンピックは、その経済効果が様々な機関によって試算されました。分析では、競技施設や選手村の建設、大会運営費といった「直接的効果」に加え、大会開催を契機としたインフラ整備や観光振興、技術革新などがもたらす「レガシー効果」や「付随効果」といった多様な側面が考慮されました 27。例えば東京都の試算では、直接的効果が約2兆円、レガシー効果が約12兆円と推計されています 28。これらの試算は、産業連関表を用いて、施設整備や大会運営、観客の消費支出などが、建設業、サービス業、運輸業など、国内の様々な産業にどのように波及していくかを定量化したものです 29。
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Case Study: Inbound Tourism
訪日外国人旅行(インバウンド観光)もまた、日本経済に大きな影響を与える要素です。経済産業省が2019年のデータを基に行った産業連関分析によると、訪日外国人による旅行消費額4.8兆円がもたらした経済波及効果の総額は、生産誘発額ベースで約7.8兆円に達しました 31。これは、消費額の1.75倍の経済活動が国内で新たに生み出されたことを意味します。
この分析の興味深い点は、国・地域別の消費パターンの違いが、波及効果の内訳に明確に現れることです。例えば、消費額に占める「買物代」の割合が50%を超える中国人観光客の場合、「商業」部門への波及効果が非常に大きくなります。一方で、買物代の割合が低い米国人観光客では、商業への波及は比較的小さくなります
。このように、経済効果分析は、単に総額を算出するだけでなく、どのような消費がどの産業に恩恵をもたらすのかを詳細に可視化する力を持っています。31
3.2. 公共インフラ:新幹線の長期的価値の測定
道路、鉄道、港湾といった大規模な公共インフラ整備の評価においても、経済的な分析は不可欠です。しかし、ここで用いられる主要な手法は、これまで見てきた経済波及効果分析とは少し異なります。
公共インフラプロジェクトの評価で中心となるのは、「費用便益分析(Cost-Benefit Analysis, CBA)」です
例えば、北海道新幹線の札幌延伸事業に関する分析では、鉄道延伸によって生じる便益が約5,600億円であるのに対し、建設費用が約9,000億円かかり、費用便益分析の結果としては約3,400億円の損失が生じると結論付けられた事例があります
経済波及効果分析が「どれだけの経済活動(カネの流れ)が生まれるか」を測るのに対し、費用便益分析は「その投資は社会全体にとって費用に見合う価値があるか」を問います。両者は補完的な関係にありますが、答える問いが根本的に異なるため、その違いを理解しておくことが極めて重要です(この点についてはSection 4で詳述します)。
3.3. 日本のGX:150兆円規模の目標を分析する
現在、日本が国を挙げて取り組む最重要課題が、GX(グリーン・トランスフォーメーション)です。これは、2050年カーボンニュートラルの国際公約達成、エネルギー安全保障の強化、そして新たな経済成長の実現を同時に目指す、産業・社会システム全体の変革です
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Analyzing the Projections
GX政策を巡っては、いくつかの巨大な経済数値が示されています。
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150兆円の官民投資: これは、今後10年間でGXを実現するために必要とされる投資目標額、つまり経済分析における「投入(インプット)」です
。2 -
290兆円の経済効果: これは、GXを推進するための「グリーン成長戦略」が完全に実現した場合に、2050年時点で見込まれる経済効果、つまり「産出(アウトプット)」の試算です
。4
ここで専門家として注目すべきは、後者の「290兆円」という数値の算出根拠です。政府の資料によると、この数値は「企業からのヒアリング等を通じて得られた今後の市場規模予測や輸出拡大等を積み上げて試算」したものであり、「新製品・サービスの創出によって生じ得るマイナス影響は考慮されていない」と明記されています
。5 これは、厳密な産業連関分析や後述するCGE分析とは異なるアプローチです。産業連関分析が経済全体の相互依存関係を考慮して純粋な波及効果を計算するのに対し、この試算は将来成長が見込まれるグリーン関連市場の「潜在的な市場規模」を合計した性格が強いと言えます。例えば、再生可能エネルギー市場が拡大する一方で、縮小を余儀なくされる化石燃料関連産業のマイナス影響が相殺されていないため、国全体の純粋な付加価値増加額(ネットの経済効果)を測るというよりは、産業構造の転換によって生まれる新たなビジネスチャンスの大きさを示したものと解釈するのが適切です。この方法論の違いを理解することは、政策目標の数値を正しく評価する上で極めて重要です。
