ENCORE(Exploring Natural Capital Opportunities, Risks and Exposure)とは?自然関連リスク・機会分析ツール

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国際航業株式会社カーボンニュートラル推進部デジタルエネルギーG

樋口 悟(著者情報はこちら

国際航業 カーボンニュートラル推進部デジタルエネルギーG。環境省、トヨタ自働車、東京ガス、パナソニック、オムロン、シャープ、伊藤忠商事、東急不動産、ソフトバンク、村田製作所など大手企業や全国中小工務店、販売施工店など国内700社以上・シェアNo.1のエネルギー診断B2B SaaS・APIサービス「エネがえる」(太陽光・蓄電池・オール電化・EV・V2Hの経済効果シミュレータ)のBizDev管掌。再エネ設備導入効果シミュレーション及び再エネ関連事業の事業戦略・マーケティング・セールス・生成AIに関するエキスパート。AI蓄電池充放電最適制御システムなどデジタル×エネルギー領域の事業開発が主要領域。東京都(日経新聞社)の太陽光普及関連イベント登壇などセミナー・イベント登壇も多数。太陽光・蓄電池・EV/V2H経済効果シミュレーションのエキスパート。Xアカウント:@satoruhiguchi。お仕事・新規事業・提携・取材・登壇のご相談はお気軽に(070-3669-8761 / satoru_higuchi@kk-grp.jp)

目次

ENCORE(Exploring Natural Capital Opportunities, Risks and Exposure)とは?自然関連リスク・機会分析ツール

イントロダクション:炭素の先へ — ネイチャーポジティブ経済の夜明け

気候変動が経営における最重要課題として定着した今、世界の視線は次なるフロンティアへと注がれています。それは「自然資本」です。気候危機と生物多様性の損失という「双子の危機」は、もはや別個の問題としてではなく、相互に連関した地球規模のシステムリスクとして認識されています 1

炭素排出量という単一の指標を追うだけでは、企業の持続可能性は担保できません。水、土壌、森林、そしてそこに息づく無数の生命が織りなす生態系サービスこそが、あらゆる経済活動の根源的な基盤だからです。

この新たな潮流を制度化したのが、2023年に最終提言が公表された「自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)」です 2。気候関連のTCFDがデファクトスタンダードとなったように、TNFDは今後、企業が自然との関係性を評価し、開示するための世界標準となることが確実視されています。この市場全体の要請に応えるため、企業や金融機関は、自社の事業活動が自然にどう依存し(Dependencies)、どのような影響(Impacts)を与えているのかを具体的に評価するための実践的なツールを渇望しています。

その決定的な答えとなるのが、国連環境計画(UNEP)などが支援するツール「ENCORE(Exploring Natural Capital Opportunities, Risks and Exposure)」です 4。ENCOREは、経済活動と自然資本の複雑な関係を網羅的にマッピングし、潜在的なリスクと機会を可視化するために設計された、現時点で最も先進的なデータベースの一つです 6。まさに、TNFDという新たな航海に乗り出す企業にとって、必須の羅針盤と言えるでしょう。

本稿は、日本の企業および金融機関の担当者が、このENCOREを戦略的に活用し、来るべきネイチャーポジティブ経済の勝者となるための、2025年時点における最も包括的かつ実践的なガイドです。

単にツールの機能を解説するに留まらず、その分析から得られるインサイトを日本の特殊な文脈、特に「脱炭素化の加速」と「生物多様性保全」という二律背反に見える課題に適用し、具体的かつ実行可能な解決策を提示することを目的とします。

自然資本リスクを単なるコンプライアンス上の脅威ではなく、事業変革と新たな価値創造の好機へと転換するための戦略的思考のフレームワークを、ここに示します。

参考:ツールの実践④ENCORE 自然関連財務情報開示のためのワークショップ《ベーシック編》 第2回 自然関連の依存・影響・リスクの分析に活用できるツールの紹介・実践(環境省)

 

Part 1: ENCOREの解剖 — 2025年ナレッジベースへのディープダイブ

ENCOREを戦略的に活用するためには、まずその構造と基本概念、そしてその能力を飛躍的に向上させた最新アップデートの内容を正確に理解する必要があります。このセクションでは、ENCOREの根幹をなす概念を解き明かし、2024年7月に実施された画期的なアップデートの詳細を分析します。

