目次
- 1 英国サッカー プレミアリーグとEFLの環境サステナビリティ・脱炭素・GX戦略 主要10チームのプロジェクト・イニシアチブ事例
- 2 第1章 新しいルールブック:英国サッカーはいかにしてサステナビリティを体系化したか
- 3 第2章 2025年の先駆者たち:ユニークな取り組みを行うクラブ10選の徹底解析
- 3.1 表1:英国サッカー界をリードするサステナビリティ先進クラブ10選
- 3.2 フォレストグリーン・ローヴァーズ(リーグ・ツー):グローバル・ベンチマーク
- 3.3 トッテナム・ホットスパー(プレミアリーグ):コーポレートESGのリーダー
- 3.4 アーセナル(プレミアリーグ):科学的根拠に基づくイノベーター
- 3.5 マンチェスター・シティ(プレミアリーグ):エネルギー生産者への転換
- 3.6 リヴァプール(プレミアリーグ):グローバルな動員力
- 3.7 ブリストル・シティ(チャンピオンシップ):システム統合の達人
- 3.8 プリマス・アーガイル(チャンピオンシップ):社会の先駆者
- 3.9 サウサンプトン(チャンピオンシップ):創造的触媒
- 3.10 チャールトン・アスレティック(リーグ・ワン):賢い協力者
- 3.11 ウィコム・ワンダラーズ(リーグ・ワン):実践的実行者
- 4 第3章 タッチラインを越えて:英国のテニス、クリケット、ラグビーから学ぶイノベーション
- 5 第4章 アスリートという名の活動家:個人の影響力はいかにして変革を加速させるか
- 6 第5章 日本からの視点:比較分析と脱炭素化への実践的処方箋
- 7 第6章 結論:まだ試合終了のホイッスルは鳴っていない
- 8 付録 I:よくある質問(FAQ)
- 8.1 Q1: 世界で公式にカーボンニュートラルと認定されているサッカークラブはありますか?
- 8.2 Q2: サッカークラブのScope 1, 2, 3排出量とは具体的に何ですか?
- 8.3 Q3: プレミアリーグはサステナビリティに関するルールをどのように強制していますか?
- 8.4 Q4: 科学的根拠に基づく目標イニシアチブ(SBTi)とは何ですか?
- 8.5 Q5: 小規模な下部リーグのクラブでも、本当に気候変動に貢献できますか?
- 8.6 Q6: なぜアスリートが気候変動問題に取り組むことが重要なのでしょうか?
- 8.7 Q7: 日本のJリーグは気候変動に対してどのような目標を掲げていますか?
- 8.8 Q8: 「Project Whitebeam」や「Project 35」とは何ですか?
- 9 付録 II:ファクトチェック・サマリー
英国サッカー プレミアリーグとEFLの環境サステナビリティ・脱炭素・GX戦略 主要10チームのプロジェクト・イニシアチブ事例
第1章 新しいルールブック:英国サッカーはいかにしてサステナビリティを体系化したか
英国のサッカー界では、気候変動対策はもはや単なる企業の社会的責任(CSR)活動や広報の一環ではない。それはクラブ運営の根幹に関わる戦略的必須事項であり、体系化されたルールとガバナンスによって推進される、新たな競争領域へと変貌を遂げている。
この変革を理解することは、スポーツ界だけでなく、あらゆる産業がサステナビリティを事業戦略に統合する上での重要な示唆を与える。英国サッカー界がどのようにしてこのパラダイムシフトを成し遂げたのか、その背景にあるトップダウンのガバナンスと規制の枠組みを解析する。
プレミアリーグ 世界最高峰リーグが示すサステナビリティ基準
世界で最も商業的に成功し、グローバルな影響力を持つプロスポーツリーグであるプレミアリーグは、その地位に相応しい野心的なサステナビリティ戦略を打ち出している。2025年3月に発表された「環境サステナビリティ戦略」は、リーグ全体で環境問題への取り組みを加速させるための明確なロードマップを提示した
この戦略の中核をなすのが、全クラブに課せられた「環境サステナビリティ・コミットメント」である。これは、各クラブが最低限遵守すべき4つの具体的な運用措置を定めている
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堅牢な環境サステナビリティ方針の策定:2024-25シーズン終了までに、各クラブは明確で実行可能な環境方針を策定し、公表することが求められる。
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上級管理職の任命:クラブの環境サステナビリティ活動を主導する責任者として、シニアレベルの従業員を任命することが義務付けられている。これにより、サステナビリティが経営レベルの意思決定に組み込まれることが保証される。
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温室効果ガス(GHG)排出量データセットの構築:2025-26シーズン終了までに、各クラブはScope 1、2、3を含むGHG排出量のデータセットを整備する必要がある。これは、リーグ全体で標準化された測定アプローチを確立するための基礎となる。
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共通の行動枠組みへの貢献:プレミアリーグが主導するサステナビリティ・ワーキンググループを通じて、ベストプラクティスの共有や共通課題への取り組みを促進する。
このプレミアリーグのアプローチは、その巨大な商業的影響力を持つグローバル企業体としての性格を反映した、標準化された企業コンプライアンスモデルと言える。明確な期限と測定可能な目標を設定することで、全クラブに一貫した行動を促し、リーグ全体のブランド価値と説明責任を高めている。
EFLの実践的・段階的アプローチ:コミュニティに根差した変革
プレミアリーグがトップダウンのコンプライアンスモデルを採用する一方で、72のクラブを擁し、より地域社会との結びつきが強いイングリッシュ・フットボールリーグ(EFL)は、異なるアプローチを取っている。それが「EFLグリーンクラブ」スキームである
2021年に開始され、2024-25シーズンに刷新されたこのスキームは、任意参加の枠組みでありながら、クラブがそれぞれの資源や状況に応じてサステナビリティへの取り組みを進めるための、非常に実践的なロードマップを提供している
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ブロンズ:サステナビリティ担当の取締役や責任者を任命し、環境方針を公表し、Scope 1および2のベースラインとなる炭素排出量データの収集を開始するなど、基本的なガバナンス体制の構築が求められる
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シルバー:ブロンズの要件に加え、水、廃棄物、エネルギーなどの分野で具体的な目標を設定し、職員のエンゲージメントを証明し、Scope 3の事業移動(自動車)を含む炭素排出量を算定し、調達方針に環境への配慮を組み込んでいることを示す必要がある
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ゴールド:シルバーまでの全要件を満たした上で、さらに広範なScope 3排出量(事業移動、廃棄物、水、従業員の通勤など)を算定し、明確なネットゼロ目標を設定することが求められる。ゴールドステータスを獲得したクラブは、提携する環境認証機関「GreenCode」の正式な認証も授与される
