蓄電池アービトラージ(裁量取引)の古今東西 科学、歴史、数理モデル

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国際航業株式会社カーボンニュートラル推進部デジタルエネルギーG

樋口 悟(著者情報はこちら

国際航業 カーボンニュートラル推進部デジタルエネルギーG。環境省、トヨタ自働車、東京ガス、パナソニック、オムロン、シャープ、伊藤忠商事、東急不動産、ソフトバンク、村田製作所など大手企業や全国中小工務店、販売施工店など国内700社以上・シェアNo.1のエネルギー診断B2B SaaS・APIサービス「エネがえる」(太陽光・蓄電池・オール電化・EV・V2Hの経済効果シミュレータ)のBizDev管掌。再エネ設備導入効果シミュレーション及び再エネ関連事業の事業戦略・マーケティング・セールス・生成AIに関するエキスパート。AI蓄電池充放電最適制御システムなどデジタル×エネルギー領域の事業開発が主要領域。東京都(日経新聞社)の太陽光普及関連イベント登壇などセミナー・イベント登壇も多数。太陽光・蓄電池・EV/V2H経済効果シミュレーションのエキスパート。Xアカウント:@satoruhiguchi。お仕事・新規事業・提携・取材・登壇のご相談はお気軽に(070-3669-8761 / satoru_higuchi@kk-grp.jp)

むずかしいエネルギー診断を簡単に「エネがえる」
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目次

アービトラージの古今東西 科学、歴史、数理モデル

報告書:日本の再エネ普及と脱炭素化における根源的課題の解析

第1章 はじめに:現代社会における裁定取引の再定義

1.1 報告書の目的と構造

本報告書は、伝統的な金融市場で確立された「裁定取引(アービトラージ)」の概念を、現代の日本の電力市場に適用し、その応用を通じて再生可能エネルギー(以下、再エネ)の普及加速と脱炭素化を阻害する根源的かつ本質的な課題を特定・分析することを目的とする。

裁定取引は、市場に内在する非効率性、すなわち「歪み」を顕在化させ、その是正を促す経済活動である。本稿では、この裁定取引を分析の「レンズ」として用いることで、日本のエネルギーシステムが抱える構造的な問題を多角的に解き明かす。

本報告書は四部構成で執筆されている。まず、第一部では裁定取引の歴史的系譜から数理モデル、そして現代のAI技術への応用まで、その科学的側面を深く掘り下げる。第二部では、この概念を日本の電力市場に具体的に適用し、再エネ大量導入が引き起こす価格構造の変化と、蓄電池による「エネルギー・アービトラージ」の具体的な実践方法を論じる。第三部では、裁定機会の存在が示す日本のエネルギーシステムに内在する物理的・制度的課題を浮き彫りにし、最後に第四部として、これらの課題を克服し脱炭素社会を実現するための提言とロードマップを提示する。

1.2 伝統的金融概念から、脱炭素時代の核心的メカニズムへ

伝統的な裁定取引は、複数の市場や商品間に生じる一時的な価格差(歪み)を利用し、リスクを負うことなく利益を確定させる取引を指す 1。この取引は、市場参加者が増えるほど価格差が短時間で解消され、市場がより効率的な価格形成へと向かう助けとなると考えられている 2

現代の電力市場における「エネルギー・アービトラージ」は、この概念を物理的なエネルギーに応用したものである。

具体的には、市場価格が安価な時間帯(特に再エネの発電が余剰となる日中)に電力を購入・充電し、価格が高価な時間帯(需要が増加する夕方など)に放電・売却することで、価格差を利用して収益を得る取引である 3

この行為は単なる利益追求に留まらない。日中の余剰電力を吸収し、夕方の需要ピークを緩和するこの活動は、電力系統全体の需給バランスを調整し、価格の極端な変動(ボラティリティ)を是正する重要な市場機能として機能する。このように、裁定取引は、金融市場における情報効率性の追求から、脱炭素社会における物理的安定性の担保へと、その役割を本質的に進化させている。

第2章 第一部:古今東西アービトラージの科学、歴史、数理モデル

2.1 裁定取引の源流:金融市場における歴史的系譜

歴史的定義と事例

裁定取引は、同一の価値を持つとされる商品に生じる一時的な価格差を「サヤ取り」と称し、割安なものを購入し、割高なものを売却する戦略を基本とする 1。この取引は、価格差が収縮した時点で反対売買を行うことで利益を確定する 1