コアコンセプトの解明:自然資本の言語を学ぶ

ENCOREを理解するための基礎となるのは、「自然資本」「生態系サービス」「依存」そして「影響(圧力)」という4つのコアコンセプトです。

  • 自然資本(Natural Capital): これは、水、大気、土壌、鉱物、そして動植物といった自然資産の「ストック」を指します 7。ENCOREの最新版では、これらの自然資本は「生態系コンポーネント(Ecosystem components)」と呼ばれ、IUCN(国際自然保護連合)の世界生態系類型2.0に整合する形で分類されています 4。これらが、経済が依存する財やサービスの源泉となります 6

  • 生態系サービス(Ecosystem Services): 自然資本というストックから生み出される、経済活動を可能にする便益(フロー)のことです 6。例えば、「水の供給」「花粉媒介(ポリネーション)」「全球的な気候調整」といったサービスがなければ、農業や製造業は成り立ちません 9

  • 依存(Dependencies)と影響(Impacts/Pressures): 企業と自然の関係は、この二つの側面から捉えられます。「依存」とは、企業が事業活動を行う上で、生態系サービスをどれだけ必要としているかを示します。一方で「影響」とは、企業の活動が自然資本に与える負荷のことであり、最新版では「圧力(Pressures)」という用語で整理されています(例:水質汚染、土地利用の変化など) 6ENCOREのデータベースは、この「依存」と「影響」という2つの経路(パスウェイ)が相互に連携するように設計されており、自社の活動が与える影響が、巡り巡って自社が依存する生態系サービスを毀損するリスクを分析することが可能です 8

ゲームチェンジャーとなった2024/2025年メジャーアップデート:ユーザビリティと分析範囲の革命

2024年7月に実施され、2025年時点でツールに完全統合されたメジャーアップデートは、ENCOREを単なる専門家向けのツールから、あらゆる企業が活用できる戦略的インスツルメントへと昇華させました 4。これは単なるマイナーチェンジではなく、グローバルスタンダードへの準拠とユーザーニーズへの対応を目的とした、根本的な再設計でした。

  • 独自分類から世界標準(ISIC)へ: これまでENCOREは92の独自「生産プロセス」分類を使用していましたが、最新版では271の「経済活動」へと移行し、その分類基準として世界標準産業分類(ISIC)が採用されました 11。これは極めて重要な変更です。なぜなら、企業の内部管理データや金融機関のポートフォリオデータは、多くがISICコードに準拠しているため、データの突合や分析が飛躍的に容易になり、導入障壁が劇的に下がったからです 4

  • グローバルな環境経済会計(SEEA-EA)との整合: 生態系サービスの分類も、従来の21項目から、国連が定める環境経済会計-生態系会計(SEEA-EA)に準拠した25項目へと拡張されました 11。特筆すべきは、これまで評価対象外だった「文化的生態系サービス(例:レクリエーション、景観の美的価値)」が追加された点です 4。これにより、観光業や不動産業など、文化的な価値に大きく依存するセクターの評価も可能になり、より包括的な分析が実現しました。

  • 比較可能なマテリアリティ評価の実現: 以前のマテリアリティ(重要性)評価は定性的なものが主で、セクター間のリスク比較が困難でした。最新版では、可能な限り定量的な指標に基づき、かつ「生産額1ユーロあたり」の基準で評価されるようになりました 4。これにより、異なる業種の事業活動が持つ自然関連リスクの大きさを、初めて客観的に比較・検討することが可能になったのです。

  • 隠れたリスクの可視化(バリューチェーン分析): 今回のアップデートで最も画期的と言えるのが、サプライヤー(上流2段階)と消費者(下流2段階)の主要なバリューチェーン連携に関する情報が追加された点です 4企業の自然関連リスクは、自社の直接操業よりも、むしろサプライチェーンの上流に偏在することが少なくありません。この機能により、これまで見過ごされがちだった間接的なリスクを特定し、評価の対象とすることが可能になりました。

これらのアップデートは、ENCOREの分析能力を質・量ともに向上させ、TNFDが求めるレベルの評価を実施するための強固な基盤を提供します。

機能 旧バージョン 2025年版 (2024年7月アップデート後) ユーザーにとっての戦略的意義
経済分類 92の独自「生産プロセス」 271の**世界標準産業分類(ISIC)**に基づく「経済活動」 自社の事業部門や投融資先のポートフォリオを直接マッピングでき、分析の効率と精度が劇的に向上する。
生態系サービス 21のCICES分類に基づくサービス 25の**国連環境経済会計(SEEA-EA)**に準拠したサービス 「文化的サービス」が追加され、より包括的な評価が可能に。グローバルな報告基準との整合性が高まる。
影響要因 11の「インパクトドライバー」 13の「圧力(Pressures)」 TNFDなど最新のフレームワークの用語と整合し、理解と報告が容易になる。
マテリアリティ評価 定性的でセクター間比較が困難 定量的指標を導入し、「生産額あたり」で標準化 セクター横断でのリスクの大きさの客観的な比較が可能となり、ポートフォリオレベルでの優先順位付けが容易になる。
バリューチェーン 対象外 上流・下流各2段階の主要な連携データを追加 自社の直接操業範囲外に存在する、しばしば最大の「隠れたリスク」を特定・評価する強力な手段となる。