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このEFLのモデルは、規制というよりも能力開発ツールとしての側面が強い。チャンピオンシップ(2部)のクラブからリーグ・ツー(4部)の小規模なクラブまで、リソースのレベルが大きく異なる多様なクラブが、無理なく、しかし着実にステップアップできる道筋を示している。これは、サステナビリティを一部のエリートクラブだけの取り組みに終わらせず、サッカーピラミッド全体に浸透させるための、極めて現実的かつ効果的な戦略である。
グローバルスタンダード:国連「スポーツを通じた気候行動枠組み」
プレミアリーグとEFLの取り組みの背景には、より大きな国際的な枠組みが存在する。それが、国連気候変動枠組条約(UNFCCC)が主導する「スポーツを通じた気候行動枠組み(Sports for Climate Action Framework)」である
この枠組みは、署名したスポーツ団体に対して、以下の5つの基本原則へのコミットメントを求めている
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環境に対する責任を促進する体系的な取り組みを行う。
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気候への全体的な影響を削減する。
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気候行動のための教育を行う。
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持続可能で責任ある消費を促進する。
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コミュニケーションを通じて気候行動を提唱する。
さらに、この枠組みには2段階のコミットメントレベルが設定されている。基本的な署名に加え、より野心的な目標として「Race to Zero(ゼロへのレース)」キャンペーンへの参加がある。これに参加する団体は、2030年までに排出量を半減させ、2040年までにネットゼロを達成するという、科学的根拠に基づいた厳しい目標を掲げることが求められる
この国連の枠組みは、英国のクラブにとって、自らの取り組みを国際的な基準に照らし合わせ、グローバルな文脈の中に位置づけるための重要な羅針盤となっている。トッテナム・ホットスパーやアーセナルといったトップクラブが「Race to Zero」に署名していることは、彼らの取り組みが単なる国内基準の遵守にとどまらない、世界最高水準を目指すものであることを示している
学術的基盤:「スポーツエコロジー」の台頭
これらの実践的な動きと並行して、学術界でも新たな分野が確立されつつある。それが「スポーツエコロジー(Sport Ecology)」である
スポーツエコロジーの核心は、関係性が一方通行ではないという認識にある。つまり、スポーツ活動が環境に与える影響(例:スタジアムのエネルギー消費、ファンの移動に伴う排出)だけでなく、気候変動がスポーツに与える影響(例:異常気象による試合の中止、選手の健康リスク)も研究対象とする
この学術的な視座は、本レポート全体の分析の根底にある。各クラブの取り組みを評価する際、単に排出削減量といった指標だけでなく、気候変動という避けられない未来に対して、クラブがどのように適応し、事業の持続可能性を確保しようとしているかという「レジリエンス」の観点からも光を当てる。
英国サッカー界におけるサステナビリティの体系化は、プレミアリーグのコンプライアンス主導型モデルと、EFLの能力開発を目的とした階層型モデルという、二つの異なるガバナンス哲学の並存によって特徴づけられる。
この戦略的な分岐は、資源レベルや組織文化が異なる多様な主体を、それぞれの現実に即した形で同じ目標(ネットゼロ)に向かわせるための、極めて洗練されたアプローチである。この事実は、画一的な国家政策が失敗しやすい日本のような国にとって、重要な示唆を与える。つまり、成功する戦略とは、単一の「正解」を押し付けるのではなく、多様なアクターに合わせた複数の道筋を提供する「ポートフォリオ」として設計されるべきなのである。
第2章 2025年の先駆者たち:ユニークな取り組みを行うクラブ10選の徹底解析
英国サッカー界で進むサステナビリティ革命は、リーグ全体の枠組みだけでなく、各クラブの独創的な実践によってその真価を発揮している。ここでは、プレミアリーグの巨大クラブから下部リーグの地域密着型クラブまで、独自の哲学と革新的なアプローチで気候変動対策をリードする10のクラブを選出し、その取り組みを高解像度で分析する。彼らの活動は、サステナビリティが単なるコストではなく、クラブのアイデンティティを形成し、新たな価値を創造する源泉となり得ることを証明している。
表1:英国サッカー界をリードするサステナビリティ先進クラブ10選
クラブ名 | 2024-25シーズン所属リーグ | 主要な取り組み/モデル | 独自の価値提案(UVP) |
トッテナム・ホットスパー | プレミアリーグ | データ駆動型コーポレートESG | 包括的で監査済みの報告(Scope 1, 2, 3)と複数の国連枠組みへの準拠におけるトップランナー。 |
アーセナル | プレミアリーグ | 科学的根拠に基づく技術革新 | SBTi承認のネットゼロ目標を掲げた初のクラブ。エネルギー技術(蓄電池)のパイオニア。 |
マンチェスター・シティ | プレミアリーグ | 大規模エネルギーインフラ | 主要な再生可能エネルギー生産者となり、アカデミーのエネルギー自給自足を目指す。 |
リヴァプール | プレミアリーグ | グローバルなファンエンゲージメントと社会的インパクト | 「The Red Way」プログラムは、人・地球・コミュニティを統合し、グローバルブランドを社会貢献に活用。 |
フォレストグリーン・ローヴァーズ | リーグ・ツー | 哲学主導のホリスティック・サステナビリティ | 国連認定カーボンニュートラル、完全ヴィーガン、オーガニックピッチ。サステナビリティがクラブの核となるアイデンティティ。 |
ブリストル・シティ | チャンピオンシップ | 組織横断的な体系的戦略 | 「Project Whitebeam」は複数のスポーツを傘下に持つグループ全体でサステナビリティを統合。EFLゴールド基準のリーダー。 |
プリマス・アーガイル | チャンピオンシップ | 社会・生態系の統合 | 「Project 35」はクラブの使命を地域の貧困問題と直結させ、サステナビリティを環境指標以上に再定義。 |
サウサンプトン | チャンピオンシップ | 創造的なインセンティブモデル | 「Home Grown Initiative」は、ピッチ上の成功と環境への貢献を直接的かつ具体的に結びつける。 |
チャールトン・アスレティック | リーグ・ワン | パートナーシップ主導型の実践 | 限られたリソースで野心的な目標(生物多様性、排出削減)を達成するため、外部の専門知識(RSK、大学)を活用するモデル。 |
ウィコム・ワンダラーズ | リーグ・ワン | 実践的でファン中心のソリューション | コミュニティへの影響に焦点を当てた、実践的で効果的な施策(シャトルバス、EV充電器)を小規模クラブでも実施可能であることを証明。 |
フォレストグリーン・ローヴァーズ(リーグ・ツー):グローバル・ベンチマーク