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Case Study: Offshore Wind Power
GXがもたらす経済効果を具体的に理解するために、その中核分野の一つである洋上風力発電を見てみましょう。ある試算によれば、日本の洋上風力発電の導入は、2050年までの累積で34兆円を超える経済波及効果を生み出し、導入のピーク時には年間約7万人の雇用を創出する可能性があるとされています 38。
この分析は、GXが単なる環境対策ではなく、巨大な産業創出と雇用機会をもたらす経済政策であることを示しています。しかし、同時に重要な課題も浮き彫りにします。それは、この巨大な経済的果実を、いかにして日本国内に最大限取り込むかという問題です。
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Identifying Core Challenges: The “Leakage” Problem
洋上風力発電所の建設を例にとると、風車やブレード、海底ケーブルといった主要な設備や、建設に必要な専門技術を海外からの輸入に頼った場合、建設投資という「直接効果」の多くが海外に流出してしまいます。これを経済学では「リーケージ(漏出)」と呼びます。国内のサプライヤーへの発注(間接効果)や、国内での雇用(誘発効果)を最大化するためには、国内のサプライチェーンを育成し、部材やサービスの国内調達率を高めることが不可欠です。
政府が「2040年までに国内調達比率60%」という目標を掲げているのは
、まさにこのためです。この目標は単なる産業政策の数値ではなく、GX投資の経済効果が真に日本の成長につながるかどうかを左右する、決定的に重要な変数なのです。同様に、専門知識を持つ技術者や作業員といった人材の育成も、国内で付加価値を生み出すための喫緊の課題となっています38 。38
第4章 基礎を超えて:高度なモデルと批判的視点
これまで見てきた産業連関分析は、経済波及効果を測定するための強力な基本ツールです。しかし、現実の経済はより複雑であり、特に大規模な政策変更を分析する際には、その限界も明らかになります。このセクションでは、より現実に近い分析を可能にする高度なモデルや、経済効果とは異なる視点からの評価手法を紹介し、分析に対する理解をさらに深めます。
4.1. I-O分析だけでは不十分な場合:CGEモデルの導入
産業連関分析は、その構造上、いくつかの重要な仮定に基づいています。これが、特定の状況下で分析の限界となります。
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価格の固定: 産業連関分析では、需要が増えても財やサービスの価格は変化しないと仮定します。しかし、例えば炭素税の導入のように、経済全体に大きな影響を与える政策は、エネルギー価格の上昇などを通じて相対価格を大きく変化させます。
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供給制約の不存在: 需要があれば、労働力や資本設備といった生産要素は無限に供給され、生産はいくらでも拡大できると仮定します。しかし、現実には労働力不足や設備能力の限界といった供給側の制約が存在します。
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代替の不存在: 生産技術(投入係数)は固定的で、企業は価格が変動しても原材料の組み合わせを変えないと仮定します。また、消費者も価格変動に対して消費パターンを変えないと仮定します。
これらの限界を克服するために開発されたのが、「応用一般均衡(Computable General Equilibrium, CGE)モデル」です
CGEモデルの最大の利点は、価格変動と代替行動をモデルに内蔵している点です。例えば、炭素税が導入されると、モデル内の企業はコストを最小化するために、価格が上昇した化石燃料の使用を減らし、再生可能エネルギーや省エネ技術への投資を増やすといった代替行動をとります。家計も同様に、ガソリン価格が上がれば、公共交通機関の利用を増やすかもしれません。CGEモデルは、こうした経済主体の合理的な反応を織り込みながら、政策が経済全体に与える最終的な影響(GDP、雇用、産業構造の変化など)をシミュレーションできるのです