その代表的な事例は多岐にわたる。例えば、株価指数等の現物価格と先物価格を利用した取引 2、あるいは、異なる取引所間で同一の証券や仮想通貨に価格差が生じた際に、割安な取引所で買い、割高な取引所で売却する取引などが挙げられる 5。さらに、企業買収(M&A)の発表後、買収先の株価が契約価格に満たない場合に、その価格差を狙って買収先の株式を購入する事例も存在する 6

高頻度取引(HFT)の登場と市場の「歪み」の微細化

裁定取引はかつて、投資銀行の自己勘定部門が主体となって行われることが多かったが、近年ではヘッジファンドの主要な投資手法として定着している 1

特に、2000年代以降、市場に大きな変革をもたらしたのが高頻度取引(HFT)の台頭である。HFTは、取引所のメインコンピュータにサーバーを近接配置するコロケーションサービスなどを活用し、ミリ秒単位で売買を繰り返して微細な価格差から利益を稼ぐ取引手法である 7

HFTは、ある資産が2つの取引所で異なる価格をつけている場合の裁定取引を自動的に実行することが多く、この技術によって、裁定機会は極めて短時間に、そして微細な価格差にまで及ぶようになった 8。これは、裁定取引が人間の判断に依存する伝統的な手法から、数理モデルとアルゴリズムによる自動執行へと歴史的に進化したことを象徴している。

HFTは市場の流動性を高める一方で、その超高速な取引速度が「フロントランニング」などの不正行為を助長する可能性や、急速な価格暴落を引き起こすリスクも指摘されており、その是非については現在も議論が続いている 8

2.2 裁定機会の探索と最適化を巡る数理科学

伝統的な最適化手法

裁定取引の戦略を構築する上で、数理的な最適化手法は不可欠な基盤である。1947年に提案された線形計画法は、与えられた線形の制約条件のもとで、ある一つの目的関数(例:利潤の最大化、費用の最小化)を最適化する手法として産業界で幅広く利用されてきた 9。しかし、金融市場やエネルギー市場のように、価格変動の不確実性が高く、複数の相反する目的(例:収益最大化とリスク最小化、電力市場では収益最大化と蓄電池劣化コスト最小化)を同時に考慮する必要がある問題には、この単一目的の伝統的手法だけでは限界がある 3

多目的計画法とパレート最適解

こうした複雑な問題に対応するため、複数の目的関数を同時に最適化する「多目的計画法」が発展した。この分野では、ある目的を改善するためには、少なくとも他の一つの目的を犠牲にせざるを得ないような、トレードオフ関係にある解の集合として「パレート最適解(非劣解)」の概念が導入された 9。これは、電力市場における蓄電池の運用戦略を立案する上で極めて重要な考え方である。

例えば、充放電回数を増やせば収益機会は増えるが、その一方で蓄電池の劣化が早まり、長期的な経済性は損なわれる 3この相反する目的のバランスを最適化する戦略は、パレート最適解を探索する数理的アプローチによって導き出される

AI/機械学習の応用:強化学習による動的戦略と予測分析

現代の裁定取引、特に不確実性の高い市場環境における最適な運用戦略の構築においては、AI、中でも強化学習(Reinforcement Learning, RL)の応用が革命的な進展をもたらしている 10強化学習は、環境(市場)の状態を観察し、行動(売買や充放電)を行い、その結果得られる報酬(利益)を最大化するように最適な行動方針を自律的に学習する 12

このプロセスは、市場の状態空間、行動空間、報酬関数を定義するマルコフ決定過程(MDP)としてモデル化される 12。AIは、複雑な市場データ(過去の価格、気象情報など)を分析し、手動運用では困難な、高精度できめ細やかな充放電計画を立案することで、収益性を飛躍的に向上させることが可能となる 3

日本の学術界でも、筑波大学の研究者がプロシューマー向けの蓄電池制御に強化学習を応用し、利益増加を目指す研究を発表するなど、この分野は活発な研究テーマとなっている 13。伝統的な最適化手法が静的な制約下の最適解を求めるのに対し、AI/ML、特に強化学習は動的で不確実性の高い市場環境に適応した、より高度な戦略構築を可能にする点で、現代の裁定取引の科学を支える核心技術である。

2.3 伝統的市場と電力市場におけるアービトラージの比較

金融市場と電力市場における裁定取引は、その本質において「市場の歪みを利用する」という共通点を持つ一方で、歪みの源泉や取引の物理的制約において根本的な相違点が存在する。以下の表は、両者の特徴を比較したものである。