英国南西部グロスターシャーに本拠を置くフォレストグリーン・ローヴァーズ(FGR)は、単にサステナブルなサッカークラブであるだけでなく、サステナビリティそのものを存在意義とする、世界で最も先進的なスポーツ組織である。FIFAから「世界で最も環境に優しいサッカークラブ」と称され、2010年にグリーン電力会社エコトリシティの会長デイル・ヴィンス氏がクラブのオーナーに就任して以来、その変革は加速した
FGRの最大の特徴は、国連から世界初のカーボンニュートラルなサッカークラブとして認定されていることである
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100%再生可能エネルギー:スタジアムの屋根に設置されたソーラーパネルと敷地内の追尾式太陽光発電装置で電力を賄い、不足分は親会社であるエコトリシティから100%グリーンエネルギーの供給を受ける
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世界初の完全ヴィーガンクラブ:選手だけでなく、スタジアムでファンに提供される食事もすべてヴィーガンメニューである。これは、畜産業が気候変動に与える甚大な影響を考慮した、極めて大胆かつ象徴的な取り組みだ
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オーガニックなピッチ:化学肥料や農薬を一切使用しない、世界初のオーガニックな芝生のピッチを維持している。散水には雨水を回収・再利用し、芝刈りにはGPS搭載の太陽光発電式ロボット芝刈り機「mow bot」を使用。刈り取られた芝は地元の農家が土壌改良材として利用する、完璧な循環型システムを構築している
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包括的な環境管理:廃食油はバイオ燃料にリサイクルし、EV充電ポイントやパークアンドライド制度を導入して交通排出量を削減。さらに、クラブは欧州連合(EU)の環境管理・監査制度(EMAS)の認証を取得した唯一のサッカークラブでもある
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FGRの取り組みは、観客一人当たりの炭素排出量を2011/12シーズンから42%削減、2017/18シーズンには廃棄物量を14.7%削減するなど、具体的な成果を上げている
トッテナム・ホットスパー(プレミアリーグ):コーポレートESGのリーダー
ロンドンを拠点とするトッテナム・ホットスパーは、巨大な商業的成功と最先端のスタジアムインフラを背景に、大企業としてのESG(環境・社会・ガバナンス)戦略を最も体系的に実践しているクラブの一つである。彼らのアプローチは、データに基づいた透明性の高い報告と、複数の国際的枠組みへのコミットメントによって特徴づけられる。
クラブは国連の「Race to Zero」に署名し、「2030年までに炭素排出量を半減させ、2040年までにネットゼロを達成する」という野心的な目標を掲げている
特筆すべきは、複数の国際基準への準拠である。2025年には、プレミアリーグのクラブとして初めて国連の「スポーツを通じた自然のための枠組み(Sports for Nature Framework)」に署名。生物多様性の保護と回復にもコミットした
具体的な施策も多岐にわたる。スタジアムとトレーニングセンターは100%再生可能エネルギーで運営され、Scope 2排出量はゼロである
アーセナル(プレミアリーグ):科学的根拠に基づくイノベーター
トッテナムのライバルであるアーセナルは、技術革新と科学的根拠に基づく目標設定でサステナビリティ分野をリードしている。彼らの最も画期的な功績は、世界のプロサッカークラブとして初めて、そのネットゼロ目標が「科学的根拠に基づく目標イニシアチブ(SBTi)」によって承認されたことである
SBTiは、企業が設定する温室効果ガス削減目標が、パリ協定の目標(世界の気温上昇を産業革命前から1.5℃に抑える)と整合しているかどうかを科学的に検証・認定する国際機関である。アーセナルの承認された目標は、2040年までにネットゼロを達成することであり、その中間目標として、2030年までにScope 1および2の排出量を42%削減、2040年までには90%削減するという非常に野心的な内容を含んでいる
この目標達成の鍵を握るのが、エネルギーパートナーであるオクトパス・エナジーとの協業である。アーセナルはプレミアリーグで初めて、本拠地エミレーツ・スタジアムを100%再生可能エネルギーで運営するクラブとなった
マンチェスター・シティ(プレミアリーグ):エネルギー生産者への転換
マンチェスター・シティは、自らをエネルギーの「消費者」から「生産者」へと転換させるという、壮大なビジョンを掲げている。その象徴が、本拠地エティハド・キャンパス内にあるシティ・フットボール・アカデミー(CFA)での大規模な太陽光発電プロジェクトである
クラブは、公式ソーラーエネルギーパートナーであるジンコソーラーと協力し、10,000枚以上のソーラーパネルを設置する計画を発表した
エネルギー分野以外でも、シティの取り組みは包括的だ。2030年までにネットゼロを達成するという目標を掲げ、エティハド・キャンパス全体で使い捨てプラスチックを排除
リヴァプール(プレミアリーグ):グローバルな動員力
世界中に熱狂的なファンを持つリヴァプールFCは、その絶大なブランド力と影響力を活用し、ファンを巻き込んだサステナビリティ活動を展開している。その中核となるのが、2021年に開始された包括的なプログラム「The Red Way」である
「The Red Way」は、サステナビリティを「人(People)」「地球(Planet)」「コミュニティ(Communities)」という3つの柱で捉え、国連の持続可能な開発目標(SDGs)のうち16項目と連携している
リヴァプールの取り組みの真骨頂は、ファンエンゲージメントにある。クラブは、サステナビリティがクラブだけの取り組みではなく、ファン、パートナー、スタッフ全員が参加する「旅」であると位置づけている
「The Red Way」は、2024年の「グローバル・サステナビリティ&ESGアワード」で「年間最優秀ESGプログラム」を受賞するなど、国際的にも高く評価されている
ブリストル・シティ(チャンピオンシップ):システム統合の達人
下部リーグに目を向けると、より組織的かつ地域に根差した革新的なモデルが見えてくる。その筆頭が、EFLチャンピオンシップに所属するブリストル・シティである。彼らは「Project Whitebeam」と名付けられた、クラブ単体ではなく、オーナー企業であるブリストル・スポーツが所有する複数のスポーツ組織(ラグビーチームのブリストル・ベアーズ、バスケットボールチームのブリストル・フライヤーズ、そして本拠地アシュトン・ゲート・スタジアム)を横断する、包括的なサステナビリティ戦略を推進している
この統合的アプローチにより、ブリストル・シティはEFLグリーンクラブ・スキームで最高の「ゴールド」ステータスを獲得した最初のクラブの一つとなった
具体的な成果は多岐にわたる。
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地産地消:スタジアムで提供される飲食の50%以上を、12マイル(約19km)圏内から調達している
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廃棄物管理:試合で余った食品は地域のホームレスシェルターに寄付し、食品ロス削減と社会貢献を両立させている