そのため、GX政策のように、カーボンプライシング導入などによって経済全体の価格体系や産業構造を大きく変革させる可能性のある政策の効果を分析するには、静的な産業連関分析だけでは不十分であり、CGEモデルを用いた動的な分析が不可欠となります
4.2. 経済的影響と費用便益分析
政策やプロジェクトの評価において、経済波及効果分析としばしば混同されるのが「費用便益分析(Cost-Benefit Analysis, CBA)」です。両者は目的も手法も異なり、その違いを理解することは、評価結果を正しく解釈する上で決定的に重要です。
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経済波及効果分析 (EIA): この分析が答える問いは、「ある事業によって、経済活動(生産、雇用、所得)は全体でどれだけ増えるか?」です。これは、地域内での資金の循環、つまり経済の「規模」の変化を測定します。
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費用便益分析 (CBA): この分析が答える問いは、「その事業は、社会全体にとって投下した費用に見合うだけの便益(価値)を生み出すか?」です。これは、社会全体の「厚生(Welfare)」の変化を測定し、資源配分の「効率性」を評価します
。便益には、経済波及効果に含まれない「移動時間の短縮」や「交通事故の減少による損失回避」といった、直接的な金銭取引を伴わない価値も含まれます34 。35
重要なのは、経済波及効果が大きいプロジェクトが、必ずしも費用便益分析上有益であるとは限らないという点です。例えば、巨額の公費を投じて地方に大規模なイベント施設を建設すれば、建設期間中の建設業への発注などを通じて大きな経済波及効果が計測されるかもしれません。しかし、完成後の利用が低迷し、維持管理費が便益を上回り続けるのであれば、費用便益分析の観点からは「非効率な投資」と評価される可能性があります。
公共事業の評価においては、これら二つの分析は相互補完的に用いられるべきです。CBAによって事業の根本的な妥当性(やるべきかどうか)を評価し、EIAによってその事業が地域経済にどのような影響(誰に、どの産業に恩恵が及ぶか)を与えるかを分析する、という使い分けが理想的です。
手法 | 主な問い | 主要指標 | 価格の扱い | 主な用途 |
産業連関分析 (I-O) | ある需要が経済活動(生産額・雇用)をどれだけ誘発するか? | 生産誘発額、付加価値誘発額、雇用誘発者数 | 固定(変化しない) | イベント、観光、特定産業の投資がもたらす経済活動規模の測定 |
応用一般均衡分析 (CGE) | 政策変更(炭素税など)が経済全体の均衡(GDP・産業構造)にどう影響するか? | GDP変化率、実質消費変化率、産業別生産変化率 | 変動(市場で内生的に決まる) | 税制改革、貿易自由化、環境政策など、経済システム全体に影響する政策の評価 |
費用便益分析 (CBA) | 事業は社会全体にとって費用に見合う便益を生むか?(投資効率性の評価) | B/C比(便益費用比)、NPV(純現在価値) | 市場価格をベースに、非市場価値も金銭換算 | 公共事業(道路、ダム、鉄道など)の採択・評価 |
4.3. かけがえのない価値を評価する:文化的・環境的価値を測る方法
経済分析が直面する大きな課題の一つに、市場で取引されない価値、すなわち「非市場的価値」の評価があります。文化芸術イベントがもたらす人々の精神的な満足感、美しい景観が与える安らぎ、あるいは生物多様性が保たれた生態系が持つ「存在価値」などは、私たちの厚生にとって重要であるにもかかわらず、通常の経済指標には現れません
こうした金銭換算が難しい価値を経済的に評価する試みも進んでいます。
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仮想評価法 (Contingent Valuation Method, CVM)
CVMは、アンケート調査を用いて非市場財の価値を推定する代表的な手法です 45。例えば、ある美術館を存続させるために、あなたは年間いくらまでなら寄付してもよいと思いますか?(支払意思額: Willingness to Pay, WTP)と尋ねることで、その美術館が持つ文化的な価値を金銭的に評価しようと試みます 45。この手法は、環境価値の評価などで多くの実績がありますが、質問の仕方によって回答が大きく変わるなどのバイアスも指摘されており、慎重な適用が求められます。
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TEEB (The Economics of Ecosystems and Biodiversity) フレームワーク