ENCOREのエンジンルーム:評価手法とその限界を理解する

ENCOREの分析結果を正しく解釈するためには、その評価手法の科学的根拠と、ツール固有の限界を認識しておくことが不可欠です。

  • 科学的基盤: ENCOREのナレッジベースは、科学雑誌、査読付き論文、業界報告書などの広範な文献レビューと、各分野の専門家による検証を経て構築されています 4。これにより、その分析は客観的で強固なエビデンスに基づいています。

  • 限界①:最終評価ではなく、スクリーニングツールであること: 最も重要な点は、ENCOREが提供するのは、あくまでグローバルレベルでの「潜在的な」依存・影響関係であるということです。特定の企業や事業所における「実際の」リスクを示すものではありません 5。したがって、ENCOREはリスク評価の第一歩である「スクリーニング(ふるい分け)」ツールとして活用し、ここで特定された重要項目については、事業所の立地や操業状況を考慮した、より詳細な評価へと進む必要があります。

  • 限界②:バリューチェーンの網羅性: バリューチェーン分析は画期的ですが、そのデータはEE-MRIOデータベースに基づき、上流2段階までに限定されています 14複雑なサプライチェーンを持つ製品の場合、原材料の採掘や栽培といった最も源流の段階まで到達しない可能性があります。ユーザーはこの点を認識し、必要に応じて独自の調査で補完することが求められます。

  • 限界③:化石燃料の除外: ENCOREのフレームワークでは、石炭や石油などの化石燃料の「ストック」は自然資本として扱われません 14。そのため、化石燃料の採掘や利用に関連する依存・影響は、このツールでは直接的に評価されない点に注意が必要です。

これらの限界を理解した上で活用することで、ENCOREはその真価を最大限に発揮します。ENCOREは万能の解決策ではなく、企業の自然関連リスク・機会の評価プロセスを加速させ、より深い分析へと導くための、極めて強力な出発点なのです。

Part 2: 理論から実践へ — TNFD LEAPフレームワークでENCOREを使いこなす

ENCOREの真価は、TNFDが提唱するLEAPアプローチという実践的なフレームワークの中で活用されることで最大限に発揮されます。このセクションでは、ENCOREがLEAPアプローチのどの段階でどのように貢献するのかを明確にし、世界的なベストプラクティスと日本企業を想定した具体的な活用シナリオを通じて、理論を実践へと橋渡しします。

TNFDの基盤となるENCORE:LEAPアプローチとの連携

TNFDは、企業が自然関連の課題を評価・管理するための具体的な手順としてLEAPアプローチを提示しています 15。これは、Locate(発見)、Evaluate(診断)、Assess(評価)、Prepare(準備)の4つのフェーズから構成されます。ENCOREは、特に初期段階である「発見」と「診断」において、不可欠な役割を果たします。

  • Locate(発見): 自社の事業活動と自然との接点を特定するフェーズです。ENCOREの持つ地理空間データマップ機能は、自社の事業所やサプライチェーンが存在する地域が、どの程度、自然資本の枯渇リスクに晒されているかの初期的なホットスポット分析に活用できます 6

  • Evaluate(診断): 特定された接点における依存関係と影響を診断する、LEAPアプローチの中核です。ここがENCOREの主戦場となります。ENCOREが提供するISICコード別の膨大な依存・影響リストは、まさにこの診断フェーズの出発点として設計されています 2企業は自社の事業ポートフォリオをISICコードに沿って整理し、ENCOREと照合するだけで、診断すべき優先項目を網羅的かつ迅速に洗い出すことができます。簡易的なスクリーニングであれば数分で、金融機関がポートフォリオ全体を分析する場合でも数日で完了させることが可能です 2

LEAPフェーズ ENCOREの支援機能・分析
Locate (発見) 地理空間データマップによるホットスポットの初期的な特定
Evaluate (診断) ISICコードに基づくセクター別の依存・影響分析、マテリアリティ評価、バリューチェーン連携の特定
Assess (評価) 「診断」フェーズで得られたデータに基づき、より詳細なリスク・機会の評価(財務影響分析など)を行うための基礎情報を提供
Prepare (準備) 「評価」フェーズの結果を受け、戦略策定や情報開示の準備を行うための根拠データを提供