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生物多様性:トレーニング施設には、コウモリや鳥の巣箱、昆虫ホテルなどを設置し、地域の生態系保全に貢献している
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国際的なリーダーシップ:2025年3月には、EFLクラブとして初めて国連の「スポーツを通じた自然のための枠組み」に署名し、生物多様性へのコミットメントをさらに強化した
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ブリストル・シティの「Project Whitebeam」は、単一のクラブではなく、スポーツグループ全体でリソースとノウハウを共有し、相乗効果を生み出すことで、より大きなインパクトを達成できることを示している。これは、複数のスポーツチームを運営する企業や自治体にとって、非常に参考になるモデルである。
プリマス・アーガイル(チャンピオンシップ):社会の先駆者
イングランド南西部の港町プリマスに本拠を置くプリマス・アーガイルは、「サステナビリティ」の概念を環境問題だけでなく、地域社会が抱える深刻な社会課題へと拡張した、ユニークなクラブである。その象徴が、「Project 35」と名付けられた社会貢献イニシアチブだ
「35」という数字は、プリマス市の一部の地区で貧困ライン以下の生活を送る子どもの割合が35%に上るという、衝撃的な事実を示している
この取り組みは、サステナビリティが環境(Planet)だけでなく、人(People)や繁栄(Prosperity)といった社会・経済的側面を含む、より広範な概念であることを体現している。クラブが地域社会の最も困難な課題に寄り添い、その解決のためにリソースを投入する姿は、ファンや地域住民との間に極めて深く、本質的な絆を生み出す。プリマス・アーガイルのモデルは、クラブが単なるエンターテインメント提供者ではなく、地域社会の幸福に責任を持つ「社会的機関(Social Institution)」として機能し得ることを示しており、日本の地域密着を掲げるクラブにとって、これ以上ない示唆に富んでいる。
サウサンプトン(チャンピオンシップ):創造的触媒
サウサンプトンは、アカデミー(育成組織)出身の選手を多く輩出することで知られるクラブの伝統を、サステナビリティ活動と見事に結びつけた。それが「Home Grown Initiative」である
この取り組みは、アカデミー出身の選手が男子または女子のトップチームでデビューを果たすたびに、クラブが250本の木を地元の学校に植樹するというシンプルなものだ
第一に、クラブの核となるアイデンティティ(育成)と環境貢献を直接的にリンクさせている。第二に、「選手のデビュー」というファンが感情移入しやすいポジティブな出来事をトリガーにすることで、サステナビリティ活動を楽しく、魅力的なストーリーに変えている。第三に、植樹という具体的で分かりやすい行動を通じて、クラブの貢献を可視化している。
このモデルは、サステナビリティを義務や規制としてではなく、クラブの成功と連動したポジティブなサイクルとして捉え直す、創造的なアプローチの好例である。ファンは自らが応援する若手選手の活躍が、直接的に地域の緑化に繋がることを実感できる。これは、エンゲージメントと環境貢献を同時に達成する、非常に効果的なストーリーテリング戦略と言える。
チャールトン・アスレティック(リーグ・ワン):賢い協力者
リソースが限られる下部リーグのクラブにとって、野心的なサステナビリティ目標を達成することは大きな挑戦である。リーグ・ワンに所属するチャールトン・アスレティックは、この課題を「パートナーシップ」によって克服するモデルを示している。
クラブは、EFLグリーンクラブ・スキームで「シルバー」ステータスを獲得したが、その背景には、環境コンサルティング大手のRSKグループや、地元のグリニッジ大学、廃棄物管理会社のヴェオリアUKといった外部の専門機関との戦略的な連携がある
このパートナーシップにより、チャールトンは自前の専門部署を持たずとも、高度な知見と技術を活用することが可能になった。例えば、RSKの支援を受けて、温室効果ガス排出量を15%削減するという具体的な目標を設定し、スタジアムとトレーニンググラウンドで合計2,000平方メートル以上の土地に在来種を植栽し、鳥やコウモリの巣箱を設置するなど、専門的な生物多様性向上プロジェクトを実施している
さらに、2025年7月には、国内の試合には飛行機を使用しない、4時間未満の移動には鉄道を優先するといった具体的な目標を盛り込んだ「持続可能な移動方針」を策定した
ウィコム・ワンダラーズ(リーグ・ワン):実践的実行者
サステナビリティは、必ずしも壮大な技術革新や大規模な投資を必要とするわけではない。リーグ・ワンのウィコム・ワンダラーズは、ファンや地域社会にとって身近で実践的な施策を積み重ねることで、EFLグリーンクラブの「シルバー」ステータスを獲得した
彼らのアプローチは、特にファンの行動変容を促すことに重点を置いている。スタジアムへのアクセスにおける環境負荷を低減するため、マッチデーにはシャトルバスサービスを運行し、EV(電気自動車)ドライバーのために敷地内に充電器を設置した
さらに、クラブとして初めて包括的なカーボンレポートを作成し、自らの環境負荷を定量的に把握し、改善点を特定するための基礎を築いた
これらの10クラブの事例を俯瞰すると、一つの重要なパターンが浮かび上がる。
最も成功しているクラブは、単に環境に配負した活動をリストアップするのではなく、サステナビリティを自らの歴史、価値観、地域性といった核となる物語に織り込んでいる。
フォレストグリーンは「反逆のパイオニア」、トッテナムは「コーポレートリーダー」、リヴァプールは「グローバルなコミュニティビルダー」、そしてプリマスは「社会の守護者」といった具合に、それぞれが独自のサステナビリティ・アイデンティティを確立している。この戦略的なブランディングこそが、ファンやスポンサー、地域社会との間に、コンプライアンス遵守だけでは決して生まれない、本質的で強力な繋がりを築く鍵なのである。
第3章 タッチラインを越えて:英国のテニス、クリケット、ラグビーから学ぶイノベーション
英国におけるスポーツのサステナビリティ革命は、サッカー界だけに限定された現象ではない。テニスのウィンブルドン選手権、クリケットのローズ・クリケット・グラウンド、ラグビーのトゥイッケナム・スタジアムといった、それぞれの競技を象徴する歴史と権威を誇る舞台でも、未来を見据えた野心的な環境イニシアチブが次々と導入されている。これらの事例は、異なる競技特性や運営モデルの中から、サッカー界、ひいては日本のスポーツ界全体が学びうる、普遍的かつ革新的な教訓を抽出する上で、極めて重要な示唆を与えてくれる。
ウィンブルドン選手権:サーキュラーエコノミー(循環経済)の習得
テニスの聖地として知られるウィンブルドン選手権は、その伝統と格式を重んじながらも、環境分野では最も急進的な変革を遂げているスポーツイベントの一つである。彼らの戦略の中核にあるのは、「サーキュラーエコノミー」の徹底的な実践であり、その目標は2030年までのネットゼロ達成と廃棄物のゼロ・ウェイスト化である
ウィンブルドンが導入した施策は、単なるリサイクルの徹底にとどまらない。