TEEBは、生物多様性や生態系サービスがもたらす経済的な価値を「見える化」し、政策決定に反映させることを目指す国際的なイニシアチブです 47。例えば、森林が持つ洪水調整機能や水質浄化機能、あるいはサンゴ礁がもたらす観光資源としての価値や防災機能などを経済的に評価し、それらを破壊した場合の社会的コストを明らかにすることで、より賢明な保全・利用を促します。
これらの手法は、経済効果分析を補完し、より包括的な意思決定を可能にするための重要なツールです。経済的な波及効果だけでなく、社会の厚生に寄与する多様な価値を総合的に評価する視点が、今後の政策評価においてますます重要になるでしょう。
第5章 隠れた落とし穴:経済効果の数字が誤解を招く理由
経済効果の数値は、客観的で科学的な根拠として提示されますが、その算出過程には多くの落とし穴が存在します。意図的であるかどうかにかかわらず、特定の仮定や無視された要因によって、効果が過大に推計されるケースは少なくありません。ここでは、経済効果の数値を鵜呑みにせず、批判的に吟味するために知っておくべき主要な問題点を解説します。
5.1. 過大評価の罠:よくある間違いとバイアス
経済効果が実態よりも大きく算出されてしまう背景には、いくつかの典型的な経済学的概念の無視があります。
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代替効果 (Substitution Effect) の無視
これは最も一般的かつ重大な誤りです。イベントや施設の建設によって生まれた消費が、本当に「新たな」消費なのか、それとも単に他の消費からの「振り替え(代替)」なのかを区別する必要があります 49。例えば、ある市が大規模な音楽フェスティバルを開催し、市民が1万円を消費したとします。もしその市民が、フェスティバルがなければ市内の映画館やレストランで1万円を使っていたとしたら、市全体の消費額は純増していません。消費の場所が移動しただけです。経済効果として計測すべきは、このイベントがあったからこそ新たに生まれた「純増分」であり、代替された分を考慮せずに総消費額をそのまま計上すると、効果は著しく過大評価されます。
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機会費用 (Opportunity Cost) の無視
あるプロジェクトに資源(公的資金、土地、労働力など)を投入するということは、その資源を他の目的で使う機会を放棄することを意味します。この「放棄された選択肢の中で最善のものの価値」が機会費用です 50。例えば、自治体が100億円を投じて新しいスタジアムを建設する場合、その100億円は、減税を通じて市民や企業に還元したり、学校や病院の整備に使ったり、スタートアップ支援に投資したりすることもできたはずです。真に優れたプロジェクト評価とは、そのスタジアM建設がもたらす効果が、これらの代替案がもたらしたであろう効果を上回っているかどうかを問うものです。しかし、一般的な経済波及効果分析は、この機会費用の視点を完全に欠いており、単に「100億円を投じたらこれだけの波及効果があった」と報告するに過ぎません。
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クラウディング・アウト (Crowding Out)
政府が公共事業などのために大規模な財政支出を行うと、その資金調達(国債の大量発行など)が金融市場の金利を上昇させることがあります。金利が上昇すると、民間企業は資金調達コストが高くなるため設備投資を控えたり、個人は住宅ローンの金利上昇を嫌って住宅購入を見送ったりする可能性があります。このように、政府の支出拡大が民間の投資や消費を「押し出してしまう(crowd out)」現象をクラウディング・アウトと呼びます 52。この効果を考慮しないと、公共事業によるプラスの効果だけが計測され、それによって抑制された民間経済活動のマイナス分が見過ごされるため、ネットの効果は過大評価されます。
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二重計上 (Double Counting)
これは技術的な誤りですが、しばしば見られます。例えば、イベントへの来場者が支払った飲食代と、その飲食店が従業員に支払った賃金を、両方とも初期需要(直接効果)として計上してしまうケースです。正しくは、従業員の賃金は来場者の消費という直接効果から生まれた「誘発効果」の一部であり、これらを別々の出発点として計算すると、同じ経済活動を二重に数えることになり、結果が水増しされます 12。