グローバル・ベストプラクティス:英国年金基金Nest社の事例(2025年7月公表)

ENCOREをポートフォリオレベルで活用した先進事例として、英国の大手年金基金Nestのケーススタディは、他の金融機関にとって重要な指針となります 12

  • 背景(Why): 運用資産481億ポンド(約8.8兆円)を誇るNestは、自然関連の財務リスクへのエクスポージャーを理解し、初の生物多様性ポリシーを策定する必要がありました 19

  • 手法(How): 2024年、NestはアップデートされたENCOREのナレッジベースを活用してリスクスクリーニングを実施しました。ENCOREが選ばれた理由は、その透明性の高いオープンソースな手法と、自社の保有銘柄データと容易に結合できる点にありました 19。分析の目的は、高リスクセクターの特定、バリューチェーンを含めたエクスポージャーの把握、そして特に重要な生態系サービスと環境圧力を明らかにすることでした 19

  • 主要な発見(What):

    • 投資先企業の31%が、直接操業において少なくとも一つのマテリアル(重要)な自然への依存を抱えていました。

    • サプライチェーンの上流(Tier 1およびTier 2)を考慮に入れると、マテリアルな依存へのエクスポージャーは著しく増大しました。これは、ENCOREの新しいバリューチェーン分析機能の決定的な重要性を示す結果です 19

    • 最も重要な依存先水関連の生態系サービスであり、最も大きな影響を受ける生態系コンポーネント「種」「土壌・堆積物」「水」でした 19

  • 成果(Outcome): この分析により、Nestは複雑な自然関連リスクを可視化した平易なエクスポージャーマップを作成し、より詳細な分析を行うべき優先セクターを特定することができました。この結果は、年次報告書(Responsible Investment Report)に掲載され、エンゲージメント(対話)、議決権行使、そして資本配分におけるESGの優先課題として、自然資本を明確に位置づける根拠となりました 19

日本企業のための実践ガイド:仮想シナリオによるウォークスルー

Nestの事例を参考に、日本の製造業(例:「日本ビバレッジ株式会社」)がENCOREを活用するプロセスを仮想的に見てみましょう。

  • ステップ1:スコープ設定(Locate): まず、自社の主要な事業活動を特定します。この場合、ISICコード「1104:非アルコール飲料製造業;鉱水及び瓶詰水の生産」が該当します。

  • ステップ2:初期スクリーニング(Evaluate): ENCOREの「Explore」機能を使い、ISICコード1104を検索します。すると、このセクターが「地表水」および「地下水」に非常に高く依存し、「水利用」や「固形廃棄物」の面で高い圧力をかけていることが瞬時に判明します。

  • ステップ3:バリューチェーンの探索(Evaluate): 次に、新しいバリューチェーン機能を活用します。すると、上流に「サトウキビ栽培(ISIC 0114)」や「プラスチック製品製造業(ISIC 2220)」との強い結びつきがあることがわかります。これにより、自社の直接操業だけでなく、原材料調達における土壌の質への依存や、容器製造におけるプラスチック汚染といった間接的なリスクと影響が浮かび上がります

  • ステップ4:優先順位付け(Assess): 水への依存に関するマテリアリティ評価が「Very High」であることから、同社は水リスクを最重要課題として特定します。そして、原材料調達地域における水ストレスを詳細に分析するため、地理空間情報を扱う専門的なツール(例:WRI Aqueduct)を用いた、より深い評価へと進むことを決定します。

このように、ENCOREは複雑な自然関連の課題を、具体的で管理可能なステップへと分解するための、極めて有効な出発点となるのです。

Part 3: 日本市場へのインサイト — 国家戦略と企業実践から見るENCOREの応用

ENCOREはグローバルなツールですが、その真価は各国の固有の文脈に適用されて初めて発揮されます。このセクションでは、日本の国家戦略や経済界の動向とENCOREを接続し、国内先進企業の具体的な活用事例を深掘りします。そこから見えてくるのは、日本の脱炭素化が直面する根源的な課題と、ENCOREがその診断に果たす役割です。

国家戦略と経済界の要請に応える

ENCOREの活用は、単なる個別企業の取り組みに留まらず、日本の国家目標や経済界全体の要請と完全に同期しています。

  • 「生物多様性国家戦略2023-2030」との整合性: 2023年に閣議決定されたこの国家戦略は、昆明・モントリオール世界生物多様性枠組に準拠し、「ネイチャーポジティブ経済の実現」を5つの基本戦略の一つに掲げています 1。特に重要なのは、旧戦略とは異なり、金融機関や投資家を目標達成のための重要な「実現者(イネイブラー)」として明確に位置づけた点です 20。企業が生物多様性の価値を事業プロセスに統合することを求めるこの国家戦略に対し、ENCOREはまさにその具体的な評価手法を提供します。