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使い捨てプラスチックの撲滅:再利用可能なリユーザブルカップの導入により、年間最大50万個のプラスチック製品を削減。また、場内に設置された給水ステーションは、1大会で10万本以上のペットボトルの廃棄を防いでいる
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革新的な素材の導入:名物のストロベリー&クリームの容器には、プラスチックではなく、海藻を原料とした革新的なパッケージを採用。これにより、マイクロプラスチック汚染のリスクを根本から断ち切っている
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資源の完全循環:大会期間中に使用される約55,000個のテニスボールは、廃棄されることなく、英国の希少なネズミの一種であるカヤネズミの巣としてアップサイクルされる
。また、ラケットのストリング(ガット)も回収され、リサイクルに回される37 。37 -
水資源の有効活用:ウィンブルドン名物の雨は、今や貴重な資源である。持続可能な都市排水システムを通じて雨水を回収し、象徴的な芝のコートの灌漑に再利用している
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ウィンブルドンの取り組みは、大規模イベントがいかにして資源を循環させ、廃棄物を価値あるものに転換できるかを示す、世界最高レベルの実践例である。
ローズ・クリケット・グラウンド:伝統と最新技術の融合
「クリケットの聖地」と称されるローズ・クリケット・グラウンドは、その歴史的景観を損なうことなく、いかにして最新のサステナビリティ技術を導入できるかという、難しい課題に対する見事な回答を示している。所有者であるメリルボーン・クリケット・クラブ(MCC)は、「Batting for a Better Future(より良い未来のためのバッティング)」というスローガンの下、包括的な環境戦略を推進している
その戦略は、エネルギー、水、廃棄物といった主要な分野を網羅している。
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100%再生可能エネルギー:2016年以降、敷地内の電力は100%風力発電によって賄われている。さらに、観客席の屋根にはソーラーパネルが設置され、一部のスタンドの冷暖房には地中熱を利用したヒートポンプが導入されている
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高度な廃棄物管理:2010年以降、埋立廃棄物ゼロを達成。資源管理大手ヴェオリア社とのパートナーシップにより、リサイクル率を60%以上に引き上げることを目指している。回収された食品廃棄物は嫌気性消化によってバイオガスと肥料に転換され、リサイクル不可能な廃棄物もエネルギー回収施設で焼却され、地域への電力供給に貢献している
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生物多様性の促進:スタンドの壁面には、鳥やコウモリの巣箱を備えた緑の壁(グリーンウォール)が設置され、12,000以上の植物が生い茂る都市のオアシスとなっている
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ローズの事例は、歴史的建造物や伝統的な景観を持つ施設であっても、最新のグリーンテクノロジーを戦略的に導入することで、環境性能を飛躍的に向上させることが可能であることを証明している。
トゥイッケナム・スタジアム:マテリアルサイエンスと廃棄物イノベーションの開拓
ラグビーイングランド代表の本拠地であるトゥイッケナム・スタジアムは、特に廃棄物問題、中でも最も厄介なプラスチック汚染に対して、最先端のマテリアルサイエンス(材料科学)を導入することで解決策を模索している。
長年にわたり「埋立廃棄物ゼロ」方針を掲げ、食品廃棄物は嫌気性消化によって堆肥化、調理油はリサイクルするなど、高度な廃棄物管理を実践してきた
この「Lyfecycle」技術を用いたカップは、リサイクルされることを前提に設計されているが、万が一リサイクル網から漏れて自然環境に流出してしまった場合、2年以内に自己分解し、マイクロプラスチックや有害物質を残さずに、地球に無害なワックス状の物質に変化するという画期的な特性を持つ
この取り組みは、単にリサイクルを促すだけでなく、リサイクルが失敗した場合の「フェイルセーフ」までを考慮に入れた、次世代のプラスチック汚染対策である。
これらの英国を代表するスポーツ施設に共通しているのは、自らを単なる競技場としてではなく、持続可能な技術や社会システムを実証し、社会に広めるための「生きた実験室(Living Lab)」として活用している点である。
ウィンブルドンは循環型パッケージングの可能性を世界に示し、トゥイッケナムは生分解性ポリマーの実用化を加速させ、ローズは歴史的建造物への再生可能エネルギー導入のベストプラクティスを構築する。
彼らはその世界的なプラットフォームを、スポーツのためだけでなく、グリーンテクノロジーの社会実装を加速させるための触媒として利用しているのだ。この発想は、例えば北海道日本ハムファイターズの新球場「エスコンフィールドHOKKAIDO」のような日本の最新施設が、単なるスポーツの場にとどまらず、日本のGX(グリーン・トランスフォーメーション)技術を世界に発信するショーケースや実証拠点として機能し得る、大きな可能性を示唆している。
第4章 アスリートという名の活動家:個人の影響力はいかにして変革を加速させるか
英国のスポーツ界におけるサステナビリティへのシフトは、組織的な取り組みだけで進んでいるわけではない。ピッチやコート上で輝きを放つアスリートたちが、その影響力を駆使し、社会変革の強力な推進力となっている。特に注目すべきは、彼らの活動が単なるメッセージの発信(アドボカシー)にとどまらず、自らが資本を投下し、事業を創造する「オーナーシップ」の段階へと進化している点である。このパラダイムシフトは、サステナビリティ分野における新たな資金の流れと正当性を生み出している。
ヘクター・ベジェリン:先駆的投資家
元アーセナルのディフェンダーであり、現在はスペインでプレーするヘクター・ベジェリンは、プロサッカー選手が環境活動家としてどこまで踏み込めるか、その境界線を押し広げた人物である。彼の活動は、段階的に進化してきた。
当初は、アーセナルが勝利するたびに3,000本の木を植えるという公約を掲げ、ファンを巻き込んだ植樹キャンペーンを展開した
しかし、彼の真の革新性は、2020年にリーグ・ツーのフォレストグリーン・ローヴァーズ(FGR)の第2位株主となったことにある
この行動は、アスリートの役割を根本的に変えた。彼はもはや単なる「スポークスパーソン」ではなく、サステナブルな事業体の「株主」となった。自らの資本をリスクに晒し、ガバナンスに関与することで、環境問題へのコミットメントを最も強力な形で表明したのである。
クリス・スモーリング:ベンチャーキャピタリスト
元マンチェスター・ユナイテッドのセンターバックで、現在はASローマで活躍するクリス・スモーリングは、アスリートによるサステナビリティ活動をさらに次の次元へと引き上げた。彼は、地球環境に配慮したスタートアップに特化して投資を行うベンチャーキャピタル・コンサルタンシー「ForGood」を立ち上げた
6年前にヴィーガンに転向したスモーリングは、パイナップルの葉を原料とする代替レザー「Piñatex」や植物性食品ブランド「allplants」など、個人的に複数のサステナブル企業に投資してきた経験を持つ