表1. 伝統的金融市場と電力市場におけるアービトラージの比較

項目 伝統的金融市場 電力市場(エネルギー・アービトラージ)
目的 異なる市場・商品間の価格差を利用した利益確定 異なる時間帯の価格差を利用した利益確定
取引対象 株式、債券、為替、商品(コモディティ)など 電力量(kWh)
価格差の源泉 情報の非対称性、市場の流動性不足、時間差など 再エネの変動性、需要の季節・時間帯変動、 系統制約(送電容量不足)など物理的要因
主な参加者 機関投資家、ヘッジファンド、HFT業者など 蓄電池事業者、電力小売事業者、発電事業者など
リスクの種類 信用リスク、流動性リスク、市場リスクなど 蓄電池の劣化、充放電効率、市場価格予測リスクなど
数理モデルの適用例 デリバティブの理論価格計算、ポートフォリオ最適化 蓄電池の充放電計画、需給予測、複数市場の同時最適化
市場にもたらす効果 市場の価格発見機能、流動性の向上、効率化 需給バランスの調整、系統安定化、再エネ価値の向上

この比較から、金融市場における裁定取引が情報の非対称性や市場の非効率性を是正するのに対し、電力市場におけるアービトラージは、物理的な需給バランスや系統制約という「歪み」を是正する役割を担っていることが明らかになる。この認識こそが、日本のエネルギー問題の本質を理解する上での出発点となる。

第3章 第二部:日本の電力市場における「エネルギー・アービトラージ」の構造

3.1 再エネ大量導入がもたらす市場価格の構造的変化

価格のボラティリティ拡大

日本の電力市場では、再エネの大量導入と燃料価格の高騰を背景に、市場価格の構造的な変化が起きている。2020年度以降、卸電力市場における価格のボラティリティ(変動性)は顕著に拡大し、特に再エネ、とりわけ太陽光発電の出力がピークを迎える日中には、需要を上回る供給が発生することで価格が大幅に低下する現象が頻発している 15

。ITmediaの報告によると、2023年度には九州エリアで年間2,178コマ(年間コマ数の12.4%)、西日本エリアで約1,200コマの価格が最低価格である0.01円/kWhにまで低下したことが示されている 3

価格差(スプレッド)の拡大

この日中の極端に安価な電力と、需要が増加する夕方以降の高価な電力との価格差は、蓄電池によるアービトラージの収益性を高める最大の要因となっている。

過去5年間(2019年度~2023年度)の卸電力市場における上位と下位6コマの平均値差は10.61円/kWhに達しており、価格差が最も大きかった2022年度と最も小さかった2019年度では、試算される収益性に大きな差が生じることが指摘されている 3

再エネの変動性という課題は、価格のボラティリティ拡大という形で市場に現れ、それが蓄電池によるアービトラージという機会を生み出している。この価格差は、単なるビジネスチャンスではなく、電力系統の物理的な安定性を保つための「調整力」の価値を市場が評価していることの現れである。

3.2 蓄電池によるエネルギー・アービトラージの実践と収益性

収益性を決定する主要因

蓄電池によるエネルギー・アービトラージは、単純に「安く買って高く売る」だけでは成立しない。その経済性を評価するには、以下の複合的な要素を総合的に考慮する必要がある 3

  • 市場価格差: 充放電時の価格差の大きさが収益性を最も左右する。

  • 充放電効率: 現在の高性能リチウムイオン電池の往復効率は85〜90%程度であるが、この効率が低いほど、同じ価格差でも得られる収益は減少する 3

  • 蓄電池の劣化コスト: 充放電サイクルを繰り返すと蓄電池は劣化し、利用可能な容量が減少する 3。この劣化コストを考慮した上で、充放電回数と収益機会のトレードオフを最適化する戦略が不可欠である 3

  • 設備コスト: 競争力のある事業性を確保するためには、蓄電システムの初期コストを5万円/kWh以下に抑えることが目標とされている 3

複数の電力市場への参加戦略

蓄電池の事業収益を最大化するためには、卸電力市場でのアービトラージに加えて、複数の電力市場から多様な収入源を確保する戦略が不可欠である 3。蓄電池は、その特性を活かして以下の3つの主要な市場で異なる役割を果たすことができる。

表2. 日本の電力市場における蓄電池の役割と収益機会

市場名 役割と機能 取引単位 収益源 求められる技術的特性
卸電力市場 市場価格の変動を利用したアービトラージ 電力量(kWh) 売買差益 価格予測、充放電効率、容量の最適化
需給調整市場 系統の周波数維持や需給バランス調整 調整力(ΔkW) 調整力提供報酬 高速応答性、精度の高い充放電制御
容量市場 将来の供給力確保 設備容量(kW) 供給力に対する対価 長期的な安定供給能力