  • 経団連「生物多様性宣言」との連携: 2023年に改定された経団連の宣言は、企業に対し、サプライチェーン全体で自然との関係性を把握し、その取り組みをカーボンニュートラルやサーキュラーエコノミーと統合的に推進することを求めています 3。これは、ENCOREが提供するバリューチェーン分析機能や、経済活動と自然資本の相互作用を体系的に整理するアプローチと完全に一致しており、経団連が示す方向性を実践するための強力なツールとなります。

国内先進企業の活用事例:SMBCグループとNTTドコモ

ENCOREは既に日本のリーディングカンパニーによって活用され、具体的な成果を生み出し始めています。金融セクターと非金融セクターの代表例を分析することで、その応用の深度が見えてきます。

  • SMBCグループ(金融セクター):

    • SMBCグループは、TNFDレポートの中でENCOREを積極的に活用し、投融資先セクターの自然資本への依存・影響ヒートマップを作成しています 25

    • この分析から得られた重要な発見は、多くのセクターが「水」に高く依存しているという事実でした。これを基に、SMBCは米国のNGOであるCeresが開発したツールキットを用いて、特に飲料セクターなどにおける詳細な水ストレス分析へと駒を進めました 27

    • ENCOREによる網羅的なスクリーニングから、具体的なリスク(水ストレス)を特定し、より詳細な分析へと繋げるこのアプローチは、金融機関のリスク管理高度化のモデルケースと言えます。分析結果は、サステナブルファイナンス戦略の策定や、顧客のネイチャーポジティブへの移行支援に直接活かされています 27

  • NTTドコモ(非金融セクター):

    • NTTドコモは、ENCOREを初期スクリーニングに用い、自社のバリューチェーンにおける最重要課題として「資源採掘」、特に通信インフラに不可欠な金属資源のリスクを特定しました 29

    • 同社の特筆すべき点は、ENCOREの分析を起点としながらも、そこに留まらない高度なアプローチです。生物多様性ホットスポットを特定する「IBAT」や、資源採掘と社会紛争の関連をマッピングする「Environmental Justice Atlas」といった複数の専門ツールを組み合わせ、銅や金などの鉱物資源調達におけるサプライチェーン上のリスクを、地理空間的に特定する詳細な分析を行っています 29

    • そして、この分析結果は具体的な行動変容に結びついています。サプライヤー評価基準に「鉱物トレーサビリティ」の項目を追加し、サプライチェーン・ガイドラインを改訂するなど、リスク管理体制の強化に直結させているのです 29

これらの事例から浮かび上がるのは、ENCOREが単独で完結するツールではなく、より広範なリスク・機会評価プロセスの「起点」として機能しているという事実です。先進企業は、ENCOREで全体像を把握し、特定された重要項目について専門ツールで深掘りするという、洗練されたワークフローを構築しています。

さらに、この2社の事例は、金融と事業会社で自然関連リスクの捉え方が異なるという重要な構造を示唆しています。金融機関であるSMBCは、投融資先の事業継続性を脅かす「依存リスク」(自然の劣化が顧客の財務に与える影響)に主眼を置いています。一方、事業会社であるドコモは、自社の調達活動が環境や社会に与える「影響リスク」(サプライチェーンにおける環境破壊や人権侵害が自社の評判や事業継続に与える影響)を重視しています。銀行にとってのリスクは、事業会社が生み出す影響であり、その逆もまた然りです。ENCOREは、この両者が同じデータ基盤の上で対話し、連携するための「共通言語」としての役割を果たすポテンシャルを秘めているのです。

日本の脱炭素化におけるボトルネックの特定:土地利用のネクサス

これらの分析を統合すると、日本のサステナビリティ移行における根源的な課題が浮かび上がってきます。

脱炭素化の切り札として期待される太陽光や風力といった再生可能エネルギーの導入は、必然的に広大な土地を必要とします。ENCOREを用いて再生可能エネルギー発電セクター(ISIC大分類35など)を分析すると、「土地の形状(Land geomorphology)」への高い依存度と、「陸域生態系の利用(Use of terrestrial ecosystems)」という形で高い圧力をかけていることが明確に示されます。

これは、国土が狭く、山がちで、かつ生物多様性のホットスポットが点在する日本にとって、極めて深刻なジレンマを意味します。すなわち、日本の持続可能な移行における最大のボトルネックは、技術や資金の不足ではなく、「エネルギー確保」「生物多様性保全」「食料生産」などが限られた土地を奪い合う物理的・生態学的な制約、いわゆる「エネルギー・生物多様性・土地利用のネクサEcosystemsス」30にあるのです。