ForGoodのビジネスモデルは、単一の企業に投資するベジェリンのモデルよりもさらに進んでいる。このプラットフォームは、スモーリング自身だけでなく、他のアスリートやミュージシャン、エンターテイナーといった影響力のある個人(彼らは「チェンジメーカー」と呼ばれる)から資金を集め、プレシードからシリーズA段階にある有望なサステナブル企業に5万ポンドから100万ポンド以上を投資する
これは、アスリートが単なる「株主」から、市場を創造する「マーケットメーカー」へと進化したことを意味する。スモーリングは、持続可能な未来を形作るための資金を動員し、有望な起業家を支援するための金融ビークルを自ら創設したのである。彼は、「ピッチ上での功績だけでなく、より大きなスケールで変化をもたらした人物として記憶されたい」と語っており、その野心はForGoodの活動に明確に表れている
広がるエコシステム:アスリートを支える組織
ベジェリンやスモーリングのような個々の先駆者の活動は、彼らを支援し、その影響力を増幅させる組織の存在によって支えられている。米国を拠点とする「Players for the Planet」は、元メジャーリーガーのクリス・ディッカーソンらによって設立された非営利団体で、プロアスリートと環境保護活動を結びつけることを目的としている
また、「Champions for Earth」や「EcoAthletes」といった団体も、アスリートが気候変動について発言するためのトレーニングやサポートを提供しており、アスリート主導の環境活動がより戦略的かつ効果的に行われるためのエコシステムが形成されつつある
アスリートの役割が、単なるメッセージの伝達者から、資本の配分者、そして事業の創造者へと進化しているこの潮流は、計り知れない可能性を秘めている。
彼らの行動は、サステナブルなスタートアップに新たな資金源を提供するだけでなく、その事業や理念を、世界中の何億ものファンに対して正当化し、魅力的なものとして提示する。
このダイナミズムは、まだ十分に活用されていない。
日本のスポーツ界においても、アスリートを単なる広告塔としてではなく、未来への投資家としてエンパワーメントすることが、日本のGX戦略を加速させるための、強力かつ未開拓のレバーとなり得るだろう。
第5章 日本からの視点:比較分析と脱炭素化への実践的処方箋
これまで英国のスポーツ界におけるサステナビリティの先進的な取り組みを詳細に分析してきた。その知見を基に、日本の現状を客観的に評価し、なぜ日本がこの分野で遅れを取っているのか、その根源的な課題を特定する。そして、単なる課題指摘に終わらず、英国の成功事例から導き出される、日本のスポーツ界、ひいては社会全体の脱炭素化を加速させるための、具体的かつ実行可能な処方箋を提示する。
日本の現在地:点在する善意と欠落する全体戦略
日本のスポーツ界、特にJリーグにおいても、気候変動への意識は高まりつつあり、賞賛すべき個別の取り組みは存在する。Jリーグは2023年にサステナビリティ部を設立し、「2030年までにCO2排出量を初年度比で50%削減する」という目標を掲げた
クラブレベルでも、先駆的な活動が見られる。ヴァンフォーレ甲府は、Jリーグで初めて「SDGs宣言」を行い、2004年からリユースカップの導入やゴミの分別回収を行う「エコスタジアム」活動を継続。これにより、使い捨て容器を使用した場合と比較して約76.4トンのCO2排出量を削減したと試算されている
しかし、これらの活動は、英国の先進事例と比較すると、いくつかの構造的な課題を浮き彫りにする。
根源的課題の分析:なぜ変革が進まないのか
日本のスポーツ界におけるサステナビリティの進展が限定的である理由は、個々のクラブや選手の意識の低さにあるのではなく、より根深いシステム上の障壁に起因する。
1. ガバナンスの欠落:クラブライセンス制度の死角
最大の課題は、トップダウンのガバナンスの欠如である。Jリーグのクラブライセンス制度は、クラブの財務健全性、スタジアムの収容人数やトイレの数、人事体制といった基準を厳格に定めており、クラブ経営の安定化に大きく貢献してきた
しかし、このライセンス交付のための必須基準(A等級基準)や、満たせなかった場合に制裁が科される基準(B等級基準)の中に、環境やサステナビリティに関する項目は一切含まれていない
これは、プレミアリーグがGHG排出量の算定を義務付け、EFLが段階的な基準を設けている英国の状況とは対照的である。現状の制度では、クラブがサステナビリティに取り組むかどうかは、完全に個々のクラブの自主的な判断に委ねられており、リーグ全体として行動を促す強力なインセンティブが働いていない。これが、取り組みが一部の意識の高いクラブに限定され、全体に広がらない最大の構造的要因である。
2. 「東京2020」の負の遺産:失われた機会
2021年に開催された東京オリンピック・パラリンピックは、「史上最も持続可能な大会」を標榜していた。大会組織委員会は、大会のカーボンフットプリントを上回るオフセットを実現し、「カーボンニュートラルを越えた」と発表した
3. 「戦略」と「活動」の乖離
日本の多くの取り組みは、ゴミ拾いやフードドライブといった個別の「エコ活動」にとどまりがちである。これらはそれ自体価値のあるものだが、英国の先進クラブのように、サステナビリティがクラブの経営戦略、ブランド戦略、そしてリスク管理の中核に統合されている例は稀である。多くの場合、サステナビリティはCSR部門や地域貢献活動の一環として扱われ、Cスイート(最高経営層)レベルの意思決定とは切り離されている。その結果、クラブのアイデンティティを形成するような、フォレストグリーンやプリマス・アーガイルのような革新的で物語性のある取り組みが生まれにくい構造になっている
日英比較フレームワーク:ギャップの可視化
英国と日本のスポーツ界におけるサステナビリティへのアプローチの違いを、以下の表で体系的に整理する。これにより、日本が取り組むべき課題が明確になる。
側面 | 英国(先進事例) | 日本(現状) | ギャップ/機会 |
トップダウン・ガバナンス | 必須(PL)および構造化された任意(EFL)の枠組み。明確な階層と報告要件。 | Jリーグクラブライセンスに環境基準なし。取り組みは任意で、中央集権的な調整が中心。 | ガバナンスのギャップ:クラブレベルの行動を促進する公式で拘束力のあるメカニズムの欠如。 |
企業戦略 | サステナビリティを中核的な事業戦略に統合(例:トッテナムのESG、FGRのアイデンティティ全体)。 | サステナビリティは、しばしば独立したCSR/地域貢献活動(「エコチャレンジ」)として扱われる。 | 戦略的統合のギャップ:サステナビリティを周辺から経営の中枢へと移行させる必要性。 |
イノベーションと投資 | 新技術(エネルギー、素材)の「生きた実験室」としてのクラブ。VCや投資家としてのアスリート。 | 運用改善(廃棄物分別、試合のREC)に焦点が当てられ、破壊的技術や新ビジネスモデルは少ない。 | イノベーションと資本のギャップ:イノベーションプラットフォームとしてのアスリートやクラブの未活用。 |
ファン・コミュニティエンゲージメント | 深い物語性の統合(リヴァプールの「The Red Way」、プリマスの「Project 35」)が本質的なコミュニティ価値を創造。 | エンゲージメントはイベントベース(例:試合日のフードドライブ)が多く、クラブの核となる物語に統合されていない。 | 物語性のギャップ:サステナビリティを地域のアイデンティティや価値観と結びつけ、より深い関係を築く機会。 |