この多角的な市場参加戦略は、蓄電池が単なる電力を貯蔵する装置ではなく、卸電力市場での売買差益(kWh価値)、需給調整市場での調整力提供(ΔkW価値)、そして容量市場での供給力提供(kW価値)という、複数の価値を生み出す「マルチファンクション・アセット」であることを示している 3

特に、系統用蓄電システムにおいては、容量市場と卸電力市場を組み合わせたビジネスモデルが基本とされており、これらの市場を横断的に活用することで、総合的な事業性を確保することが可能となる 3

3.3 AIと最適化技術による運用高度化

蓄電池によるエネルギー・アービトラージの成功は、市場価格の予測精度と、充放電計画の最適化に大きく依存する 4。AIは、この複雑性を解決するための鍵となる技術である。AIは、過去の価格データや気象情報、需要パターンなどの膨大なデータセットを分析し、人間による手動運用では困難な、高精度できめ細やかな充放電計画を立案することができる 3。これにより、アービトラージの収益性を大幅に向上させることが可能となる 3

この技術の具体的な応用例として、大阪ガスの取り組みが挙げられる。大阪ガスは系統用蓄電池事業に参入し、機械学習モデルを用いてスポット市場価格などの電力市場価格を予測することで、蓄電池の運用計画を最適化し、収益性の向上と系統安定化の両立を目指している 14。さらに、同社は蓄電池の劣化診断・寿命予測技術も開発しており 16、長期運用における経済性の課題にも向き合っている。これらの事例は、エネルギー・アービトラージという戦略が、単なる理論上の可能性から、AIやデータサイエンスによって現実の高度な事業モデルへと昇華しつつあることを示している。

第4章 第三部:アービトラージが浮き彫りにする日本の再エネ普及の根源的課題

4.1 物理的課題:日本の「串だんご型」電力系統と系統制約

欧州の「メッシュ型」系統との比較

日本の再エネ普及を阻む最も根源的な課題の一つは、電力系統の物理的構造に起因する。欧州の多くの国々が国境を越えた電力融通が容易な「メッシュ型」系統を構築しているのに対し、日本は南北に細長い島国であり、各エリア間の連系線容量が限られた「串だんご型」の系統構成となっている 17。この構造は、あるエリアで再エネの過剰供給が発生しても、その余剰電力を他のエリアへ広域的に融通することを困難にし、地域ごとの需給バランス調整を強いる構造的な制約となる。

系統制約がもたらす再エネ出力抑制という「機会損失」

この系統構造がもたらす「系統制約」は、特に送電線の容量不足という形で顕在化する 20。太陽光発電の出力が電力需要を上回る時間帯には、系統の安定性を保つために、発電事業者に対して出力抑制を求める事態が発生する 20。現状、この出力抑制に対する補償は行われていないため、再エネ事業者は本来得られるはずの収益を失い、新たな設備投資へのインセンティブが阻害されるという深刻な課題を抱えている 22

裁定取引の視点から見ると、日中の電力価格が最低価格に張り付く現象は、日本の「串だんご型」系統が、再エネの出力変動と需要のミスマッチを吸収しきれない結果として生じる「歪み」の表出に他ならない。これは、発電された場所から消費される場所へと電力が効率的に移動できない系統の非効率性を如実に示している。この物理的なボトルネックこそが、再エネ普及加速を阻む最大の根源的課題である。

政策的対応:「日本版コネクト&マネージ」の現状と課題

系統の空き容量を最大限に活用するため、出力抑制を前提に新規接続を認める「日本版コネクト&マネージ」の仕組みが検討され、導入が進められている 20。しかし、この仕組みは、発電事業者に追加的な費用負担や、出力抑制による機会損失のリスクを転嫁する可能性があり 24、根本的な解決には至っていない。大規模な系統増強には莫大なコストと時間を要するため、既存系統の効率的な活用と新たな技術の導入が不可欠となっている。

4.2 市場・制度的課題:調整力不足と投資インセンティブのミスマッチ

需給調整市場の現状と課題

日本の再エネ導入を加速させる上での第二の本質的な課題は、市場と制度の未熟性である。再エネの変動性に対応するため、電力広域的運営推進機関(OCCTO)主導の下、需給調整市場が段階的に開設された 25。しかし、2024年6月までの運用状況を見ると、多くのエリア・商品において約定量が募集量を下回る傾向が続いており 27、特に高速応答が求められる一次・二次調整力については、未達率が7〜8割と極めて高く、東京や中部エリアでは約定量がほぼゼロという状況も報告されている 27