この構造的課題を定量的に診断し、可視化する上で、ENCOREは強力な分析ツールとなります。日本の脱炭素化は、このネクサス問題を解決しない限り、真の意味で持続可能にはなり得ないのです。

Part 4: 実行可能な解決策 — 日本のネイチャーポジティブ移行への戦略的青写真

ENCOREを用いて日本の根源的課題を診断した今、次に求められるのは具体的かつ実行可能な解決策です。ここでは、前章で特定した「エネルギー・生物多様性・土地利用のネクサス」というボトルネックを解消するための、相互に連関した3つの戦略的ソリューションを提示します。

解決策1:戦略的ゾーニングによる「ポジティブ・インパクト立地」の推進

  • 課題: 再生可能エネルギー施設の無秩序な開発は、貴重な生態系を破壊し、地域社会との軋轢を生む原因となっています 31。個別の事業ごとに環境アセスメントを行う従来の手法では、国全体の最適解を導き出すことは困難です。

  • 提案: ENCOREのセクター別影響データと、地理空間情報システム(GIS)を組み合わせた、プロアクティブ(事前対応型)なゾーニングの導入を提案します。これは、再生可能エネルギー開発に適した「促進地域」、一定の配慮が必要な「条件付き許容地域」、そして開発を原則として避けるべき「保全優先地域(No-Go Zone)」を、科学的データに基づき国や自治体レベルで事前にマッピングするアプローチです。

    • 具体的には、ENCOREが示す再生可能エネルギーセクターの環境圧力データをベースマップとし、その上にNTTドコモの事例のようにIBAT等から得られる生物多様性重要地域のデータ、農地や国立公園などの土地利用データを重ね合わせます 30。これにより、開発による負の影響を最小化し、社会・生態系への便益を最大化できる「低コンフリクト・ゾーン」を特定することが可能になります。これは、場当たり的な開発から、国土全体の持続可能性を考慮した戦略的な土地利用計画への転換を意味します。

解決策2:ネイチャー・ベースド・ソリューション(NbS)によるトレードオフの緩和

  • 課題: たとえ「低コンフリクト・ゾーン」に立地したとしても、開発が自然に与える影響をゼロにすることはできません。このトレードオフをいかに緩和し、さらには共存共栄(コベネフィット)へと転換するかが鍵となります。

  • 提案: ここで有効となるのが、自然の力を活用して社会課題を解決するネイチャー・ベースド・ソリューション(NbS)です。特に、日本の土地利用ネクサス問題に対する直接的な解決策として、アグリボルタイクス(営農型太陽光発電、ソーラーシェアリング)の積極的な導入を提案します 32

    • アグリボルタイクスは、農地の上部に太陽光パネルを設置し、農業と発電を両立させる画期的な手法です。

    • これにより、食料生産を継続しながらクリーンエネルギーを生み出すだけでなく、パネルによる適度な日照調整が作物の品質向上や水利用の効率化に繋がる、土壌の健全性が保たれ生物多様性(特に花粉媒介者の生息地)が向上するなど、複数のコベネフィットが報告されています 32

    • 米国の「ジャックス・ソーラー・ガーデン」のような成功事例は、これが単なる理論ではなく、ビジネスとして成立しうることを証明しています 32。耕作放棄地の増加が社会問題化している日本において、アグリボルタイクスは土地の有効活用、エネルギー自給率向上、地域農業の活性化、そして生物多様性保全という複数の課題を同時に解決する、まさに一石四鳥のソリューションとなり得ます。

解決策3:生物多様性情報を組み込んだグリーンファイナンスによる未来への投資

  • 課題: 戦略的ゾーニングの推進やアグリボルタイクスの普及には、大規模な初期投資が必要です。この資金をいかにして円滑に供給するかが、社会実装の成否を分けます。

  • 提案: ENCOREとTNFDがもたらす質の高い情報開示を基盤とした、次世代型のグリーンファイナンス市場の創出を提案します。

    • 従来のグリーンボンドは、その使途が生物多様性に与える影響について、具体的かつ測定可能な基準を欠いているケースが多く見られました 33

    • しかし、ENCOREを活用したTNFD開示は、この状況を一変させます。企業やプロジェクトが、自然資本への依存度や影響度を定量的に示すことで、投資家はより信頼性の高い投資判断を下せるようになります。