日本への実践的処方箋:3つの具体的アクション
以上の分析に基づき、日本のスポーツ界が現状を打破し、サステナビリティを真の成長エンジンとするための3つの具体的なソリューションを提案する。
1. ガバナンス改革:「グリーンライセンス制度」の導入
最も根本的かつ効果的な一手は、Jリーグのクラブライセンス制度の改革である。英国EFLの成功モデルを参考に、段階的かつ必須のサステナビリティ基準を導入する「グリーンライセンス制度」を提案する。
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ステップ1(ブロンズ基準):J3ライセンスの必須要件として、環境方針の策定・公表、サステナビリティ担当者の任命、Scope 1・2のGHG排出量の測定を義務付ける。これは、すべてのクラブがサステナビリティに取り組むための第一歩となる。
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ステップ2(シルバー基準):J2ライセンスでは、ブロンズ基準に加え、具体的な削減目標の設定、Scope 3の主要カテゴリ(例:アウェイ移動、廃棄物)の算定、サプライチェーンにおける環境配慮などを求める。
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ステップ3(ゴールド基準):J1ライセンスでは、SBTiに整合するような科学的根拠に基づいたネットゼロ目標の設定、包括的なScope 3排出量の開示、生物多様性への貢献などを求める。
この段階的なアプローチは、クラブの規模やリソースに応じた現実的な目標設定を可能にし、リーグ全体を着実にレベルアップさせる。これにより、サステナビリティは「任意活動」から「必須の経営課題」へと転換される。
2. 新しいビジネスモデル:「GXパートナー」フレームワークの構築
イノベーションと投資のギャップを埋めるため、Jリーグクラブを日本のGX技術のショーケースに変える「GXパートナー」フレームワークを提案する。
これは、各クラブが地域のエネルギー会社、電機メーカー、建設会社など(例:パナソニック、東京電力、ENEOS)と長期的なパートナーシップを締結し、スタジアムや練習施設を、それらの企業が開発する最先端のGX技術(例:ペロブスカイト太陽電池、水素燃料電池、資源循環ソリューション)の実証実験の場として提供するモデルである。
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クラブ側のメリット:新たなスポンサーシップ収入源の確保、施設の光熱費削減、先進的な「グリーンスタジアム」としてのブランド価値向上。
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企業側のメリット:自社技術の性能を多くの観客やメディアの目に触れる形で実証できる「生きた実験室」の獲得、地域貢献を通じた企業イメージの向上、新たな事業機会の創出。
このモデルは、スポーツと産業界が連携し、脱炭素化という共通の目標に向かって価値を共創する、具体的な仕組みを提供する。
3. 地域に根差した物語:「ふるさとサステナビリティ」イニシアチブ
物語性のギャップを克服し、ファンとの本質的な繋がりを深めるために、各クラブが自らの地域アイデンティティに根差した独自のサステナビリティ・イニシアチブを立ち上げることを提案する。これは、プリマス・アーガイルの「Project 35」に倣い、画一的な「エコ」メッセージではなく、その土地ならではの物語を紡ぐ試みである。
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例1:米どころのクラブ(例:アルビレックス新潟):地域の農業と連携し、水田の生物多様性保全プロジェクトや、酒米の生産過程で生まれる副産物を活用したアップサイクル商品の開発に取り組む。
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例2:港町のクラブ(例:横浜F・マリノス、ヴィッセル神戸):海洋プラスチック問題に焦点を当て、サポーター参加型のビーチクリーン活動や、海洋ゴミをリサイクルしたグッズの製作を行う。
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例3:林業が盛んな地域のクラブ(例:松本山雅FC):地元の間伐材を利用したスタジアム備品の導入や、森林保全活動への貢献をクラブのミッションに掲げる。
このアプローチは、サステナビリティを抽象的な地球規模の問題から、自分たちの「ふるさと」を守り、豊かにするための、具体的で共感しやすい活動へと転換させる。これにより、ファンはクラブの取り組みを「自分ごと」として捉え、より強力なエンゲージメントが生まれるだろう。
第6章 結論:まだ試合終了のホイッスルは鳴っていない
本レポートでは、2025年現在の英国サッカー界を震源地とする「グリーンピッチ革命」の全貌を、プレミアリーグから下部リーグ、さらには他競技やアスリート個人の動向まで、多角的に解析した。その分析から浮かび上がってきたのは、英国のスポーツセクターが、サステナビリティを単なるコンプライアンス上のコストやCSR活動としてではなく、クラブの競争力、ブランドアイデンティティ、そして地域社会のレジリエンスを強化するための戦略的価値の源泉へと、見事に転換させたという事実である。
トッテナム・ホットスパーのデータ駆動型ESG経営、アーセナルの科学的根拠に基づく技術革新、フォレストグリーン・ローヴァーズの哲学主導の徹底した実践、そしてプリマス・アーガイルの地域社会の課題と一体化した社会貢献モデル。これらの多様なアプローチは、英国の成功が単一の「設計図」によるものではなく、各組織が自らの状況や価値観に合わせて戦略を構築する「ポートフォリオ」によって成り立っていることを示している。これは、日本のスポーツ界が模倣すべきなのが、個別の施策そのものではなく、自らの文脈に合わせて最適な戦略をデザインするという「思考様式」であることを示唆している。
一方で、日本の現状を分析すると、Jリーグによる全試合再生可能エネルギー化といった意欲的な取り組みはあるものの、ガバナンスの欠如、戦略性の不在、そして物語性の欠落という根源的な課題が、変革の大きな障壁となっていることが明らかになった。
しかし、悲観する必要はない。むしろ、英国という明確なベンチマークが存在する今、日本は飛躍的な進歩を遂げる絶好の機会を手にしている。本レポートで提案した「グリーンライセンス制度」の導入、「GXパートナー」フレームワークの構築、そして「ふるさとサステナビリティ」イニシアチブの推進は、日本が直面する構造的課題を克服し、スポーツを社会全体のGX(グリーン・トランスフォーメーション)を牽引するエンジンへと変貌させるための、具体的かつ実行可能な処方箋である。
気候変動という、人類史上最も困難な試合において、すでに時間はアディショナルタイムに差し掛かっているかもしれない。しかし、まだ試合終了のホイッスルは鳴っていない。日本のスポーツ界、そして社会全体にとって、ネットゼロへのレースは、決して負けることのできない試合である。そして今、その勝利への道筋を示すプレイブックは、かつてなく明確に示されている。行動を起こすのは、まさに今この瞬間である。
付録 I:よくある質問(FAQ)
Q1: 世界で公式にカーボンニュートラルと認定されているサッカークラブはありますか?