これらの問題点の背景には、経済効果分析がしばしば中立的な科学的調査としてではなく、特定のプロジェクトを推進するための「正当化の道具」として利用されるという構造的な側面があります。プロジェクトの推進者は、資金調達や社会的な合意形成のために、できるだけ大きな経済効果の数値を示したいというインセンティブを持っています。その結果、代替効果や機会費用といった、数値を小さくする可能性のある要因を意図的に無視した、単純な総額算出モデルが採用されやすい傾向があるのです。この政治経済学的な文脈を理解することは、提示された数値を批判的に読み解く上で不可欠な視点です。
5.2. コインの裏側:負の影響を認める
経済活動はプラスの波及効果だけでなく、マイナスの影響(負の外部性)を生み出すこともあります。しかし、多くの経済効果レポートでは、これらのネガティブな側面が考慮されていません。
大規模なイベントや開発プロジェクトは、交通渋滞の悪化、騒音、ゴミ処理問題、治安への負担増といった社会的なコストを地域に課す可能性があります
これらの負のインパクトを無視して、プラスの経済効果だけを強調することは、プロジェクトの全体像を歪めることにつながります。真に包括的な評価を行うためには、プラスの便益だけでなく、社会が負担するコストやマイナスの影響も定量・定性の両面から明らかにし、総合的に判断することが求められます。
以下のチェックリストは、経済効果に関するレポートや主張に接した際に、その信頼性を評価するための思考ツールです。
検証すべき問い | 無視した場合の落とし穴 | 具体例 |
その支出は本当に「新しい」のか? | 代替効果の無視による過大評価 | イベント来場者の消費が、普段の週末のレジャー費の行き先を変えただけではないか? |
他に最善の使い道はなかったか? | 機会費用の無視による妥当性の欠如 | 公共事業に投じた100億円を減税に使った場合の効果と比較しているか? |
誰が、どのように費用を負担したか? | クラウディング・アウトや資金源の影響の無視 | 国債発行で資金調達した場合、金利上昇による民間投資の抑制を考慮しているか? |
すべてのコストが含まれているか? | 負の外部性の無視による便益の過大評価 | 交通渋滞の悪化やゴミ処理費用の増加といった社会的コストを計上しているか? |
適切な分析モデルが使われているか? | モデルの前提条件と現実の乖離 | 価格変動が激しい政策分析に、価格固定を前提とする産業連関分析を使っていないか? |
まとめ:サステナビリティとDX時代の経済影響分析の未来
本レポートでは、「経済効果」という概念を科学的な視点から多角的に解き明かしてきました。その核心は、ある経済活動が引き起こす生産と所得の連鎖反応、すなわち「経済波及効果」であり、その測定には産業連関分析という強力なツールが用いられます。
しかし同時に、この分析が持つ限界や、代替効果、機会費用といった重要な論点を無視することによる過大評価のリスクも明らかにしてきました。
重要な結論は、経済効果分析は有用なツールであるものの、万能ではないということです。洗練された意思決定者は、提示されたヘッドラインの数値を鵜呑みにするのではなく、その背後にある計算の前提を問い、分析の目的に応じて適切な手法(産業連関分析、CGEモデル、費用便益分析など)が選択されているかを見極める必要があります。
そして今、私たちはサステナビリティやDX(デジタルトランスフォーメーション)が経済社会のあり方を根本から変えようとしている時代に生きています。この新しい時代において、経済効果の捉え方そのものも進化を迫られています。
これからの経済価値評価は、単に生産の波及効果を測定するだけでは不十分です。GX(グリーン・トランスフォーメATION)やESG(環境・社会・ガバナンス)への投資がもたらす価値を、より包括的に捉える必要があります。その鍵となるのが、**サステナビリティ価値評価(Sustainability Valuation)**という新しいアプローチです
最終的な目標は、インパクトを事後的に測定するだけでなく、経済的、社会的、環境的にポジティブなインパクトを最大化し、ネガティブなインパクトを最小化するように事業活動を能動的に管理していく「インパクト・マネジメント」へと昇華させることです
経済効果というレンズを通して私たちが見るべきは、単なる金額の大きさではありません。その効果が、持続可能で、公正で、そして強靭な社会経済の実現にどう貢献するのか。私たちの測定ツールを、社会が真に価値を置くものへと進化させていくことこそが、これからの時代に課せられた知的な挑戦と言えるでしょう。
FAQ
Q1: 経済効果を最も簡単に説明する方法は?