      • 「ポジティブ・インパクト・ゾーン」ボンド: 例えば、前述のゾーニングで特定された「促進地域」でのみ再エネ開発を行うプロジェクトに対して発行されるボンド。そのインパクト指標として「回避された重要生息地の面積(ヘクタール)」などを設定できます 34

      • 「アグリボルタイクス」ボンド: 営農型太陽光発電所の建設資金を調達するボンド。インパクト指標として「発電量(MW)」や「食料生産量(トン)」に加え、「花粉媒介者の種数の増加率」といった生物多様性指標を組み込むことが可能です 34

    • このように、ENCOREは「質の高い情報開示 → 信頼性の高い金融商品 → 革新的な解決策への資金供給」という好循環を生み出す触媒となります。これにより、日本のネクサス問題を解決するための資金が市場から円滑に供給される道筋が拓かれるのです。

再生可能エネルギーの種類 関連するISIC Rev.4 コード 説明
太陽光発電 3510 (Electric power generation) ISIC Rev.4では独立したコードはないが、Class 3510の中で太陽光発電事業として識別される。ENCOREはこれを個別の経済活動として分析可能。
風力発電 3510 (Electric power generation) 太陽光と同様、Class 3510に包括される。洋上・陸上を含む。
地熱発電 3510 (Electric power generation) Class 3510に包括される。
バイオマス発電 3510 (Electric power generation) 木質、廃棄物、バイオ燃料など多様な燃料源を含む発電活動がClass 3510に分類される。

注:国際的な分類の精緻化に伴い、今後改訂されるISIC Rev.5では、再生可能エネルギー発電を包括する独立したクラス「3512」が新設される予定です 36

結論:ネイチャーポジティブな未来への第一歩

本稿では、自然関連リスク・機会分析ツールENCOREの2025年最新版について、その機能、方法論、そして日本市場における戦略的応用までを包括的に解説しました。

ENCOREはもはや、一部の専門家やESG担当者だけのものではありません。TNFDの世界的な普及に伴い、それは企業の持続可能性と競争力を左右する、経営戦略の中核ツールとなりつつあります。特に日本においては、ENCOREは単なるリスク評価ツールに留まらず、脱炭素化と生物多様性保全という国家的課題の根源にある「土地利用のネクサス」を的確に診断する、強力なレンズとして機能します。

本稿が提示した「ポジティブ・インパクト・ゾーニング」「ネイチャー・ベースド・ソリューション(アグリボルタイクス)」「生物多様性情報を組み込んだグリーンファイナンス」という3つの連動した解決策は、この根源的課題を克服し、日本がネイチャーポジティブ経済への移行を主導するための具体的なロードマップです。

日本の経営者、投資家、そして政策立案者に求められるのは、自然資本をコストや制約としてではなく、イノベーションと新たな価値創造の源泉として捉え直すパラダイムシフトです。その変革の第一歩として、ENCOREのドアを叩き、自社と自然との関係性を深く見つめ直すことから始めてみてはいかがでしょうか。そこには、リスクの先にある、豊かで強靭な未来への道筋が示されているはずです。

よくある質問(FAQ)

Q1: ENCOREとTNFDの主な違いは何ですか?

A1: TNFDは、企業が自然関連のリスクと機会を評価し、開示するための「フレームワーク(枠組み)」です。一方、ENCOREは、そのフレームワーク、特にLEAPアプローチの初期段階である「Locate(発見)」と「Evaluate(診断)」を実践するための具体的な「ツール(道具)」です。TNFDが「何をすべきか」を示し、ENCOREが「どう始めるか」を支援する関係にあります 2。

Q2: ENCOREを使えば、TNFDレポートが完成しますか?

A2: いいえ、完成しません。ENCOREは、あくまで網羅的なスクリーニングを行い、優先的に評価すべき重要項目を特定するためのツールです。完全なTNFDレポートを作成するには、ENCOREの分析結果を基に、事業所の立地や操業状況を考慮した詳細なリスク・機会の評価(財務影響の定量化など)や、具体的な戦略・ガバナンス体制の開示が別途必要になります 5。

Q3: 2024/2025年のアップデートで、ENCOREはどのように使いやすくなりましたか?

A3: 最大の改善点は、経済活動の分類が世界標準産業分類(ISIC)に準拠したことです。これにより、多くの企業が自社の事業部門や投融資先のデータを直接ENCOREにマッピングできるようになり、分析の導入ハードルが劇的に下がりました。また、マテリアリティ評価が定量化されたことで、セクター間のリスク比較が容易になりました 4。

Q4: 私の会社は「高インパクト」なセクターではありません。ENCOREを使う意味はありますか?