はい、イングランドのリーグ・ツーに所属するフォレストグリーン・ローヴァーズが、国連(UN)から世界で初めてカーボンニュートラルと認定されたサッカークラブです。彼らは100%再生可能エネルギーでの運営、完全ヴィーガンメニューの提供、オーガニックなピッチの維持など、クラブ運営のあらゆる側面で環境負荷を最小限に抑える取り組みを実践しています
Q2: サッカークラブのScope 1, 2, 3排出量とは具体的に何ですか?
温室効果ガス(GHG)排出量は、その発生源によって3つの「スコープ」に分類されます。
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Scope 1: クラブが直接所有・管理する排出源からの直接排出。例えば、スタジアムの暖房に使用する天然ガスや、クラブが所有する車両の燃料燃焼などが含まれます
。3 -
Scope 2: クラブが購入したエネルギー(主に電力)の使用に伴う間接排出。スタジアムの照明や空調などで使用する電力がこれに該当します。再生可能エネルギー由来の電力を購入することで、Scope 2排出量はゼロにすることができます
。3 -
Scope 3: 上記以外の、クラブのバリューチェーン全体で発生するすべての間接排出。ファンのスタジアムへの移動、従業員の通勤、購入したグッズの製造、アウェイゲームへの選手の移動、廃棄物の処理などが含まれます。通常、クラブの総排出量の中で最も大きな割合を占め、測定と削減が最も困難です
。3
Q3: プレミアリーグはサステナビリティに関するルールをどのように強制していますか?
プレミアリーグは「環境サステナビリティ・コミットメント」を通じて、全クラブに具体的な行動を義務付けています。これには、2024-25シーズン終了までの環境方針の策定、サステナビリティ担当上級管理職の任命、そして最も重要な点として、2025-26シーズン終了までにScope 1, 2, 3を含むGHG排出量データセットを整備することが含まれます。これらの要件は、クラブライセンスの一部として強制力を持つと考えられ、リーグ全体での基準遵守を確保しています
Q4: 科学的根拠に基づく目標イニシアチブ(SBTi)とは何ですか?
科学的根拠に基づく目標イニシアチブ(Science Based Targets initiative, SBTi)は、CDP、国連グローバル・コンパクト、世界資源研究所(WRI)、世界自然保護基金(WWF)による共同イニシアチブです。企業が設定する温室効果ガス削減目標が、パリ協定が求める「世界の気温上昇を産業革命前から1.5℃に抑える」という目標と科学的に整合しているかを検証し、認定する国際機関です。アーセナルは、このSBTiからネットゼロ目標の承認を受けた世界初のサッカークラブです
Q5: 小規模な下部リーグのクラブでも、本当に気候変動に貢献できますか?
はい、できます。本レポートで紹介したウィコム・ワンダラーズやチャールトン・アスレティックのように、大規模な投資がなくとも、実践的で効果的な貢献が可能です。例えば、公共交通機関の利用を促進するシャトルバスの運行、EV充電器の設置、廃棄物管理の改善、地域の専門機関とのパートナーシップ構築などは、クラブの規模に関わらず実行できます。また、地域社会における啓発活動のハブとしての役割は、小規模クラブだからこそ果たせる重要な貢献です
Q6: なぜアスリートが気候変動問題に取り組むことが重要なのでしょうか?
アスリートは社会に対して非常に大きな影響力と発信力を持っています。彼らが気候変動問題に取り組むことで、この問題をより多くの人々の関心事とし、特に関心が高くない層にもメッセージを届けることができます。さらに、ヘクター・ベジェリンやクリス・スモーリングの例のように、アスリートが投資家や起業家としてサステナブルな事業に直接関与することで、新たな資金の流れを生み出し、グリーン経済への移行を加速させる触媒としての役割も果たし始めています
Q7: 日本のJリーグは気候変動に対してどのような目標を掲げていますか?
Jリーグは、2030年までにリーグ全体のCO2排出量を初年度(2023年を基準とする見込み)比で50%削減するという目標を掲げています。また、2023年シーズンからは、Jリーグの全公式戦で使用する電力を、再生可能エネルギー証書の活用などにより、実質的にCO2排出量ゼロで運営しています
Q8: 「Project Whitebeam」や「Project 35」とは何ですか?
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Project Whitebeam: EFLチャンピオンシップのブリストル・シティが中心となって進める、組織横断的なサステナビリティ戦略です。サッカークラブだけでなく、同じオーナーが所有するラグビー、バスケットボールのチーム、そしてスタジアム全体で連携し、エネルギー、廃棄物、生物多様性などの課題に体系的に取り組んでいます
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Project 35: EFLチャンピオンシップのプリマス・アーガイルが主導する社会貢献プロジェクトです。クラブの本拠地プリマス市で、子どもの35%が貧困状態にあるという社会課題に直接取り組むもので、食料支援や募金活動などを通じて、サステナビリティを社会的な側面から捉え直す先進的な事例です
。28
付録 II:ファクトチェック・サマリー
本レポートの信頼性を担保するため、主要な事実およびデータポイントを以下に要約します。
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プレミアリーグの目標: 2040年までにネットゼロを達成。全クラブは2025-26シーズン終了までにScope 1, 2, 3のGHG排出量データセットを整備することが義務付けられている
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EFLグリーンクラブ・スキーム: 任意参加の階層型(参加者、ブロンズ、シルバー、ゴールド)制度。ゴールドステータスには、包括的なScope 3排出量の算定とネットゼロ目標の設定が必要
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トッテナム・ホットスパーの排出量: 2024会計年度の総GHG排出量は94,056トン。2040年までのネットゼロを目標としている
。9 -
アーセナルの目標: 世界で初めてSBTiに承認されたネットゼロ目標(2040年)を持つサッカークラブ。2030年までにScope 1, 2排出量を42%削減する必要がある
。17 -
マンチェスター・シティの太陽光発電: シティ・フットボール・アカデミーに10,000枚以上のソーラーパネルを設置し、年間最大4.4メガワット時(MWh)の発電を目指す計画
。21 -
リヴァプールFCの成果: 「The Red Way」プログラムを通じて、マッチデーにおけるプラスチックボトルのリサイクル率を25%から90%に向上させた
。23 -
フォレストグリーン・ローヴァーズの実績: 世界で初めて国連からカーボンニュートラル認定を受けたサッカークラブである
。12 -
ウィンブルドン選手権の廃棄物削減: リユーザブルカップの導入により、年間最大50万個の使い捨てプラスチック製品を削減している
。37 -
Jリーグの目標: 2030年までにCO2排出量を50%削減することを目指している。2023年シーズンから全公式戦を実質再生可能エネルギー100%で運営している
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Jリーグクラブライセンス制度: 2025年7月現在、クラブライセンスの必須基準(A等級)および制裁対象基準(B等級)に、環境やサステナビリティに関する項目は含まれていない
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