リソース構成の偏り

需給調整市場の約定量の内訳を見ると、火力発電や揚水発電が中心であり、蓄電池やDR(デマンドレスポンス)といった新しいリソースの約定量はごくわずかである 27。これは、蓄電池が持つ潜在的な調整力提供能力が、市場のルールや制度設計の課題により、十分に活用されていないことを示唆している。

アグリゲーターの課題

小規模な蓄電池事業者にとって、需給調整市場への参加は依然として高い障壁がある。参入には規模の制約や、発動指令を達成できなかった場合の厳しいペナルティリスク、さらには頻繁な制度変更への対応が求められる 4。この課題を解決するため、複数の分散型エネルギーリソース(DER)を束ねて市場参入を可能にする「アグリゲーター」というプレイヤーの役割が期待されている 4。アグリゲーターは、小規模事業者の参加ハードルを緩和し、運用最適化や制度変更への対応を支援する心強いパートナーとなるが 29、その事業環境はまだ発展途上にある。

裁定取引という「歪み修正者」が示す課題の本質

結論として、電力市場に存在するアービトラージの機会は、再エネの普及を阻む物理的・市場的・制度的な「歪み」の顕在化に他ならない。市場が求める調整力(供給力)と、実際に提供されているリソースとの間に大きなギャップが存在している。このギャップは、技術的不足ではなく、蓄電池やDRといった新しいリソースが持つ価値を適切に評価し、その市場参入を促すための制度が十分に機能していないことに起因する。アービトラージという行為は、この歪みを是正し、市場をより効率的で安定した状態へと導く「市場機能」そのものであると再定義できる。

第5章 第四部:脱炭素社会に向けた提言とロードマップ

5.1 2025年以降のアービトラージ戦略:データとテクノロジーの融合

将来のエネルギー・アービトラージ事業者は、単一の市場に閉じこもることなく、卸電力市場、需給調整市場、容量市場など、複数の市場の動向を統合的に分析し、多目的最適化を目指す戦略を構築すべきである 3

この複雑な問題を解決するためには、AI、特に機械学習や強化学習をベースとした高度な運用システムが不可欠となる 3AIによる高精度の価格予測と、蓄電池の劣化コストまで含めた最適な充放電計画の立案は、収益性を最大化すると同時に、系統安定化という社会的要請にも応えることができる。

5.2 根源的課題の克服に向けた政策的アプローチ

日本の再エネ普及を阻む根源的な課題を克服するため、以下の政策的アプローチが不可欠である。

  1. アグリゲーターの役割強化: 分散型エネルギーリソース(DER)を束ね、市場参入を可能にするアグリゲーターの事業環境を早急に整備・強化すべきである 4小規模な事業者も市場に参加しやすい仕組みを構築することで、市場への参加者不足という制度的課題を解決し、眠っている調整力リソースを有効活用することが可能になる 29

  2. 市場メカニズムの改善: 需給調整市場における応札量不足(特に一次・二次調整力)を解消するため、市場ルールや取引要件を、蓄電池やDRの特性に合わせた柔軟なものに見直す必要がある 27。また、再エネ出力抑制に対する適切な補償メカニズムを検討し、事業者の投資インセンティブを回復させることも、中長期的な再エネ普及加速に不可欠な措置である 22

  3. 系統安定化技術への投資: 系統の物理的制約を緩和するため、系統用蓄電池の普及促進や、欧州の事例を参考にしつつ、デジタル技術を活用した系統運用の高度化(コネクト&マネージなど)を加速すべきである 20

結論:アービトラージという科学が示す、日本のエネルギー転換の方向性

本報告書で示したように、日本の再エネ普及加速における根源的な課題は、物理的制約(串だんご型系統)と市場・制度的制約(需給調整市場の未熟性、インセンティブのミスマッチ)に集約される

これらの歪みは、電力市場における価格差という形で明確に現れており、蓄電池による「エネルギー・アービトラージ」という行為が、その是正を担う核心的な役割を果たす。

裁定取引は、単に投機的な行為ではなく、市場の価格情報を正確に反映させ、資源の最適な配分を促すための重要な経済活動である。この経済活動を促進する環境を整備すること、すなわち、AI/MLを活用した高度な運用技術と、アグリゲーターという新しいプレイヤーを包含する柔軟な市場制度を確立することが、日本の脱炭素社会への移行を加速させるための羅針盤となる。

日本のエネルギー転換は、この「市場の歪み」を理解し、裁定取引という経済的な力学を用いてその歪みを自律的に修正する新たな市場メカニズムを構築することで、大きく前進するだろう。

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