A4: 大いにあります。最新のENCOREはバリューチェーン分析機能を備えており、自社の直接操業のリスクが低くても、サプライチェーンの上流(原材料調達など)に潜む重大なリスクを明らかにすることができます。多くの企業にとって、最大のリスクは自社の事業範囲の外に存在します 4。

Q5: 金融機関として、ポートフォリオ分析にENCOREを使い始める最初のステップは何ですか?

A5: 最初のステップは、投融資先のポートフォリオをISICコード別に整理することです。次に、ENCOREのナレッジベース(ダウンロード可能)とこのポートフォリオデータを照合し、各セクターの自然資本への依存度と影響度のマテリアリティ・スコアを算出します。これにより、ポートフォリオ全体でどのセクターが最も高いリスクを抱えているかを迅速に特定できます。英国の年金基金Nestの事例が優れた参考になります 19。

Q6: ENCOREは、事業所の場所によるリスクの違いをどのように考慮しますか?

A6: ENCOREのセクター別評価自体は、グローバルレベルのものであり、特定の場所のリスクを直接反映するものではありません。しかし、ENCOREは地理空間データと連携する機能も備えており、これを活用することで、自社の事業所が生物多様性のホットスポットや水ストレスの高い地域に立地しているかどうかを初期的にスクリーニングすることが可能です。本格的な評価には、IBATなどの専門的な地理空間情報ツールとの併用が推奨されます 14。

Q7: 「アグリボルタイクス」とは何ですか?なぜ日本にとって重要なのでしょうか?

A7: アグリボルタイクス(営農型太陽光発電)は、農地で農業を続けながら、その上部空間に太陽光パネルを設置して発電する仕組みです。国土が限られ、食料とエネルギーの確保が共に重要な課題である日本にとって、土地を奪い合うことなく両者を両立できるアグリボルタイクスは、土地利用のネクサス問題を解決する非常に有効なソリューションです 32。

ファクトチェック・サマリー

本稿で提示された分析と提言は、以下の客観的な事実に基づいています。

  • ENCOREは2024年7月にメジャーアップデートされ、そのナレッジベースは世界標準産業分類(ISIC)および国連環境経済会計(SEEA-EA)と整合性がとられました 4

  • ENCOREは、TNFDのLEAPアプローチにおける「Evaluate(診断)」フェーズで活用が推奨される主要なツールの一つです 2

  • 英国の大手年金基金Nestは、2024年にアップデートされたENCOREのナレッジベースを用いてポートフォリオ分析を実施し、その結果を2025年7月に公表しました 19

  • SMBCグループおよびNTTドコモは、自社の自然関連情報開示において、ENCOREを活用していることを公表している日本企業です 27

  • 日本政府が策定した「生物多様性国家戦略2023-2030」は、ネイチャーポジティブ経済の実現を主要な目標として掲げています 20

  • 複数の学術研究や政策分析において、日本における再生可能エネルギーの普及拡大と、生物多様性保全との間には、土地利用を巡る深刻な競合関係(ネクサス)が存在することが指摘されています 30

  • アグリボルタイクス(営農型太陽光発電)は、エネルギー生産と農業を両立させ、生物多様性にも貢献しうるネイチャー・ベースド・ソリューションとして、国内外で実証事例が増えています 32

  • グリーンボンド等のサステナブルファイナンス市場では、生物多様性への貢献度を測る具体的かつ信頼性の高い指標の確立が課題とされています 33

著者情報

国際航業株式会社カーボンニュートラル推進部デジタルエネルギーG

樋口 悟(著者情報はこちら

国際航業 カーボンニュートラル推進部デジタルエネルギーG。環境省、トヨタ自働車、東京ガス、パナソニック、オムロン、シャープ、伊藤忠商事、東急不動産、ソフトバンク、村田製作所など大手企業や全国中小工務店、販売施工店など国内700社以上・シェアNo.1のエネルギー診断B2B SaaS・APIサービス「エネがえる」(太陽光・蓄電池・オール電化・EV・V2Hの経済効果シミュレータ)のBizDev管掌。再エネ設備導入効果シミュレーション及び再エネ関連事業の事業戦略・マーケティング・セールス・生成AIに関するエキスパート。AI蓄電池充放電最適制御システムなどデジタル×エネルギー領域の事業開発が主要領域。東京都(日経新聞社)の太陽光普及関連イベント登壇などセミナー・イベント登壇も多数。太陽光・蓄電池・EV/V2H経済効果シミュレーションのエキスパート。Xアカウント:@satoruhiguchi。お仕事・新規事業・提携・取材・登壇のご相談はお気軽に(070-3669-8761 / satoru_higuchi@kk-grp.jp)

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