A: 池に石を投げ込む様子に例えられます。最初に石が落ちた時の水しぶきが「直接効果」、そこから同心円状に広がっていく波紋が「間接効果」や「誘発効果」です。ある一つの支出が、経済全体に次々と影響を及ぼしていく連鎖反応を金額で示したものが経済効果です。
Q2: 経済効果とGDPの違いは何ですか?
A: 経済効果は、特定のイベントや投資によって引き起こされた経済活動の「総変化量(生産額など)」を測定します。一方、GDP(国内総生産)は、一国経済全体で一定期間内に生産されたすべての最終的な財・サービスの「付加価値の合計」です。経済効果によって生み出された「付加価値誘発額」の部分が、GDPを構成する要素の一つとなります。経済効果は活動の規模を、GDPは生み出された純粋な価値を示す、という違いがあります。
Q3: 同じイベントでも、調査によって経済効果の数値が大きく異なるのはなぜですか?
A: 主に分析の前提条件や手法の違いによるものです。具体的には、①「直接効果」として何をどこまで含めるか(例:地元住民の消費を含めるか)、②代替効果(他の消費からの振り替え)を考慮しているか、③分析対象とする地理的範囲(市、県、国など)と、そこで用いる産業連関表(乗数)が異なる、といった要因が結果に大きな差を生みます。
Q4: 最も信頼性の高い経済効果の分析手法は何ですか?
A: 「最も良い」単一の手法というものはなく、分析したい問いによって最適な手法が異なります。
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経済活動の総量を測る場合: 適切に構築された産業連関分析が標準的です。
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炭素税のように価格体系や資源配分に大きな変化をもたらす政策を分析する場合: 価格変動や供給制約を考慮できるCGE(応用一般均衡)モデルがはるかに信頼性が高くなります。
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公共事業の投資効率、つまり社会全体にとって価値ある事業かを評価する場合: 費用便益分析(CBA)が適切なツールです。
Fact-Check Summary
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経済効果は、新たな支出が引き起こす波及効果であり、「直接効果」「間接効果」「誘発効果」の3層で構成される。
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計算の主要なツールは「産業連関分析」であり、レオンチェフ逆行列を用いて生産の連鎖を定量化する。
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GXのような複雑な政策分析には、価格変動や供給制約を扱える「応用一般均衡(CGE)モデル」が必要となる。
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経済効果の数値は、「代替効果」「機会費用」「負の外部性」などを無視することで過大に評価されやすい。
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「費用便益分析(CBA)」と「経済波及効果分析(EIA)」は異なるツールである。CBAは社会全体の純便益(投資効率)を、EIAは経済活動の総量(規模)を測定する。
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日本の「グリーン成長戦略」が示す2050年290兆円の経済効果は、市場規模予測の積み上げに基づくものであり、厳密なネットの経済波及効果分析とは異なる。
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GXのような大規模投資の国内経済効果を最大化するには、国内調達率を高め、経済的な「漏出(リーケージ)」を最小化することが極めて重要である。
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